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ネヴィスランドのアイスクリーム
ルネは、逃げ込むようにして部屋へ戻った。
女中が湯浴みの用意をしてくれていた。一度にいろいろなことがあったので、ルネはすっかり混乱していたが、温かい湯に浸かるとようやく心が落ち着いてきた。
(どうして、涙なんか……)
冷静さを取り戻した途端に恥ずかしくなり、誰が見ているわけでもないのに顔を伏せる。
(あれは――ただの同情だ! そう、少し気の毒になっただけだ。悪い人ではないみたいだし、あの魔王さまは――)
僕を好きになってくれた。
ルネの頬が火照った。
魔王さまは、ルネがセヴィーラの王子と知らぬうちから――、ルネの身分も立場も関係なく、ただ一目見ただけで、好きになってくれたのだ。
(ど、どうして僕なんだ。顔とか? でも別にこれといって……)
絵に描いた貴公子そのものの兄、クラウディオに比べれば、ルネの容姿はいたって地味だ。別にまずくはないが、見かけだけで人を虜にする艶やかな美少年とは言い難い。
(魔王さま、か。なんだかおかしな人だな)
ルネはくすっと一人笑いした。性の経験がないことを、大真面目に告白した時の顔が胸に浮かぶ。
(だけど……。強い、人なんだな)
ルネは顔を上げ、浴室の窓から、暮れかけの空に輝く一番星を眺めた。
ネヴィスランド王室で、魔王さまの立場は微妙なものに違いない。王位継承者を意味する「魔王」の称号を持ちながら、次の王になることはない。陰で心ないことを言う者もいるだろう。勢力の板挟みになることだってあるだろう。しかし魔王さまはそんなことに煩わされず、己がどうありたいか、何をしたいかを自分自身で決め、その通りに行動しているのだ。
羨ましい、とルネは思った。
あの魔王さまは、魔王の肩書きや王族の身分がなかったとしても、きっとあのままだろう。今の魔王さまと同じように、己の道を、自分らしく堂々と歩いてゆくに違いない。
(それに比べて、僕は……)
王子などと言っても、我が身のあり方ひとつ、自分で決めることはできないのだ。
(でも……、そうかと言って、)
ルネは浴槽から出て、大きな姿見の前に立ってみた。
姿見の中には小柄で色白で、亜麻色の髪と瞳を持つ少年がいる。王子の衣装と装飾を取り払った裸の少年は、それ以外の何者でもなかった。
(王子という肩書きがなければ、僕は何者でもないんだ)
ルネは身震いした。
セヴィーラ王子でないルネ。ルネ・セヴィーラ・フェルディナでもなんでもない、ただのルネ。どこにでもいる十八歳の少年には、何もなかった。
(まるで、空っぽだ)
他者の思惑に右往左往し、力を求めて手を伸ばす。王になろうがなるまいが、結局、その名をまとう「力」に翻弄されていることに変わりない。
(僕は所詮、コマにしかなれない)
ルネはひどく虚しくなった。
しかしコマはコマなりに精一杯、役目を果たすしかない。
マファルダ王の考えがどうあれ、フェルディナ八世が和解に応じるとは思えない。縁談の件は誤解と分かったが、父王にとってはどうでもいい話だろう。父王の標的はマファルダだけではない。魔力の宝玉でマファルダを征圧した後は、近隣諸国へも侵攻するに違いない。
父もまた、力が欲しいのだ。
(宝玉を持たずにセヴィーラへ帰ることは許されない。故郷の土を再び踏みたければ、宝玉を手に入れるしかないんだ)
早い鼓動が胸を打つ。
(それとも……、本当に魔王さまの花婿になって、このネヴィスランドで……)
ふと心をよぎった考えに、ルネはハッとして頭を振った。
(馬鹿な! そんなこと、できるはずがない。それに――)
仮に魔王さまと結婚しても、その生活はたったの数年で終わってしまうのだ。
ルネは身体を拭き、服を着た。そしてもう一度、姿見に映る自分の姿を見た。
そこには王子の装束に身を包む、セヴィーラ王国第六王子、ルネ・セヴィーラ・フェルディナがいる。ルネは安堵した。
(こうしてその名にふさわしい服をまとい、鏡に映して確かめる。そうしなければ、僕は自分が何者であるかを見失ってしまう)
そして、ルネがルネ・セヴィーラ・フェルディナ王子でいるために、必要なものがある。
「魔力の宝玉を、手に入れるんだ」
ルネは声に出し、鏡の中の自分に言い聞かせた。
(他者のものを卑怯な手で奪ってでも、必要なんだ――)
ルネにとって一番恐ろしかったのは、セヴィーラを捨てることよりも、魔王さまの愛情を受け入れることよりも、セヴィーラ王子という肩書きのない自分、何者でもない、空っぽの、ただのルネになってしまうことだった。
翌日。
部屋で一人、遅い朝食を取ったルネは、テラスの椅子に腰かけて食後の茶を飲んでいた。
庭園では庭師が忙しく働いている。あくせくと植木を刈り込んでいるが、あれをトピアリーにすればもっと庭園が華やかになるのに、などと、ルネはぼんやり考えていた。
警備の兵が、力強い足取りで庭を横切っていく。馬を散歩させる厩舎係。ちょこまかと動き回るメイドたち。
(こうして見ていると……、セヴィーラの民と少しも変わらない)
ネヴィスランドの魔族たちも、それぞれのささやかな日常を生きていた。
ルネは力なく顔を伏せた。手にした真っ白な陶器の杯を、見るとはなしに眺める。
(ぼうっとしている場合じゃない。宝玉を手に入れる手立てを、考えなければ)
その時だ。黒塗りの馬車が、庭園内の小道を宮殿の正面に回ってくるのが見えた。
(あれは……)
魔王さまの馬車だ。視察の時に乗った。
(どこかへ出かけるのかな)
ルネは一瞬、躊躇った。しかしすぐに、上着の長い裾を翻して宮殿の正面口へ向かった。ポケットには偽物のペンダントを忍ばせて。
(相手はたかが魔物じゃないか。しっかりしろ、ルネ)
「魔王さま」
声をかけた時、魔王さまはちょうど馬車に乗り込むところだった。
「お出かけになるのですか?」
「おお、ルネか。街へゆくのだ」
「僕も、ご一緒してよろしいですか?」
「え?」
(えっ! えっ!? ええっ!?)
かっこつけるのをやめた魔王さまは、素直に嬉しそうな顔をした。
「ああ、お邪魔でしたら遠慮しておきますが」
ルネは吹き出しそうになるのをこらえつつ、背を向けかける。すると魔王さまは大慌てで止めた。
「待てっ! と、供をするがよい! アイスクリームを買ってやるぞ!?」
ルネが乗り込むと馬車は滑るように走り出し、宮殿の門をくぐった。
今日は市の立つ日ではないらしく、街はこの前よりずっと静かで落ち着いた雰囲気だった。ルネはほっとした。
「魔王さま、今日はどちらへ?」
「おばちゃんのアイスクリーム屋だ」
「ああ、あの……」
二人は街の中心へ向かった。
広場に足を踏み入れると、向こうでアイスクリーム屋が店を出していた。おばちゃんは今日もいつもの場所で、いつもの通り、元気にアイスクリームを売っている。
子供たちがやってきた。おばちゃんは、アイスクリームをたっぷり器に盛りつけて渡す。
「そら、落とすんじゃないわよ」
よく通る声が、広場のこちら側まで聞こえてくる。
「…………」
ルネのすぐ側を、花売りの娘が横切っていった。
「あら、魔王さま!」
二人して店に近づくと、おばちゃんは声をかけてきたが、ルネに気づいて少し気まずそうな顔をした。
「いつぞやは、せっかくのアイスクリームを台無しにしてしまったな」
ルネは一歩前に出ると、少し顔を赤くして言った。
「代わりに、これを取らせる」
ルネは花売りの娘から買った小さなブーケを、おばちゃんに差し出した。
「あら、まあ……!」
おばちゃんは、おずおずとブーケを受け取った。魔王さまは後ろで地団駄を踏んでいる。
(俺だってまだ贈り物などもらったことないのに! ずるい! ずるいぞおばちゃん!)
「あ、ありがとうございます、ルネ殿下」
おばちゃんは、よそゆき声で言った。
「お花をいただくなんて、何年ぶりかしら……♡」
少女のように頬を染めるおばちゃんに、魔王さまは咳払いした。
「あら魔王さま」
「あ、アイスクリームをいただきたいのだがな!?」
「まあまあ、そうでしたわね。今日はカボチャのアイスクリームがありますよ」
「おお、それは珍しいな。いただこう。ルネも食べてみるか?」
「えっ。……は、はい」
おばちゃんは、木の椀にカボチャアイスクリームを入れて渡してくれた。魔王さまとルネは、店の脇に備えられたベンチに並んで腰を下ろす。
「……おいしい」
カボチャアイスクリームを一口食べるなり、ルネは目を丸くして呟いた。
風味豊かなネヴィスカボチャ本来の味を活かし、最低限の材料だけが加えてある。ほんのりした甘みと素朴な味わいは、ルネが食べ慣れたセヴィーラのデザートとは一味違うおいしさだった。
「うむ。ネヴィスランドのアイスクリームは、世界一だからな!」
魔王さまの得意気な口調に、ルネは思わず微笑んだ。
(……ネヴィスランドの産物を、誇りに思っているんだな)
そこへおばちゃんが、奥の方から小さめの壺を出してきた。
「試作品が届いてますよ、魔王さま。ヒヨコ豆のアイスクリームですって」
おばちゃんは味見用に少しだけ腕に取り、二人に渡す。
「ほう、冒険的な試みだな。どれどれ」
魔王さまは真剣な顔で、ヒヨコ豆アイスクリームを試食した。
「うむ! とてもこってりしているな。今までにない味わいだ。だが少々甘みがきつい。砂糖より蜂蜜を加えるとよいのではないか。その方がまろやかな甘さになる」
「そうかもしれませんね。工房の方に伝えておきます」
おばちゃんはメモを取った。
「それから梨とイチジクも入荷してますよ」
「いただこう」
魔王さまは次々にアイスクリームを試食していく。
「ふむふむ」
(あ、あんなに食べて大丈夫なのかな)
ルネはカボチャアイスを食べながら、はらはらして見守った。
「うーむ。梨はあまり風味がよくないな。味にふくよかさがない」
「今年は不作ですね。肥料の調整に失敗してしまったそうです」
「そうか。技術指導の者をよこすよう、手配しておこう。ところでイチゴはないのか?」
「今日は少ししか入荷しなくて、売り切れちゃったんですよ」
「むっ。それはいかん。機会損失だ」
「工房にイチゴが入ってこないんですよ。果樹園の人手不足で、豊作があだになってるみたいで。収穫が追いつかなくて、だいぶ放棄してるそうです」
「ううむ。最近、追加人員を補充したのだが。仕事に慣れて効率が上がるまで、もう少し時間がかかるか……」
「本当に困ったものですねえ。どこかに、働きたい人が大勢いればいいのに」
おばちゃんは嘆いた。
「イチゴは主力商品だからな、ゆゆしき問題だ。早急に人材を確保するか、さもなければ他の果樹園から臨時に助っ人を回すか……。しかし人手不足はどこも同じだからな」
魔王さまも額に手を当て、ため息をつく。
「人手不足とは……。ネヴィスランドは景気がよいのですね」
ルネは言った。
「それもあるが、近頃は若者の魔術ばなれが進んでいてな。果樹園や工房で働きたがる者が少ないのだ。――ところでルネよ、今日はせっかくだからお前の意見も聞きたい。アイスクリームについて、何か気づいたことがあれば聞かせてくれ」
「え? 僕が?」
ルネは躊躇った。
実は先ほどから漠然と感じていたことがあるのだが、言うべきか迷う。
「よいぞ。忌憚ない意見を聞きたい」
魔王さまはルネの表情から察し、言葉を促した。
「そうですか、では。――このアイスクリームですが、」
ルネは、アイスクリームの器を持ち上げた。装飾が一切ない、素朴な木製の器だ。
「芸術性が足りません」
ルネは、ずばりと言った。
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