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権力の座
なだらかな丘の連なる丘陵地帯を抜けてしばらくすると、車輪の音が変わった。土埃の舞う田舎道から、石畳で舗装された街路に入ったのだ。馬車は小気味よい音を立てて進む。まばらだった建物の間隔がだんだん狭くなり、やがて馬車は家々の密集する街中へ入った。そして、街の中心にある広場で止まった。
「わぁ……っ」
馬車から降りたルネは、感嘆の声を上げた。広場には様々な露店が立ち並び、大勢の人が集まっている。
「すごい人出ですね」
「うむ。今日は市が立つ日なのだ」
辺りは物売りの声や人々のお喋りが飛び交い、大変な賑わいだ。買い物客たちが大きな荷物を抱え、楽しげに行き過ぎる。
「さあ、ゆこうか」
魔王さまは足を踏み出したが、ルネは戸惑った様子で動こうとしない。
「どうしたのだ」
「あの、魔王さま」
ルネはうつむきがちに言った。
「このような人混みの中を、下々の者に交じって歩くのですか?」
「ああ、そうか……」
魔王さまは、以前マファルダ王から聞いた話を思い出した。セヴィーラやマファルダでは、王族が庶民と近づく機会はないらしい。どうもルネは気が進まないようだ。
「では、馬車で待っていても――」
その時だ。
「あら、魔王さま!」
朗らかな声が響いた。
「!?」
魔王さまはギクッとして振り返った。声は、広場の隅に立つ露店からだ。そこには――、顔なじみの、アイスクリーム売りのおばちゃんがいた。
「お久しぶりですねえ、魔王さま! 今日は葡萄のアイスクリームがありますよ~~!」
おばちゃんは広場の端から手を振り、大声で叫んだ。
(しまった!!)
魔王さまは青くなった。
せっかく威厳のある魔王さまっぽい態度で通してきたのに、おばちゃんにいつもの調子でこられては、これまでの苦労が水の泡だ。しかも、「アイス皇子 」などとあだ名されているとバラされたら、かっこいい魔王のイメージが大きく損なわれてしまう。
(俺としたことが。誤算であった!!)
一方ルネは、唖然として立ち尽くしていた。
(王族に向かって、なんという不敬な態度を……。このように軽んじられて、魔王は平気なのか!?)
おばちゃんはこともあろうに、新入荷の葡萄アイスクリームを手に、ずかずかと近寄ってきた。
(ああ! おばちゃんをむげにはできないし、新作葡萄アイスクリームはぜひ食べたい! だがしかし!)
魔王さまが迷っているうちに、おばちゃんは目の前までやってきた。
「まあ! こちらはもしかして、ご婚約相手の……」
「う、うむ! セヴィーラのルネ王子だ!」
魔王さまは胸を反らした。
「これはルネ殿下。ようこそネヴィスランドへ」
おばちゃんはアイスクリームの入った木の椀を手に、軽くお辞儀した。
「じゃあこれはぜひ、ルネ王子さまに食べていただかなくちゃ!」
おばちゃんはルネに、アイスクリームをずずいと差し出した。
「う、うむ。ルネよ、食してみるがよい!」
魔王さまは厳かな口調で言った。
「まあ。王さまったらご婚約者の前だからって――」
「ささささあルネよ! アイスクリームを!」
ルネは一歩後ずさった。庶民の女にまで軽んじられて、気安くアイスクリームを差し出されるとは。ルネは怒りのあまり、耳まで赤くなった。
おばちゃんは怯まず前進し、にこにこ笑いながらルネにアイスクリームを渡そうとする。
「ぶ、無礼者っ!!」
ルネは、おばちゃんの手からアイスクリームをはたき落とした。木の椀が石畳に落ちて乾いた音を立てる。おばちゃんはぽかんと口を開けた。
「る、ルネ!?」
魔王さまが止める間もなく、ルネは身を翻して駆け出した。
「ルネっ!!」
魔王さまはおばちゃんに詫びると、慌てて後を追った。
街角の小さな庭園。その片隅に、白い花をいっぱいにつける樹があった。今が盛りの花から漂う芳香に包まれて、ルネは樹の幹に背を預けていた。
それは母の愛した花だった。小さく控えめにしとやかに咲くその花は、母の人となりを偲ばせる。こうして優しい香りに包まれていると、幼い子供の頃に戻って、今は亡き母に抱擁されているようだ。
(母上……)
ルネは胸の内で呼んでみる。
ルネの母は、さる地方領主の娘だった。その地を視察で訪れた若き日のフェルディナ八世に見初められ、後宮に入った。やがてルネが生まれたが、フェルディナ八世は田舎娘にすぐ飽きてしまい、足は遠のきがちになった。そうして母子はあたかも遊び飽きた玩具のように、後宮に捨て置かれたのだった。生活に不自由こそないものの、誰に顧みられることもなく、ルネの母は孤独のうちに若くしてこの世を去った。
権力者の気まぐれで、人生を変えられてしまった母。母のセヴィーラ王宮での人生は、一体何だったのだろう、とルネは思う。
身分が低いから、と母はいつも言っていた。高貴の姫が覇を競う後宮で、庶民の自分に勝ち目はないと、はなから諦めていたのだろう。幼かったルネは、母の言葉を素直に受け取った。身分が低いから、仕方ないのだと。
転機が訪れたのは、母が亡くなった直後、ルネが十二歳の時だ。セヴィーラで恐ろしい熱病が流行した。一度罹患して発熱すれば、高確率で死に至る。病は王宮をも襲い、大勢の貴族たち、そしてルネの兄も一人、また一人と高熱に伏せっていった。とうとうクラウディオまで寝込んでしまい、王子たちの中で唯一、ルネだけが健康を保っていた。剣術の稽古で日頃から鍛えていたおかげか、身体が丈夫だったのだ。
ある日城の重臣の一人が、ルネの元へご機嫌伺いにやってきた。かつてないことだ。クラウディオ派に属するその重臣は、これまでルネなど見向きもしなかったのに、その日はちょっとした贈り物まで持参して、やたらとおべっかを使った。そして、今後は親しくつきあいたい、などと言って帰っていった。
それからは毎日のように入れ替わり立ち替わり、王宮の重要人物たちが訪ねてきた。クラウディオ派の者もいれば、別の兄を支持しているはずの者もいた。皆、五人の王子の命が危うくなったので、もしもの時のためにルネに近づいておこうという連中だった。
ルネの周りは急に賑やかになった。訪問客の合間にも、高価な贈り物や親書が次々と届く。
その時までルネは、後継者争いの蚊帳の外にいた。いくら実力主義とはいえ、なにしろ優秀なクラウディオがいる。他の兄たちならいざ知らず、身分の低いルネがそれを覆し、クラウディオを出し抜くとは誰も考えなかった。ルネ自身も、王になりたいなどと思ってはいなかった。
ところがこの一件で、ルネは権力とはどういうものなのか思い知った。兄たちがなぜあれほど、兄弟で相争ってまで王座を手にしたいと願うのか、ようやく理解した。そして身分のない者にとっては、権力がその代わりになるのだと知った。
身分が低くても権力を手にすれば、軽んじられることはない。この王宮で人々にかしずかれ、自分の存在の意味を見い出すことができる。天国の母も、自分の産んだ子がセヴィーラの王になったら――、自分の人生に、意味があったと思ってくれるだろう。
結局、外国から来た医師が特効薬を作り、兄たちは熱病から回復した。ルネにすり寄っていた者たちは、潮が引くようにいなくなってしまったが、ルネは気にも留めなかった。
(いつか僕が、力を手にしたら――)
それからルネは変わった。無邪気な少年から、野心を抱く若者となった。勉学に身を入れ、剣の稽古にも一層励んだ。足繁く通っていたクラウディオの部屋には行かなくなった。大好きだった兄と袂を分かち、力を奪い合う決意をしたのだった。
「ルネ!」
ようやくルネの姿を見つけた魔王さまは、安堵のため息をついた。花ざかりの樹に近づいていくと、ルネは顔を上げたが、すぐにぷいとそっぽを向いた。
「ルネよ。何をそんなに怒っている?」
「当然だ!」
ルネは燃えるような眼差しで、魔王さまを睨んだ。魔王さまは、おや、と思った。いつものルネとどこか違う。
「あのように無礼な態度を……!!」
「あのおばちゃんは、ルネに自慢のアイスクリームを食べてもらいたかっただけだ」
魔王さまはルネの側へ寄ると、少し厳しい表情で顔をのぞき込んだ。
「あの態度はよくない」
ルネの怒りは頂点に達した。魔王がおばちゃんの味方をして、自分をたしなめたのがカンに障った。自分はおばちゃんより軽んじられているのだ。
「たかが、アイスクリームひとつで!」
ルネはそう吐き捨てた。
(魔術もできないくせに! 魔王だからって偉そうに!)
「あなたには分からない!」
ルネは叫んだ。
「あなたがあんな風に軽んじられて平気なのは、生まれつき王座が約束された身分だからだ。無遠慮な態度を取られたところで、結局は自分の身分と力が揺るぎないものと知っている。だから寛容でいられるんだ!」
ルネは眉を寄せた。
「……僕はあなたとは違う。母の身分が低いために、ずっと軽んじられてきた。これまでどれほど、悔しい思いをしてきたことか」
「な、なんと。そのようなことが――!」
(が わ゛ い゛ ぞ う゛!!)
魔王さまは、ルネは王子として何不自由なく暮らしてきたとばかり思っていた。
どうしてこんなに怒っているのか、魔王さまにもようやく理解できた。ルネの激しい怒りは、本当はおばちゃんの気さくな態度に向けられたものではなく、ないがしろにされてきたことへの長年の憤りなのだろう。
「ルネよ」
魔王さまは、ルネの頭に手を置いた。
「辛い思いを、してきたのだな……」
その手と口調の優しさに、ルネは思わず顔を上げる。
「ネヴィスランドでは、誰もお前を軽んじたりしない」
「え……っ」
ルネには、魔王の氷の瞳が、なぜかとても悲しげに見えた。どうかすると、自分の悲しみに同調してくれているように。
(なぜこんな目を? 人質の僕に……)
「魔王、さま?」
ルネの亜麻色の瞳に夕焼けが映り込み、琥珀のように輝いていた。その美しさに魔王さまは息をのむ。
魔王さまは、ルネの手を取って引き寄せた。
「ずっと、ネヴィスランドにいればいい……ルネ……」
――だが、しかし。
魔王さまはそこで、ハッと我に返った。
(なんか魔王っぽくない!!)
魔王さまはルネが可哀想で、愛おしくて、優しくしたいと思った。だがそれは、魔王のイメージと違う。
「み、皆が恐れる魔王の婿ともなれば、軽んじる者などおるまいよ! ふはははは!」
魔王さまはルネから手を放し、威厳のある態度でふんぞり返った。
ルネもそっと身体を引く。
(……そうだ。結局ものを言うのは、力だ)
そして力とは、奪うものだ。
魔王さまのペンダントが、夕日を反射してキラリと光った。
「ふう。忙しい一日だった」
その晩。魔王さまは独り言を呟いて寝床に入った。
街ではちょっとしたトラブルがあったものの、魔王さまは幸福な気分だった。
(今日一日で、ルネのことをたくさん知った)
礼儀正しい微笑の陰に隠された、悲しみや憤り。ちょっとだけわがままで、子供っぽいところ。頭に血が上ると、後先考えずに行動してしまう癖。
魔王さまは本当のところ、人間は難しいと感じていた。ルネ王子と仲よくなれるのか、ちょっとだけ自信をなくしていたのだ。しかし今日の出来事で、ルネも魔族の者たちと同じ、揺れ動く心を持っていると知った。
(ルネに、一歩近づくことができた)
こうして少しずつ、仲よくなっていけたらいい。魔王さまは祈るように目を閉じた。一日中あちこち駆け回ったので、身体が程よく疲れていて、魔王さまはすぐ眠りに落ちた。
やがて、むにゃむにゃと寝言を呟く。
「怒った顔も……可愛いぞ……、ルネ……」
人質として敵国にいる身では、いつどうなってもおかしくない。ルネは、眠れぬ夜を過ごすことも多かった。しかし今日はあちこち動き回ったせいか、爽やかで心地よい疲れが全身を覆っている。目を瞑れば、すぐ眠りに落ちることができそうだ。
なぜか心が軽い気がするのは、外の空気に触れたからだろうか。それとも、胸に抱えるものを思うさま吐き出したからだろうか。あんな風に心の内を話せる相手が、いつでも側にいればいいのに、とルネは思った。
王子の身分は孤独なもので、ティノのように忠実に仕えてくれる者はいても、友人はいない。対等の相手と、自分の思いを気楽に話し合うことがないのだった。
今日は、楽しかった。ルネはそう思った。
王宮からあまり出たことのないルネにとって、民の仕事ぶりを間近で見るのは新鮮な驚きだった。束の間ペンダントのことなど忘れ、作業員の手元を熱心にのぞき込んだりもした。
(僕は民の暮らしを、何も知らないんだな)
アイスクリーム作りについてあれこれ説明してくれた、魔王さまの顔を思い出す。たかがアイスクリーム、などと言ってしまったことを、ルネは少し後悔した。
(人質と、敵国の魔王。そんな関係でなかったら、よい友人になれたかもしれないな)
ルネには成さねばならないことがある。だがルネは、ペンダントを奪う計略を考えるのは明日にして、今夜は重荷を肩から下ろし、夢も見ずに眠ろうと決めた。
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