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初夜の儀式
「ルネ殿下」
夜も更けた頃、魔王さま付きの小間使いが、部屋までルネを迎えにきた。
「お支度はお済みでしょうか?」
「……ああ」
ルネは硬い表情で、言葉少なに答える。
「では、ご案内いたします」
ルネは長椅子から立ち上がったが、足が微かに震えているのに気づく。王座の代償と割り切ったつもりでも、やはり、魔物ごときに身体を自由にされる屈辱は耐え難かった。
(高い身分に生まれていれば、こんな思いをすることもなかった)
ルネは口惜しさに眉を寄せた。しかしふと見れば、ティノがルネよりさらに肩を落とし、しょんぼりと項垂れている。
(ティノ……)
自分自身のことでもないのに、とルネは内心苦笑する。しかしルネには、ティノが今どれほど心を痛めているか、手に取るように分かった。そしてそんなティノの献身は、ルネの心を慰めた。
「……ティノ。覚悟の上だ。心配するな」
小声で囁き、無理に笑顔を作る。そしてルネは、小間使いの後について部屋を出た。
「ルネさま……」
残されたティノは所在なく部屋を見回し、手近の椅子に座り込んだ。長い夜になりそうだ。
「ふははははっ! この時を待ち詫びたぞ、我が花婿よ!」
寝台の脇に仁王立ちした魔王さまは、大げさな身振りでルネを迎えた。
「…………」
ルネは黙ったまま、控えめな所作でお辞儀をして応える。背後で小間使いが寝室の扉を閉めた。その音にルネは思わず振り返ったが、すぐにまたゆっくりと魔王さまに向き直った。
部屋の中は二人きりだ。
ルネは、ごくりと生唾をのんだ。純白の夜着に身を包む魔王が、不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめている。
(しっかりしろ。もう心を決めたはずだ)
ルネはしとやかに顔を伏せ、魔王に呼ばれるのを待った。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
(ええと……。ど、どうするのだったか)
緊張のあまり、魔王さまの頭から手順が抜け落ちていた。
(ま、まずい!)
魔王さまは慌てて、ルネにずかずかと歩み寄る。そして力強く手首を掴んだ。
(さ、触ってしまった!!)
「……!!」
ルネ王子は大人しく、次の手順を待っている様子だ。
(そうだ。あの本によれば……、まずは縛りつけないと)
そのための縄も、夜着のポケットに用意してある。しかし、つい自分からルネに近づいてしまったので、今立っているのは部屋の入り口近くだ。寝台まで距離がある。
(しまった)
「…………」
ルネの目の前で、黄金のペンダントが小刻みに揺れていた。
(背が……、高いんだな)
ルネは小柄なので、魔王さまは頭一つ分、ルネより大きい。
ルネは勇気を奮い起こした。上目使いで魔王さまをじっと見つめる。目を逸らしていては、恐れがつのるばかりだ。
(そっ、そんな!! あざと可愛い!!)
「い、いっ、今さらそんなことをしても無駄だ……ぞ! 痛い思いをしたくなければ、大人しくしていることだな!」
魔王さまは、努めて冷ややかな瞳でルネを見下ろした。
(縛るのは省略しよう)
「な……っ!?」
ルネは思わず顔をしかめた。
(この男、そういう趣味が!?)
「おや。それとも……、痛い方がお好みか……な?」
魔王さまはルネの上に身をかがめ、からかうように指先で顎を持ち上げた。
「な、何を……!」
(よし!! ここで、く、口づけをするわけだな!? 強引に!)
魔王さまは、ルネの愛らしい唇に狙いを定めた。つやつやと光る健康的な唇は、朝露に濡れたイチゴのようだ。
それが微かに震えている。
(…………後回しにしよう)
代わりに魔王さまは、恐る恐るルネを抱きしめた。
「ん、んんっ」
ルネは囚われの小鳥も同然だった。どれだけもがいても、力強い腕に抱きすくめられたまま、少しも動けない。
(ええと、この後の段取りは……。そう、首とか耳とかだったな)
魔王さまはルネの首筋に唇を寄せた。欲望を滾らせた唇で、ルネの無垢な肌に吸いつくように口づけ、ようと思った時、いい匂いが鼻孔をくすぐった。
(ん? なんの匂いだろう?)
よくよく嗅いで確かめると、それはルネの匂いだった。コロンの爽やかな香りに混じり、仄かに甘く、柔らかな匂いがする。
(なんという、心安らぐ匂いだろうか)
魔王さまはもっとその匂いを嗅ぎたくて、唇の代わりに鼻先をルネの肌に寄せた。高くすっとした鼻が、匂いを嗅ぎながら、ルネの耳元へ這い上がってゆく。
(優しくて清らかな、まるで陽だまりのような匂いだ)
魔王さまは賞賛のため息をつく。耳に熱い息がかかり、ルネの身体がビクンと跳ねた。
「あ、あっ、」
思わず漏らした声に、ルネは頬を染める。魔王さまは慌てた。
「す、すまな……!」
いやこれでいいのだと思い出す。
(そうだ。次は胸を……)
「すっ、素直な子だ! では、褒美をやろうか!」
魔王さまは、ルネの襟元を性急にはだけさせた。
白い肌が、羞恥で桃色に染まる。ルネは身を隠そうと焦ったが、魔王さまの腕の中で、どこに行けるはずもない。魔王さまは目を細めてルネの胸元に顔を埋め、いい匂いをじっくりと堪能した。
「ふふ……」
早朝の新雪のような白い肌に鼻を寄せ、匂いを嗅ぎながら鼻先でつつく。
(落ち着く……。ずっと嗅いでいたいな)
「ま、魔王さま……っ」
ルネはどうしていいやら分からず、なすがままにされていた。
こんなこと、いたたまれない。それなのに、熱心に匂いを嗅ぐその鼻先に、なぜか身体が熱くなる。
違う。雰囲気に惑わされているんだ。ルネはおかしな空気を押しのけるかのように、身体を思いきり捩った。
「やめ……っ!」
「やめろ? 婚約を交わして、お前は既に余のものだ。どうしようと余の勝手だ」
(よし、いい調子だぞ!)
魔王さまはルネに熱い想いを伝えるべく、いまだ汚れを知らないその部分に、遠慮がちに手を伸ばした。
「……ひっ!」
ルネは身をすくませる。
「大人しくしていろ。村の皆を助けたいのだろう?」
(……村?)
「お前が余のものになれば、村の安全は保証してやる。そういう契約だ。忘れたか?」
(――この男! 我が祖国セヴィーラがいかに小国とは言え、村呼ばわりする気か!?)
「安心しろ。余もそれなりに経験を積んで――、ええと、その、男も女もよりどりみどりで……、いろいろと……たぶん」
(汚らわしい魔物め!!)
あまりの侮辱に、ルネは血が滲むほど唇を噛んだ。せめてもの抵抗に、ありったけの怒りを込めた眼差しで魔王さまを睨む。だがその瞳には、涙が滲んでいた。
「おや。まだ泣くのは早……、え、ええと……?」
(泣いてる……)
ルネは、魔王さまの腕をぞんざいに振り払った。はだけた夜着が腰まで落ち、上半身が露わになる。
細身ではあるが無駄のない、均整のとれた筋肉に覆われた身体。剣術の稽古の賜だ。逞しく天に向かう腕に、魔王さまは目を見張る。と、逃げる間を与えず、ルネは標的をしかと捉えた。ずいと腕を突き出すと、魔王さまの顔面に、驚くほど熱く硬い拳が――
「……痛ッ!!」
ルネのパンチは雷のように魔王さまを打った。
ルネがハッと我に返った時は遅かった。魔王さまはポタポタと鼻血を垂らしながら、呆然と立ちすくんでいる。
(し、しまった! つい!!)
ルネは真っ青になった。魔王を怒らせたら、ただでは済まない。
(ど、どうしよう)
「ルネ……」
魔王が手を伸ばす。
(――殺される!!)
ルネは咄嗟に身を翻し、部屋を逃げ出した。
「魔王さま!?」
不審な物音を聞きつけて、数人の警備兵が部屋に駆け込んだ。すると中では魔王さまが鼻血を垂らし、しょんぼりと項垂れていた。
「どうなさったのです!?」
兵士の声で我に返った魔王さまは、慌てて夜着の袖で顔を拭った。今日のために新調した純白の夜着に、鼻血の染みが広がる。
「侵入者が!?」
兵士たちは皆一様に厳しい顔つきで、腰に下げた剣の柄に手をかけた。一人が、ルネ王子の姿がないことに気づく。
「ルネ殿下が! まさか攫われ、」
「ち、違う、違う!」
魔王さまは急いで手を振った。
「これはその……、ええとだな、そう、こ、興奮しすぎて鼻血が出てしまったのだ!」
「はっ?」
一瞬の間の後、兵士たちは互いに顔を見合わせて吹き出した。しかし、きまり悪そうな魔王さまの様子に、慌てて表情を引き締める。
「そ、そうですか。ともかくご無事で何よりです」
「う……、うむ。面倒をかけた。ルネ王子は、今夜は退出させたので心配ない」
「分かりました」
「若い時はよくあることですよ、魔王さま。そんなにしょげないでください」
「そうそう。また次に頑張れば」
「ともかく手当をしましょう。アルシエルを呼びますね」
「そうだな。頼む」
「はい」
兵士たちは部屋を出ていった。魔王さまはほっとため息をつく。とりあえず、ルネは叱られずに済むだろう。
(だが……。とてもかっこ悪いことになってしまった……)
魔王さまは一人、肩を落とした。
ルネは自室に駆け込むと、急いで鍵をかけた。ティノが驚いて椅子から立ち上がる。
「ルネさま!? 一体何が!?」
「ティノ……」
ルネは長椅子に身体を投げ出し、ティノを隣に座らせた。そして、起こったことを洗いざらい話す。
「僕はなんて馬鹿なことを……!」
ルネは頭を抱えた。ティノも呆然とするばかりだ。
「氷の皇子 」などと呼ばれる冷酷非道な魔王が、このまま黙っているはずはない。
「終わりだ……何もかも……」
宝玉を持ち帰り、セヴィーラの王になる夢も。それどころか明日にでも、祖国から遠く離れたこの地で、処刑されるかもしれない。
「ティノ」
ルネは、ティノの肩に手を置いた。
「心配するな。セヴィーラからついて来てくれたお前たちのことは、なんとしてでも守る。お咎めは僕一人で済むように――」
「何を仰るのですかっ!!」
ティノは、部屋中に響く大声で怒鳴った。
忠誠心に篤く一途なティノは、ここぞという時に強い意志の力を発揮する。ルネが迫力負けするほど、ティノは勢いよく捲し立てた。
「ルネさまにお仕えしてお役に立つことが、幼い頃からティノの夢でした。ティノは、ルネさまと運命を共にいたします!」
「ティノ……」
ルネは、ティノの両手をしかと握りしめた。
「ありがとう。お前の心を、とても嬉しく思うよ」
「ルネさま……」
二人は肩を寄せ合い、兵士が二人を捕らえに来るのを待った。しかしその気配もなく、夜は更けていった。
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