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再インストール(4)
四角い茶色の物体が神里の前に転がっている。あたりは白っぽい広い空間だったが、ふりむくとダイニハウスの玄関があった。引越の最中だった、と神里は思い出す。
顔をあげると昴が長い木の棒のようなものを振っていた。昴の腕が動くたびに、神里の周囲にある四角い茶色の物体がひょいひょいと動き、積みあがって建物になる。あれが新しい家なのだった。例によって昴は手際がいいな。昴の方へ歩いていこうとしたとき、足元の地面に直行する線がずらずらと伸びているのに気づいた。線と線の交点にはアルファベットと数字が振ってある。
なんだこれ、スプレッドシートかよ。昴のやつ、こんなところに家を建てるとあとが大変だぞ。根拠もなくそんなことを思いながら昴が作った家の前に立つと、玄関、リビング、階段と、すべて完璧なのだった。すごいな、やるじゃないか、と神里はいう。昴は玄関に立ってすまし顔だ。得意げだな、と笑いながら神里は昴に迫った。いつのまにか靴を脱いで部屋の中にいて、白っぽい柔らかい壁に昴の背中を押しつけている。顔を寄せるとふたりで使っているシャンプーの匂いがした。神里は昴に自分の体を押しつけながら――
――目を覚ました。
半分だけカーテンで覆われた窓から明るい光がさしこんでいる。今度の部屋はベランダに面した掃き出し窓があって、以前使っていたカーテンは腰高窓用で、長さが足りなかった。昨夜は一応吊るしてみたものの、明るい中でみるとやっぱり変だった。
たぶんホームセンターでカーテンも売っているはずだ。引越当日までは自転車さえ買えばいいと思っていたが、案外必要なものがある。
夢の内容は急速に薄れていったが、昴の(実際はたぶん布団の)弾力の記憶はなまなましかった。神里は横になったまま、うしろめたさと興奮の混じった落ちつかない気持ちをまるめた掛布団にこすりつける。はじめてではないのだ。近ごろ、というか夏のエアコン修理の一件以来、昴は神里の夢にちょくちょく登場するのだった。目が覚めている時はそんな風に意識することはたぶん(たぶん)ないのだが……。
夏に起きたような出来事はそのあとはなかった。要はあんなふうにひとつの布団で密着して寝るとか、そんなシチュエーションはなかったということだ。だがもう一度そんな機会があったらどうなるか、神里には確信がなかった。
昴とはまるで示し合わせたように、あの日のことについては一度も話していない。不動産屋の件についてお互いに黙っているのと同じように。自分だけが過剰に意識しているのか、それとも昴もそうなのか。
ダイニハウスを移ることになってから、神里のなかでひとつだけ、はっきりしたことがあった。
昴と別々に住むのは自分にとって考えられないということだ。たとえば実家に住むなんて今となってはありえない気がするが、昴と一緒ならどこでもいいな、と思ってしまう。
それはまあ、何年もふたりだけで住んでいたわけだし、そのあいだにけっこういろいろなことをふたりでやってきたから。
そういえば九月は焼肉を食べに行かなかった。家事分担のポイント戦で勝利した方がおごられるという毎月の行事である。表は順調に埋まっていたが、休日はダイニハウスの家主と相談したり不動産屋を回ったりで気持ちが慌ただしく、なんとなく流れてしまっていた。昨日の焼肉はというと、神里の両親の奢りである。昴のことだからそのうちいってくるだろうと神里は思い直す。
買ったばかりの自転車で昴と行ったホームセンターはだだっ広く、DIY材料や園芸用品、生活雑貨はもちろん、酒や食料品も売っていた。二階にはフードコートもあって賑わっていた。フードコートでラーメンを食べたあと、昴は台所用品の棚をじっくり吟味し(これと決まった製品がない場合、昴の買い物は時間がかかるのだ)神里は遮光防音機能表示のついた濃紺のカーテンを買った。
調理器の売り場にいた昴に合流すると、吊るされた四角い物体を指さして「これ、どう」と尋ねてくる。
「ああ――ホットサンドメーカー」
夏に神里が実家に帰った時、家族が作ったホットサンドが美味かったので、フライパンで作るやり方を教えてもらったのである。実家にあったような専用の焼き型があるとひっくり返すのが楽でいいと思ったのだが、ずっと忘れていた。昴はよく覚えているものである。何を考えているのかわからないこともあるが、彼なりの気遣いがあるのを神里はよく知っている。もっともこの件に関しては、暗にホットサンドをもっと食べたいというだけかもしれない。
「コンロ用ならこれがよさそうだ。ネットの評判もいいし、肉も焼ける」
神里は昴が差し出したスマホの画面をのぞきこむ。
「電気のやつもあるな」
「洗うのが面倒らしいぞ」
昴がレビューを読みながらいったので、神里は素直にその商品をカートに入れた。さらに食パン、ホットサンドの具になりそうな食材をはじめ、ビールその他のアルコールも買いこみ、自転車の前カゴは買い物袋でいっぱいになった。
「夕飯、ホットサンドにするか」
ペダルをこぎながらそういうと、昴は異議がありそうな表情になる。
「夕飯でホットサンド?」
「酒のつまみにいいだろう」
「部屋は片付いたのかよ」
「昴はゲームしてろよ。俺が作るから」
神里は飲みたい気分だった。昨日は親がいたせいか、どうも落ちつかなかったのである。
神里の言葉のせいかどうかはわからないが、家に戻って買いこんだものを片づけると昴はリビングでゲームをはじめた。神里はホットサンドを二種類(ハムとチーズ、明太子ペーストとマッシュポテトとチーズ)をつくり、冷凍の餃子を焼いた。餃子とホットサンドの皿をリビングに持っていくと、昴が入れ替わりのように立ちあがり、冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。
「おつかれ」
なんとなく乾杯して食べ始める。三角に切ったホットサンドからはチーズがとろっとあふれて、辛子の濃い黄色と混ざりあっている。
「うまい」黙々と食べていた昴がいった。
「次は他の具もいれてみるか」
テレビ画面はゲームメニューで静止していて、音楽だけが流れてくる。昴がかなりの長期間やりこんでいるゲームなので、一度もプレイしたことがない神里もすっかりなじんだ音楽だった。いつもとおなじ、どうということもない会話のあいまに「神里のおやじさんたち、まだ東京?」と昴がきく。
「午後から移動したんじゃないか。日光で宿とってるはずだから」
「仲いいな」
「そうかな。普通だと思う」
「うちが父親しかいないからそう思うのかも」
「昴は仲悪くないんだろ?」
「べつに、普通だけど……大学出てからは話をすることもめったにないし」
神里はビールを飲みながら思いつきで喋った。
「あれじゃないか、昴のおやじさんも、スイッチが入るまでうまく話せないタイプ」
「なんだそれ」
「昴と同じだよ」
「僕が?」
「そうだろ」
昴は考えこむような目つきになった。
「そうかな」
「自覚ないのかよ。俺と話してるときはまあ、普通だけど。昨日うちのおやじと喋ってたときもスイッチ入ってただろ」
「僕はいつも普通だよ」
ふてくされたような口ぶりが可笑しかった。神里はちびちびビールを飲みながら食べ物をつまむ。昴はコントローラーを握ってまたゲームをはじめた。物理的にありえないサイズの剣を背負ったキャラクターが巨大な敵にキックするのを眺めていると、だんだん眠くなってきた。たいして飲んでもいないのに、疲れているのだろうか。何度も繰り返されるバトルシーンの音楽を聴きながら、いつのまにか眠りこんでいた。
ぱっと目をあけるとテレビは消えていて、隣には誰もいなかった。時計をみると二時間以上ぐっすり眠っていたらしい。リビングのテーブルもキッチンもきれいに片付いていた。すすいでさかさまにしたビールの空き缶がシンクの横にならべてある。トイレに行って風呂場をのぞくと洗い場が濡れていた。昴のやつ、寝るのなら起こしてくれてもいいのに。いささかうらめしく思いながら神里は顔を洗い、歯を磨いた。階段をあがったとき、昴の部屋から声がきこえたように思った。ドアが何センチか開いている。なんとなくドアの前で立ち止まったとき、また声が響いた。うめいているように聞こえて、気になった。
隙間に手をかけて中をのぞく。部屋の大部分は暗くて、デスクライトとパソコンの光に照らされている。画面の中に肌色がみえた。ベッドの上にイヤホンのコードがまるまって落ちている。つぎにみえたのはベッドの上で横向きになっている昴で、半分めくれたパジャマの下に裸の尻がみえた。神里がまじまじとみつめたとき、後ろにまわった昴の手が動いた。
『あっ、うんっ、ああっ……』
パソコンの画面から音が聞こえるのと同時に、昴の口からも「ああっ……」という声がもれた。神里は唾を飲みこんだ。
えっと――まずい。
股間が硬くなったことに狼狽したとたん、指が把手をはじいてしまった。ドアが大きく開いて、ぎいっと鳴った。昴の背中がびくっと動き、こっちをみた。尻のあいだから丸いピンク色のものが頭をのぞかせている。神里の股間がまたきつくなった。昴がゆっくり起き上がるのがみえた。
『そこっ、もっと……』
『ここがいいのか?』
『うん、そう、そう、ああっ』
パソコンから声が響いているが、昴は何もいわなかった。黙ったまま神里をみている。
何秒くらい経っただろう?
神里は一歩前に踏み出した。ベッドに座ったままの昴の肩に手をおいて、キスをした。
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