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遠乗り
「魔王さま」
ある朝、朝食の最中にルネが言った。
「遠乗りに出かけませんか?」
「遠乗り?」
「ええ。最近運動をしていないので、身体がなまってしまいそうで。それに魔王さまと二人きりで出かけて、親交を深められればと……」
ルネは、思わせぶりな微笑を浮かべた。
(ししし親交!? 二人っきり? まさか、まさかとは思うが、いやらしいことを考えているのではあるまいな!?)
「よかろう!!」
魔王さまは即答した。
針葉樹の林を抜けると、どこまでも続く青空の下、美しい緑の草原が広がっていた。辺りには人影もなく、馬に驚いて茂みから飛び立つ小鳥の羽音だけが時たま響く。
馬上に爽やかな風がそよぎ、魔王さまはドキドキと胸を弾ませていた。
(よし。ルネともっと近づけるように、今日も頑張ろう!)
だがそんな魔王さまの後ろから馬を駆るルネは、翻る黒い装束を眺めてほくそ笑んでいた。清々しい風景とは裏腹に、ルネの心には悪しき計画があったのだ。
ルネは馬に鞭をくれた。馬は速度を上げる。
「おおっ」
魔王さまは目を見張った。ルネの馬術は見事なものだ。白い馬はまるで風のように、緑の草原を駆け抜ける。
(楽しんでいるようだな。よかった)
溌剌としたルネの姿に、魔王さまも嬉しくなった。
「魔王さま!」
ルネが速度を落とし、魔王さまの側へ寄った。黒と白、二頭の馬が並んで歩く。
「駆け競べをしませんか」
「駆け競べ?」
「ええ。向こうの谷まで、先に着いた方が勝ちです!」
ルネは、遠くに見える谷を指差した。
「よかろう。勝負だ!」
(かっこいいところを見せねば!)
乗馬なら魔王さまも、ちょっとしたものなのだ。魔王さまは張り切った。
「では、いざ!」
二人は同時に馬に鞭をくれ、二頭は翼が生えたかのごとく草原を駆け出した。草の海がうねり、波のように打ち寄せては後方に去ってゆく。風が頬を打つのが心地よい。
勝負は初めのうち互角だったが、次第にルネの優勢が見えてきた。
(可愛くて優しくて怒りんぼで、剣と乗馬が上手で……、可愛い……)
勝負に集中していないのが馬にも伝わるのか、魔王さまはいまひとつ振るわない。谷に近づく頃には、ルネの馬は魔王さまの馬をたっぷり十馬身も引き離して先行していた。
やがて地面の草がまばらになり、辺りは岩場になった。前方に、人家ほどもある巨石が見える。蔦がいっぱいに絡んだその岩の前で、ルネは馬を止めた。
「どう、どう」
しばしの後、魔王さまも追いついてきた。
「大したものだ。俺の負けだ」
魔王さまは馬を止め、息をついて言った。
「お褒めにあずかり恐縮です」
ルネははにかむ。
「久しぶりの乗馬なので、ついはしゃいでしまいました」
(はしゃいでる!? はしゃいでるのか! 可愛い!)
その時だ。ルネの目線がふと、魔王さまの背後に向かった。
「ん? あれは……」
「どうしたのだ」
魔王さまが振り向くと、旅の商隊だろうか、三人の男が馬車を取り囲んで何やら相談している。どうも立ち往生しているようだ。
「何か難儀しているようですね。行ってみましょう」
ルネは馬をその場に繋ぎ、男たちの方へ歩いていった。魔王さまも後に続く。
「どうかしたのか?」
魔王さまが声をかけると、三人は振り返った。
「いえね、馬車の車輪が、岩の隙間に取られちまって……」
男の一人が言った。
「どれ。見せてみるがよい」
魔王さまは馬車へ近づくと、腰をかがめて車輪をのぞき込んだ。
「ふむ。力を貸そう」
その時だ。
「うっ!!」
男の一人が、後ろからいきなり魔王さまを羽交い締めにした。そしてもう一人が喉元に剣を突きつける!
「動くな!」
「何をする!?」
「へへっ。金目のものを出しな!」
剣を持つ男が言った。
「むむっ。人の親切心を利用するとは!」
「安心しな。命までは盗らねえからよ」
男は下卑た笑みを浮かべる。
「……貴様らに、やるものなどない」
魔王さまは、落ち着いた声音で言った。
「何かしら持ってるだろ? お、その首飾りは金じゃねえか。そいつをいただこうか」
「断る」
「おっと、お連れさんがどうなってもいいのか?」
「うわあぁぁ~」
背後から、ルネの叫び声が聞こえた。ハッとして振り向くと、いつの間にか三人目の男が、少し離れた場所でルネを捕らえている!
「ルネっ!!」
魔王さまは顔色を変えた。
「はなせえぇ~」
ルネは男から逃れようともがく。だが。
(ふふっ。うまくいった)
ルネはその男と密かに目配せを交わした。
実は三人はティノが手配した者たちで、あらかじめ魔王さまを待ち伏せていた。野盗を装い、ペンダントを奪う計画なのだ。
(魔王は剣も持たないし、魔術もできない。護衛はいないし、相手が三人ではどうしようもないだろう)
「そこの者! ルネを放せ!」
魔王さまがルネに気を取られた隙に、背後の男はペンダントの鎖を乱暴に引きちぎった。
「ほぉ、なかなかいい品だ。高く売れるぜ」
男は戦利品とばかりにペンダントを高く掲げ、仲間に片目を瞑ってみせる。
「ぐぬううぅぅう!!」
魔王さまは怒った。
「な、なにっ!? うわあぁっ!」
背後の男が、叫び声を上げて魔王さまから飛びのいた。勢いあまって尻餅をつくが、そのまま起き上がろうともせず、呆然と魔王さまを見つめている。他の二人とルネも驚いて目を見張った。
「な、なっ!?」
「なんだありゃあ!?」
憤怒の表情を浮かべる魔王さま――、その背後から、漆黒の炎が燃え上がっている。炎は見る間に勢いを増し、魔王さまの身体を包み込む。
「……ルネを返せ」
魔王さまはゆっくりと、ルネの方へ歩き出した。禍々しき黒い炎をまとうその姿は、まさに邪悪な魔王そのものだ。男たちはおののいた。
「ひ、ひぃっ」
ルネを捕らえていた男の手が緩む。
「く、来るなっ! 止まれ!」
しかし魔王さまは、歩みを止めようとしない。後の二人は得物を振りかざし、背後から魔王さまに襲いかかった!
「この野郎っ!」
空気のうなる音がした。突風が吹きつけ、ルネは咄嗟に腕を上げて顔を庇う。
「うわああああぁぁっ!」
叫び声に顔を上げて見れば、なんと魔王さまを襲った二人は、突風に巻き上げられて宙に浮かび、くるくると回っている。
「ひぃぃぃ!」
「助けてくれぇ~」
ルネはぽかんと口を開けた。
(これは――、魔術!? でも魔王は、魔術は苦手だと……)
だがそれは果樹園で見たのと同じ、空気を操る魔術のようだった。
「ちっ、ちくしょうっ!!」
ルネを捕らえる役の男は、小さな竜巻に閉じ込められた仲間を見て焦った。
「話が違うじゃねえか!」
小声で毒づき、ルネを突き飛ばす。
「あっ!!」
魔王さまの魔術に気を取られていたルネは、岩につまずいて転んでしまった。
「ルネっ!!」
魔王さまは風を操る指先を下ろした。同時に竜巻は消え、男たちは二人仲よく地面に投げ出される。ふらふらしながら立ち上がった男たちは、生まれたての動物のような足取りで馬車に向かった。三人目の男も二人を助けつつ、一緒に逃げ出した。
「ひ、ひぃぃ……」
「目が回る……」
しかし魔王さまは男たちに構わず、ルネに駆け寄った。
「ルネ! 無事か!?」
魔王さまはすっかり動転しているようで、黒い炎も消えてしまっていた。
「怪我をしたかっ!?」
「い、いえ、その……」
ルネは戸惑った。
(大事なペンダントより、僕のことを?)
「動くな。足か? どこが痛む?」
魔王さまは跪いてルネの足に触れ、真剣な顔で調べた。ルネが横目で見れば、男たちは馬車に飛び乗って馬に鞭をくれたところだ。
「骨に異常はないようだな。だが、捻ったかもしれん。ひどく痛むか?」
「い、いえ……。大丈夫です」
「そうか。よかった。――では、少しだけ待っていてくれるか」
魔王さまはおもむろに立ち上がり、去りゆく馬車の方を向いた。足場の悪い岩場で、馬車はさほど遠くへ行っていない。魔王さまは天に向かって手をかざし、呪文を唱え始めた。
「!?」
ルネの視界の端で、何かが動く。見れば巨石に絡む蔦が、生き物のようにうねうねと動き始めている!
蔦は岩から離れて伸び上がり、すごい早さで馬車に向かっていった。渦を巻きながら束になり、人の手のような形を作る。
「うわあああ!」
男たちの悲鳴がここまで響いてきた。大きな緑の手は馬車の幌に追いすがり、しっかりと捕まえる。馬は激しくいななくが、どれだけ頑張っても、馬車は緑の手に掴まれたまま少しも進めない。
「くそうっ!」
男たちは荷台の後部に飛んできて剣を抜き、蔦をなぎ払い始めた。しかし蔦は次から次へと馬車に向かってくる。きりがない。
「ち、ちくしょう!」
剣を振り回す男たちを尻目に、魔王さまは額に汗を浮かべて慎重に蔦を操った。そして少しずつ、男たちの身体に蔦を伸ばしていく。
「うわあああ!」
魔王さまの操る緑の手と、男たちとの攻防戦はしばらく続いた。しかし、体力で蔦に分があった。力尽きた男たちはついに蔦に絡め取られ、空中にぶら下げられた。
「勘弁してくれよ~! 返す、返すから!」
一人が泣き喚き、ペンダントを放り投げた。
「あっ」
一瞬ペンダントに気を取られ、魔王さまの集中力が途切れた。緑の手がつるっと滑り、男を地面に取り落とす。
「しまった!」
魔王さまは急いで蔦を操ったが、焦っているのでうまくいかない。
「魔術での細かい作業は、苦手なのだ……」
男は蔦の攻撃を機敏にかわす。魔王さまは、たらたらと汗を流した。アルシエルに口うるさく言われても、なんだかんだと練習をさぼっていたツケが回ったのだ。
「うむむむっ」
焦っているうちに、なんと蔦は互いに絡まり始めてしまった!
「い、今だっ」
男は剣で蔦を両断し、どうにか仲間を助け出した。そして魔王さまが絡んだ蔦を解こうと四苦八苦しているうちに、三人はあっという間に馬車に飛び乗って走り去ってしまった。
「くっ! 逃したか……」
(もっとしっかり練習しておけばよかった)
蔦は絡まったままペンダントを拾い上げ、するすると魔王さまの元へ戻ってきた。魔王さまはペンダントを受け取って息をついた。
「仕方がない。この辺りを巡回警備するよう、手配しておこう。それより今は……」
魔王さまは、ルネをひょいと抱き上げた。
「ルネ、お前の方が心配だ」
「ま、魔王さま! そんな大げさな。自分で歩けます!」
「万一のことがあったらどうする」
「でもっ……恥ずかしいので……」
「そ、そうか」
言われて魔王さまも急に恥ずかしくなり、そっとルネを下ろした。
「本当に大丈夫か。痛むなら、無理せずに言うのだぞ」
ルネは思わず、心配そうな顔でのぞき込む魔王さまから目を逸らした。
「どうして……」
うつむいたまま、ルネは小さな声で言った。
「大事なペンダントより、僕のことを……」
「当然だ。余の花婿だぞ」
「――っ!」
ルネの胸が締めつけられるように痛んだ。
「ま、まだ正式に決まったわけでは」
「そそそそうであったな!」
魔王さまは真っ赤になったが、ふと、真面目な顔をした。
「だがともかく、ネヴィスランドまで来てくれたのだ。大切にしたいと……、思って、いる」
たどたどしい口調で、魔王さまは言った。
「魔王さま……」
ルネは顔を上げた。
魔王さまの慈しみはルネにも伝わっていた。今日だけではない。この魔王は時々、とても優しい目で自分を見る。ルネはそう気づいていた。
ただの人質のはずなのに。
ふと見ると、魔王の頬に泥がついている。
「魔王さま。お顔に汚れが」
ルネはハンカチを取り出すと、手を伸ばして泥を拭い始めた。
(ルネが!! 俺の!! 顔を!!)
魔王さまは、銅像のように固まってしまった。しかし、記念すべきこの瞬間を胸に焼きつけておかねばと、間近にあるルネの顔を穴の空くほど見つめた。
ふと、ルネの手が止まる。
(ん?)
ルネも、魔王さまを真っ直ぐ見つめ返していた。
(こ、これは――。もしや!?)
魔王さまの身体に緊張が走る。
(くっ、口づけをする流れでは!?)
魔王さまはかつてないほど動揺した。
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