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魔王の沙汰

 廊下の窓辺で黒猫が干し魚を食みながら、機嫌よく喉を鳴らしている。どうやらマタタビもキメているらしい。ティノが何気なく足を止めてその様子を見ていると、金色の瞳と目が合った。 (魔王の猫か……)  ティノはついと顔を背け、再び廊下を歩き出した。  昨夜は結局、夜が明けるまで誰も部屋に来なかった。しかし、このままずっと閉じこもっているわけにもいかない。そこでティノは提案した。 「まずティノが魔王の元に出向き、誠心誠意、謝罪をします。聞き入れてもらえなかった時は――、その時はその時です。ともかく、できるだけのことをしてみます」 「でもティノ、お前一人でなんて……」  しかしルネが何と言っても、ティノは譲らなかった。 (いざとなったら、この命で許しを請おう)  ティノは密かな決意を胸に、魔王さまの部屋に向かっていた。 一方、魔王さまも眠れぬ夜を過ごし、一人悶々としていた。 (ルネ王子をがっかりさせてしまった……)  どこをどう間違ったのか、うまくことが運ばなかった。大切な初夜だというのに、大失敗をしてしまったのだ。魔王さまは大きなため息をついて頭を抱えた。 (きっと、嫌われてしまっただろうな)  本当はあの後すぐ王子の部屋へゆき、跪いて許しを請いたかった。しかしそれでは、あまりに情けないしかっこ悪い。ただでさえ失望されているのに、完全にダメ押しになってしまう。  男らしく威厳を保ったまま、かっこよく詫びなければいけない。しかし恋愛経験に乏しい魔王さまにとって、それはかなりの難関だった。 (一体、何が悪かったのか)  思い当たるのは――、縄で縛る手順を勝手に省略したこと。それに、口づけを後回しにしたことだ。  初夜の儀式は厳粛なもので、自己流で手順を変えたりしてはいけなかったのだ。だからルネ王子は、あれほど怒ったに違いない。 (だが、あんなに可愛いルネ王子を縛りつけるなどと……。それに口づけも……)  まだ早い。魔王さまはあの時、咄嗟にそう思った。  純潔を捨てて一人前の男になることは、かねてより魔王さまの悲願だ。魔王さまとて大好きなルネ王子と、えっちなことをしたくないわけではない。しかし――。  (できれば、もっとゆっくり……)  魔王さまは時間をかけて、ルネ王子のことをよく知りたかった。まだルネ王子のことを、ほとんど知らない。知っているのは、可愛いことくらいだ。  だがアルシエルたち臣下にも、例の件で心配をかけている。それにグレン将軍とキール少年も、互いの想いを知らぬまま初夜の床を共にした。二人は傷つけ合ってしまったが、最後にはその試練を乗り越えて心から結ばれたのだ。いわばそのことが、二人の間に強い絆を結んだ、とも言える。 (やはり、あの本の手順が正しいのだ。あの通りにしなかった、俺が悪い)  魔王さまはもう一つ、ため息をついた。  その時だ。遠慮がちなノックの音がした。 「ん? 誰だ。入れ」  声をかけると、小柄な少年がおずおずと部屋に入ってきた。 「失礼します……」  ティノは恐る恐る、部屋に足を踏み入れた。魔王は窓際の椅子にかけ、しかめ面で首元のペンダントを弄んでいる。不吉な黒髪が窓からの風になびく様に、ティノは身を震わせた。 「お前は……、確かルネ王子の従僕だな?」  魔王が顔を上げた。冷たく青い氷の瞳に見つめられ、ティノは恐ろしさですくんでしまった。 「は、は、はいっ。ティノと申します!」  ティノは声の震えを抑えて答えた。 「昨夜の件にてルネさまより、お詫びを申し上げに参りました……!」  地にひれ伏すかという勢いで、深々と頭を下げる。 「詫び?」  魔王さまはきょとんとした。詫びねばならないのは自分の方だ。 「敬愛する魔王さまに大変な無礼を働いてしまったと、我が主は胸も張り裂けんばかりに泣き崩れております」  ティノは言った。 「――なんだとっ!?」  魔王が勢いよく立ち上がる。 「ひっ!!」  ティノはつい後ずさった。しかしここで怯んではいけないと、勇気を奮い起こす。大切なルネさまの命運が、己の肩にかかっているのだ。 「『敬愛する』と……? ルネ王子が、そのように言ったのか……?」  魔王は眉を寄せ、探るような目つきでこちらを見据えた。 「は、はいっ!!」 「……………………」 (愛!? 愛と言った!? ルネ王子が俺を!?)  知らず知らずのうち頬が緩むのに気づき、魔王さまは慌てて口元を引き締めた。  一方ティノは、魔王が一瞬、口元に皮肉な笑みを浮かべたのを見逃さなかった。 (しまった。見え透いたお世辞だったか!?) 「ルネさまは、驚かれただけなのです!」  ティノは必死になって身を乗り出した。 「我が国では、初夜を迎えるのは成婚の晩と決まっています。それが昨晩は、まだ婚約を交わしただけであのようなことになったもので、ルネさまは戸惑われたのです」 「おお、そうであったか!」  それは魔王さまにとって、またとない朗報だった。昨晩はまだ初夜ではなかった。つまり、「初夜を失敗した」わけではない。成婚の際に、本当の初夜で挽回すればいいのだ。 (よかった……)  魔王さまはほっと胸を撫で下ろし、落ち着いて椅子にかけ直した。ティノはここぞとばかり、たたみかけるように言葉を続ける。 「ルネさまは幼い頃より剣術に打ち込んでおられ、その腕前は我が国でも随一。そういった達人の常ですが、咄嗟の時には考えるより先に身体が動いてしまうものなのです!」 「なんと!」 (可愛いだけでなく、剣も上手なのか!) 「我が主は決して、魔王さまに害をなそうとしたのではありません。どうか無礼をお許しくださいますよう、お願いいたします……」  ティノはもう一度、深々とお辞儀をした。 「…………」  魔王さまは、衝撃のあまり言葉もなかった。  ルネ王子はこちらの勘違いで驚かされた上、大切な手順をないがしろにされたのだ。怒って当然だ。なのにこちらが人間のことに無知なのを察し、恥をかかせまいと思いやり、自分から使者を遣わして謝罪している。  なんという、優しい心配りだろう。なんという、柔らかな心の持ち主なのだろう。 (それに比べて俺は……、ルネ王子にふさわしい男だろうか……)  魔王さまはがっくりと頭を垂れ、片手で顔を覆った。 (俺は意気地なしだった。せっかく、『契約の花婿は初夜に穢される』を読んで、手順を学んだのに。いざとなったら怖じ気づいてしまったのだ。成さねばならぬことを分かっていて成さぬのは、愚かな意気地なしだ)  ティノはお辞儀をしたままで、魔王の沙汰を待っていた。あまりに長く魔王が黙っているので、そっと上目使いで様子を探る。しかし魔王は片手で顔を覆い隠し、その表情も心の中も、うかがい知ることはできなかった。  一体どのような、無慈悲な処罰を考えているのか。ティノは足の震えを懸命に抑え、胸元の手を握りしめた。懐には、自害するための短刀を忍ばせてある。 「……安心するがよい」  長い間の後、魔王が言った。 「余は決して、ことを軽んじているわけではない。昨晩のあれは――、ええと、その、楽しみを取っておいただけだ。しかし成婚の暁には、必ず望みを叶えるであろう」  その言葉に、ティノはハッと顔を上げた。 「魔王さま! では――!?」  「今回だけだ。このようなことは、二度とない」  魔王さまは、形のよい眉をきりりと上げた。  大好きなルネ王子のためなのだ。本番では今度こそ勇気を出し、初夜を成功させよう。魔王さまは固く胸に誓い、首元のペンダントを握りしめた。 「あ、ありがとうございます!」  ティノは一礼して部屋を出ると、ルネを早く安心させたくて、廊下を駆けていった。 「ルネさま!」  頬を紅潮させて戻ってきたティノを、ルネは抱き止めるようにして迎えた。 「ティノ! よく無事で……!」  祖国を遠く離れた人質の身にとって、ティノはただ一人の大切な味方だ。 「お前にもしものことがあったらと、生きた心地がしなかったぞ!」  ルネは瞳に涙を滲ませ、ティノの両手を握りしめた。 「もったいのうございます、ルネさま」  ティノも涙ぐむ。 「それで、魔王は何と?」 「はい。『ことを軽んじてはいないが、今回だけは許す』と」  「えっ」  思いがけない言葉に、ルネは驚いた。 「僕を……許すと? 本当か」 「はい。ですが、『このようなことは二度とない』と……」 「……そうか」  ルネは安堵のため息をついた。ともかく、今回限りは見逃してもらえたようだ。 「しかし、あの傲慢そうな魔王が……。ああ見えて、意外に寛容なところもあるんだな」  首を傾げるルネに、ティノは何か言いたげな顔をした。 「それが、ええと……、」  ティノは頬を染め、口ごもる。 「なんだ、ティノ。いいから言え」 「あの……。昨晩ルネさまを見逃したのは、楽しみを取っておいただけだと。成婚の暁には、必ず望みを叶える、と……」  ティノは気まずそうにうつむいた。ルネも思わず頬を染める。 (なるほど、そういうことか。好色な魔王め……!)  一瞬魔王を見直した自分に、腹が立った。  だがとにかく助かったのだ。ルネは身体の緊張を解き、ティノの頭に手を置いた。 「ありがとう、ティノ。お前のおかげだ」 「そ、そんな」  ティノはしきりに照れたが、突然何か思い出しように顔色を変えた。 「ルネさま!」 「どうした」 「実は魔王と話している間に、気づいたことがあるのです」 「え?」 「魔王がいつも首にかけている、黄金のペンダントを覚えておいでですか?」 「ペンダント?」  ルネは記憶を辿ってみた。そういえば魔王は昨晩、夜着には少々不釣り合いな、大きなペンダントを首にかけていた。言われてみれば最初に会った時も、昼食会の時も身に着けていた気がする。 「魔王はいつもなにかと、あれをいじり回しています」 「確かに、昼食会の時もそうだったな。それがどうかしたか?」 「魔力の宝玉は、王家の大切な品なのでしょう。それなら、肌身離さず身に着けているのではありませんか? そしてあのペンダントこそが、その隠し場所なのでは!?」  ティノは興奮した声音で言った。

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