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第2話

「…ただいま」 何の変哲もない普通の一軒家、俺はドアの前で頭を深々と下げた。 幼少期の頃からやっているから、身体が覚えている。 俺がこの家に置いてもらえるのはあの人達のおかげなんだ、だから感謝を忘れない。 両親が死んで、俺を拾ってくれたのは親戚であるこの人達。 食事を食べさせてもらって温かい家に居られる、俺にはそれだけで贅沢なのだろう。 ドアを開けると、すぐに目の前に見えたのはスプレー缶だった。 条件反射で顔を両手で隠すと、すぐにスプレーを噴射された。 催涙スプレーなのだとすぐに分かる、一度目に掛かってしまいしばらく目が使い物にならなかったからだ。 この家に生まれた頃からいる同じ歳の義弟の花蓮(かれん)だ。 平凡な俺とは違い、可愛い容姿をしていていつも義母に女装させられていた。 本人も似合っているから、嫌そうな素振りを見せていなかった。 花蓮がそれでいいなら、部外者の俺がなにか言うことは無い。 でも、少し羨ましく感じる…撫でられた頭に微笑んだ顔……俺にはその記憶がない。 両親が死んで引き取られたのは5歳の頃だ、両親が死んだショックで一時的に記憶障害が残っていると言う。 記憶が戻ったら、手の温もりとかを思い出すのだろうか。 でも、思い出したくない記憶なのか15歳の今まで一度も記憶が戻った事はない。 嫌な記憶なら思い出したくない、俺の夢の中だけでいい。 夢の中ではあの兄弟だけではなく、優しく俺を見守る母の姿があった。 あの夢だけが、俺の見たいものを見せてくれる。 「い…おい!聞いてんのか!?」 「っ…」 空になったスプレー缶を投げつけられて頭に直撃した。 脳が揺さぶられてクラクラする、玄関に落ちたスプレー缶はやはり催涙スプレーだった。 義弟は俺を睨みつけていて、もう一度俺に言った。 「そんな格好で家に入ってくるな!!入ったら殺す!!」と… 殺す…聞き慣れた言葉だ、俺にとって死ねや殺すは日常会話のようなものだ。 だいたいの奴らは人を傷付けるためにその言葉を口にする。 だけど、目の前の義弟は違う。 殺すと言ったら本当に俺の事を殺すだろう事が分かる。 義弟は可愛い顔をしているから、よく変質者に狙われる。 それを心配した両親は義弟にいろいろと防犯グッズを買い与えていた。 そして義弟はそれを変質者ではなく、俺にいつも使っている。 「実験」と言われるそれは、俺をただ殺そうとしているようにしか見えなかった。 長時間スタンガンを首に当てられて病院に運ばれたり、護身術だと一方的に殴られて骨を折られたりもした。 育ての親である義母や義父はそれを見て笑っていた。 誰も異常な義弟の行動を止めなかった…だから、義弟に善悪が分からないのだろう。 義母も義父も俺に暴力を振るうから痣が耐えなかった。 でも、目立つ場所には痣を付けない…そこまで馬鹿ではない。 近所からは評判のいい仲のいい家族だと言われている。 外では仮面を被って俺に優しく接する、俺がぎこちない態度を取ると家に帰ってから暴力を振るわれる。 痛みで騒がないためにいつも口に布を噛まされて、サンドバッグにされる。 誰にも助けは呼べない、そんな事をしたら…俺は生きて行けなくなる。 一人で生きられないんだ、我慢するしかない。 でも高校生になったら、アルバイトが出来る…お金を貯めて…この街から出て誰も俺の知らない人達ばかりの街で一から人生をやり直すんだ。 俺は濡れたカバンを持って家を出た…乾かさないと帰れない。 適当に近所をブラブラと歩いていて、電柱に寄りかかってしゃがんでる人がいた。 どうかしたのか気になって近付くと、身体が小刻みに震えていた。 「あの、大丈夫ですか?」 「…なんで、なんで…なんで」 「あのー」 「ひぃっ!!!」 ブツブツなにかを言っていて、聞こえなかったのかと思ってもう一度声を掛けた。 すると、しゃがんでいた人は突然立ち上がって俺の肩にぶつけて走り去ってしまった。 いたた…と肩を掴みながら去っていた方を見つめていた。 道端でしゃがんでいたから具合が悪いと思っていたが、元気ならよかった。 ぶつかった衝撃でカバンを落としてしまい、それを拾うと他になにか落ちている事に気付いた。 さっきまではなかったそれを見ると、キラキラと輝く透明なブレスレットだった。 さっきの人の落し物だろう、持ち主が探しに来るのかもしれない。 そう思って電柱にブレスレットを引っ掛けて帰る事にした。 もうカバンの水分は滴らないだろうし、何よりも早く帰らないと空が暗い。 俺の帰りを心配する人なんていないが、遅くなると外に締め出される。 家に戻ると、リビングの電気は消えていて義母も義父も帰っていない事が分かる。 義父は残業でよく帰りが遅くなり、義母は夜の仕事をしている。 だから夜のご飯は俺も花蓮も自由に用意している。 とはいえ花蓮は食事代を貰っているからコンビニで買ったり外出したりしている。 俺は当然お金を貰った事がない、お小遣いどころか世間一般で経験するお年玉も誕生日やクリスマスなんかも知らない。 冷蔵庫を開けていつも適当なものを食べている。 義母が俺のために作り置きをするわけがないので、本当にあるものだけだ。 確か冷蔵庫にキャベツがあったな、夕飯はそれにするか。 そう思って、家のドアを開いて真っ暗な廊下だけが俺を出迎えた。 ただいまと言おうと思ったが、すぐに口を閉ざした。 廊下を進んで階段を登ると部屋が向かい同士に二つずつある。 右側の二つは義母と義父の部屋でもう片方は俺と花蓮の部屋だ。 ちなみに俺の部屋が花蓮の隣というのはちょっと違う。 花蓮の隣の部屋は物置で、その物置には屋根裏部屋に続く梯子がある。 俺はその屋根裏部屋で住んでいる、じめじめしていて埃っぽくて狭くて最悪な部屋だが贅沢は言っていられない。 立ち上がる事は出来ないが、座る事が出来るから充分だ。 それにあの狭さだと、花蓮が殺しにくる心配もなくていい…俺以上に狭苦しいところが嫌いだから… 一番の問題は、部屋の快適さではない…もっと深刻な問題がある。 それは、ほとんど毎日隣の部屋で行われている事だった。 「んっ、あっ…そこっ、もっと……あんっ」 花蓮のやらしい息遣いがこちらの耳まで入ってきて、物置の扉に向かった。 リビングに避難したかったが、風呂に入りたいから着替えのある屋根裏部屋の方がいい。 物置部屋は物で溢れかえっているから、花蓮の声はほとんど聞こえない。 耳をすますと微かに聞こえるが、わざわざそんな事はしない。 物置の壁に掛けられている梯子を掴んで、真ん中に置いてから登る。 木で出来た天井の一箇所にだけ銀色の枠がある。 あの扉を開くと屋根裏部屋に行ける。 慣れた手つきで少し出ている取手を引くと、扉が開いた。 屋根裏部屋に到着すると、あの声がさらに大きく聞こえてきた。 物置部屋と隣の部屋の屋根裏部屋は繋がっている。 俺に死ねとか殺すとか言っていた口で甘える声を出している。 両親がいないといつも男を家に招いて行為をする。 しかも毎回知らない男で、歳の離れすぎているおじさんもいたから驚いた。 一瞬体を売っているのかと思ったが、両親にあんなに溺愛されて必要な小遣いをもらっているのにそこまでするだろうか。 花蓮の趣味なら納得だ、まぁ…花蓮が体を売っていても趣味でも止める権利は俺にはない。 自分を守る事で精一杯なんだ、明日殺されるかもしれない…もしかしたら明後日?そればかりが脳内をグルグル回している。 着替えを持って、屋根裏部屋からすぐに出た。 まだ、あの声が脳内に響いていて振り払うように首を横に振った。

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