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番外編 チヂミの日

 休日だというのに、夜中からずっと雨の音がきこえていた。  カーテンをあけると朝になった今も、窓の外が白くけぶるほど降っている。神里友佑はのびをしてタンスから着替えをひっぱりだした。今週はエアコンを入れなくても眠れるほど気温は下がった。しかしこんなに雨が降っていると、湿気で床はぺたぺたするし、起きると汗をかいているのは変わらない。  そのまま部屋を出ようとして、なんとなくダブルサイズのベッドをふりむく。壁にくっついたミノムシさながら、タオルケットにくるまった塊があるが、神里がごそごそ動いても微動だにしない。出かける予定もない連休の中日だから、起こす必要もないだろう。神里は階段を下りてシャワーを浴びた。  いつのまにか敬老の日から秋分の日までをシルバーウイークと呼ぶことになっているらしいが、今年は先週も台風が接近して天気が悪かった。遠出をする予定はなかったとはいえ、こんな雨だとスーパーでまとめ買いなどするには面倒である。神里は冷蔵庫の中身を思い浮かべる。のんびり寝すぎたので朝飯というにはやや遅いが、昼には早い。いったい何を食べようか。神里はキッチンの収納をパタパタと開け、チヂミを作ることにした。  それなりに料理をする神里だが、いわゆる本格的な料理趣味はない。チヂミだって、配合された粉に卵と水と具を混ぜるだけだ。具はニラ、冷凍のむきエビ、豚肉の細切れを発掘する。これだけ材料があれば十分だろう。熱したフライパンにゴマ油をうすく流して最初の一枚を焼いていると、キッチン横のリビングに人影があらわれる。 「おう」  神里が声をかけても同居人は返事もせず、寝起きの頭をコンロの方へ突き出してじっと眺めた。 「チヂミ」 「そ。食う?」 「ん」  昴は一音節の返事だけを残して背を向けた。うしろ姿を神里はなんとなく眺める。 「昴、それ俺のTシャツじゃね?」  昴の足がぱたっと止まる。両手がTシャツの裾をひっぱった。肩がずれているのはサイズが大きいからだ。神里はゆったりビッグサイズが好きだし、昴はなで肩なので、よけいに大きく見える。 「――ほんとだ。まちがえた」  昴は着るものに関しては適当なところがあって、スニーカーは神里のものを時々つっかけている。焼肉のやり方だのタオルの干し方だの、細かいところは妙に神経質なくせに、おかしなものだ。 「着替える」 「いいよ、そのままで。今日はどこにも行かないだろ。雨だし」  それきり昴の方を見もせずに、神里はチヂミをひっくりかえす。ほどよく焦げ目がついていい感じである。玄関に出しっぱなしのスニーカーはともかく、服については物干しからそれぞれが自分の部屋に回収するから、きっとその時取り違えたのだろう。神里が昴のTシャツをまちがって着ることはたぶんないが(サイズの関係で、首を通す時点で嫌でも気がつくはずだ)逆はありえるということだ。  しかしそれにしても、以前の家から数えて同居十年を超えるのに、昴がTシャツをまちがえたのはこれが初めてのような気がする――そんなことを思いながら神里は焼きあがったチヂミをまな板にのせ、格子状に包丁を入れた。サクッと分割できれば気持ちがいいものだが、ニラの繊維が一部つながっているようだ。ま、いいか。  神里は細かいことを気にしないたちである。そのまま皿にうつし、テーブルに運びながら「できたぞ」と首をめぐらすと、昴は神里のTシャツを着たままリビングでコントローラーを握っている。  窓の外はいまだに雨で真っ白だ。神里は酢と醤油とゴマを適当に混ぜてタレを作った。昴がいつのまにかこっちに来て、冷蔵庫をあけている。 「コーラ?」 「それとコチュジャン」 「これか」  チヂミなんておやつみたいなものだが、休日の午前中から焼きたてのおやつというのも悪くない。神里は自分のタレにコチュジャンをたっぷり加え、箸でひと切れをつまむ。まだ熱いチヂミの外側はパリッとして、しかし口に入れると思ったよりふんわりしている。ニラの風味にエビのプリッとした舌触りもいい。  昴も箸をのばし、ひと切れとった――かと思いきや、繊維が切れなかったニラがもうひと切れ、皿からぶらぶらとつながっている。なんとなく眺めていると、昴は無表情でチヂミを皿に戻し、箸でニラの繊維を切り離して、あらためてひと切れをとった。自分ならそのままどっちもいただいてしまうだろうに。そう思っても神里は口に出さず、昴が皿に残した方を箸でとる。無言で食べていると皿の上はたちまち空になる。 「もう一枚食うよな?」  昴の返事を待たずに神里はガス台の前に戻り、二枚目のチヂミを焼きはじめた。ひとつのフライパンで小さめのを二枚とか、そんな器用なことはできないので、神里のチヂミはいつもフライパン全体で調理されるのである。焼きあがるのを待ちながらぼんやりテーブルをみると、昴はかがんで脛をさすっている。 「どしたの」 「痒くてさ」 「蚊に刺された?」  昴は答えないが、神里は返事をもとめていたわけでもない。二枚目のチヂミの皿と共にテーブルに戻ると、昴は虫刺されの薬を塗っていた。かがんだ姿勢のせいか、大きすぎるTシャツの襟ぐりからうなじと肩の線がすこしみえている。裾はハーフパンツの尻のあたりにかかっていて、神里は急に落ちつかなくなった。何というか、妙に色っぽいのだ。 「何?」  昴がこっちをみていった。 「何でもない。二枚目焼けたぞ」 「ん」  神里は椅子に座り直し、二枚目のチヂミに手をつけた。だが何事もなかったように(実際何事もなかったのだが)昴が前の椅子に座ったとたん、さっきのあれはなんだったのかと疑問がうかぶ。何しろ十年以上一緒に住んでいて、実家の家族より親しいといってもいいくらい、これまでも同じようなことはあったはず――  いや、それはどうか。やはり夜にやることをやるようになると、目線も変わってくるとか、そういうことがあるのだろうか。何しろ昨夜も寝る前にセックスして、昴はそのまま隣で寝ていたのだ。 「神里?」  いつのまにか箸を止めていた神里を昴が訝しげに呼んだ。 「ん?」 「どうかした?」 「え? いや、何も」 「チヂミ、おまえが食べないなら残りもらうぞ」 「待て。まだ食べるって」  昴は残念そうな目つきで箸をひっこめるとコーラのコップに手をのばす。外の雨はあいかわらずだ。いや、さっきよりひどくなったかもしれない。ピカッとどこかが光った気がした。遠くの方でゴロゴロと雷の音が響き、昴も窓の方をみた。 「昴」 「なに?」 「今日、暇?」 「暇といえば暇だけど」 「そっか」 「何かあんの?」 「何もないけど」 「何もないなら何で聞いたんだ」 「いいじゃないか。確かめたんだよ」  昴は不満そうに神里をみたが、そのまま立ち上がるとまた、蚊に刺された脛をさすりはじめた。指のあいだからピンク色に腫れた皮膚がちらりとみえる。やはり自分のTシャツは昴には大きすぎる、と神里は思った。脱がせるならいつにしよう――頭の隅にひらめいた不埒な考えをおくびにも出さず、神里は自分のコップに手をのばす。窓の外では白い膜のように雨が降り続いている。

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