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知らせ
その知らせが届いたのは、ある日の朝食時だった。
「魔王さま! ルネ殿下! 大変です!」
宮殿の侍従長が、息せき切って食事室に駆け込んできた。魔王さまは驚いて食事の手を止める。いつも落ち着いた初老の侍従長がこれほど取り乱すなど、ついぞないことだ。
「どうした」
「セ、セヴィーラで、クーデターが起きたとの知らせが――」
侍従長は喘ぎながら言った。
「クーデター!?」
ルネがスプーンを床に取り落とし、乾いた音が部屋に響いた。
「は、はい。なんでも国王フェルディナ八世のご長男が父王を退位させ、自ら王の座に就いたとか……」
「クラウディオ兄上が!?」
「他のご兄弟や、臣民たちの多くも同調したようです」
「そんな馬鹿な。どうしてクラウディオ兄上が……?」
ルネは呆然とした。
他の兄なら話は分かる。しかしクラウディオは誰もが認める、次期王の最有力候補だ。本人にもその自覚があるだろう。クラウディオはただ待っているだけで、いずれ王座に就けたのだ。わざわざクーデターを起こす必要がない。
しかしゆっくり思案している間もなく、侍従長が言った。
「大魔王さまが、至急お二人にお越しいただきたいとのことです」
「分かった。ゆこう、ルネ」
「は、はい」
二人は大魔王さまの部屋に向かった。
「おお、来たか」
大魔王さまは、いつもの通り柔らかな声音で二人を迎えた。鷹揚とした態度だが、その太い眉根に微かな緊張感を漂わせている。
「セヴィーラの件を聞いたか」
「はい」
「実はクラウディオ・セヴィーラ・フェルディナ殿下――、いや、今となってはフェルディナ九世と呼ぶべきか。そのルネ殿下の兄上から、密書が届いているのだ」
大魔王さまは、ルネを見やった。
「大魔王さま、兄上は一体何と?」
「即刻弟を返せ、と言ってきている。目下ネヴィス湾沖にセヴィーラ海軍艦隊を集結させ、クラウディオ・フェルディナ九世陛下自身が旗艦に乗り込んでいるそうだ。弟を返すなら軍を引くが、返さぬなら総攻撃だと息巻いている」
「な……っ!」
ルネは絶句した。
「どうも解せぬな。フェルディナ九世は、なぜこんなにケンカ腰なのだ? 弟御に会いたければ、ただ訪ねてくればよいものを」
大魔王さまは首を傾げている。
「父上。セヴィーラとの間には、少々誤解があったようなのです」
魔王さまは、縁談の経緯で生まれた行き違いのことを説明した。
「なんと」
大魔王さまは苦笑いした。
「マファルダ王の行動力は素晴らしいが……、あの男はどうも、やることが大雑把でいかん。それに詰めが甘い。だからチェスもなかなか上達せんのだ」
「父上」
魔王さまが一歩進み出た。
「どうかご心配なく。誤解を解けば済む話です。会見の場を設けましょう」
「そうだな。ではお前に任せるとしよう」
「旗艦をネヴィス港に寄港させるよう、使者に伝えてください。迎えを出します」
「分かった」
大魔王さまはほっと息をつき、ルネに優しく微笑んだ。
「それにしても……。とんだ誤解ではあるが、クラウディオ・フェルディナ陛下は、弟思いのよき兄のようだ。セヴィーラ国内は今、政権交代で大混乱しているであろうに。このような時に国を離れ、弟のため自ら出向くとは」
「は……、いえ、恐れ入ります」
ルネは言葉を濁し、お辞儀で応えた。しかし伏せた頭の中では、兄の行動について様々な考えを巡らせていた。
(兄上は、父上が僕に下した密命のことを知ったに違いない。もし僕が成功すれば、後継者の座を奪われるかもしれない。だから先んじてクーデターを起こしたんだ)
そして、わざわざ自らがネヴィスランドまでやって来た理由は――、
(魔力の宝玉を手に入れるため……)
ルネは唇を噛む。懐かしいあの花の香りが一瞬、胸をかすめて消えた。
ネヴィス湾を臨む高台のテラスから、ルネは海原を見下ろした。曇り空の下で北国ネヴィスランドの海は灰緑色にくすみ、故郷セヴィーラの、宝石のように透明な青とは似ても似つかない。
しかしテラスの柵に絡む蔓バラが、白い花をいっぱいにつけていて、陰鬱な眺めを不思議と情緒あるものに彩っていた。
ここは避暑地ネヴィス海岸にある、王家所有のささやかな別荘だ。ネヴィス港にほど近いこの建物を、魔王さまは会見場所としてクラウディオの使者に伝えた。そしてアルシエルと少数の供を連れ、ルネと一緒に出向いてきたのだった。
ルネはバラの香りに誘われるように、柵に近づいた。僅かに身を乗り出して柵の外の断崖絶壁をのぞくと、軽く身震いして身体を引っ込める。
テラスから応接間に入る、大きなガラス張りの扉を、魔王さまの黒猫がカリカリと引っかいていた。部屋にいるティノが気づき、扉を開いて中に入れてやった。
「ルネさまもそろそろお入りください。海風は思いの外身体が冷えます」
ティノは心配そうな顔でルネに声をかけた。
「うん。すぐに行く」
ルネは肩越しにちらりと振り向いてティノに答え、また海に目をやった。今まさに、クラウディオの乗るセヴィーラ海軍艦が港に近づいてくる。約束の時刻になれば、クラウディオ自らここへ乗り込んでくるはずだ。
ルネは空を見上げた。今にも降り出しそうな天気だ。もくもくと湧き上がる灰色の雲は、ルネの揺れる心が表へ出てきたようだった。
今日の会見はまず、クラウディオに縁談の経緯を説明して誤解を解く。魔王さまが、きちんと説明すると言ってくれた。魔王さまはそれで万事問題ないと思っている。
(だけど兄上の本当の目的は、宝玉だ)
誤解が解けても、それで済むわけではない。
海風を心配するティノのガラス越しの視線を無視し、ルネはすいぶん長いこと、海を見ながら考えた。そして、心を決めた。
(魔力の宝玉はただの言い伝えで、そんなものはなかった、と言おう)
今のルネには、魔王さまから宝玉を盗むことなどできなかった。
(宝玉がないなら、兄上はもう僕にもネヴィスランドにも用はないはずだ)
魔王さまがこのまま縁談の話を進めたいと言えば、ルネなど放っておいてセヴィーラに帰るだろう。
(でも――)
ルネの表情が陰る。
(魔王さまからは、まだはっきりとプロポーズをされたわけじゃない……)
婚約を前提に招待、という話で、ルネはネヴィスランドへやって来た。しかし考えてみれば、それまで魔王さまはルネのことを何一つ知らなかったのだ。一緒に過ごしたこの期間で、魔王さまが「理想と違う」と失望し、気が変わったとしてもおかしくはない。そうでなくとも、こんな事態になってしまい、今やルネはトラブルの元だ。
(もしかしたら魔王さまは、この機会に婚約破棄して、僕をセヴィーラへ帰すつもりかもしれない)
クラウディオが王になったことで、ルネの王座への希望は閉ざされた。しかしルネはそのことに、大して失望もしていない自分自身に気づいていた。
(僕は、セヴィーラに帰りたくないと思っている。でも魔王さまは、僕を帰さないと言ってくれるだろうか?)
「クラウディオ・セヴィーラ・フェルディナ九世陛下、ご到着です」
クラウディオを案内してきたアルシエルが、応接間の扉を大きく開いた。
ルネの身体に緊張が走る。フェルディナ九世、その呼び名には、やはり心が騒ついた。王座を奪った兄との対面を、どのような顔で迎えるべきか。この瞬間になってもルネには分からなかった。だからせめて兄への複雑な想いが表に出ぬよう、唇を引き締めて表情を強張らせた。
クラウディオ・セヴィーラ・フェルディナ九世が、ゆったりした足取りで応接間に入ってくる。その立ち居振る舞いは既に王の風格を備えていて、ルネですら思わず姿勢を正すほどだった。
「ようこそ、フェルディナ九世」
魔王さまは両手を差し出し、笑顔でクラウディオを迎えた。しかしクラウディオはいかにも形だけのおざなりな握手をし、社交辞令を返す。そして鋭い目線で、魔王さまの後ろに控えるルネを捉えた。
「ルネっ!」
「あ、兄上……?」
ルネは困惑した。
クラウディオの表情には、なんのわだかまりもなかった。そこにあるのは王の顔ではなく、弟を思う兄、どこにでもいる普通の、優しい兄の顔だった。
「――失礼!」
クラウディオは魔王さまに一言断ると、ルネに駆け寄った。そして、しっかりと胸に抱きしめる。小柄なルネは、クラウディオの腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「おお、久方ぶりの再会でしょう。どうぞご遠慮なく」
魔王さまはにこやかに微笑み、兄弟を見守っている。
「兄上……」
温かい兄の胸は、幼い頃のまま、少しも変わっていなかった。そしてその温もりが、無言のうちにルネに伝えた。
兄は宝玉のためにやって来たのではない。
セヴィーラでルネの縁談話を聞いた時、クラウディオは、自分を頼ってくれと言った。
(口先だけじゃ、なかったのか……?)
大変な時にも関わらず、クラウディオ自らここへ乗り込んで来たのは――、己自身の手で、人質の弟を救い出すためだった。ルネを軽んじてきたセヴィーラ王室で、少なくとも兄のクラウディオだけは、ルネに肉親の愛情を傾けていてくれたのだ。
「兄上……」
ルネはやるせなく、ただ兄の腕の中で、その温かい真心を感じていた。
「ルネ、無事でいたか。ひどい扱いをされたか?」
クラウディオは瞳に涙を滲ませてルネの顔をのぞき込み、小声で尋ねた。
「い、いいえ。そんなことはありません。大丈夫です……」
「そうか……。よかった」
クラウディオはくるりと身を返し、険しい目つきで魔王さまを睨みつけた。
「では、我が弟はセヴィーラに連れ帰る。異存があるなら全面戦争だ!」
「あ、兄上っ!」
「…………」
クラウディオの物言いに、魔王さまは静かな口調で答えた。
「……それを決めるのは、貴殿ではない」
低い声色は、いつもの魔王さまらしくない。少し怒っているのだと、ルネには分かった。
「なんだと?」
クラウディオも、声にすごみをきかせる。
「兄上、おやめください。魔王さまは……」
「お前は黙っているんだ、ルネ。私が話をつける」
「フェルディナ九世よ。貴殿のやり方は些か横暴だ。ルネが帰りたいと望むなら、本人が余にそう言えばよい」
「ははっ」
クラウディオは鼻でせせら笑った。
「ルネがそう言えば、帰すとでも?」
(帰さない、とは言ってくれないのか……)
ルネはうつむいて、落胆の表情を隠した。
「よかろう。条件はなんだ?」
クラウディオは、魔王さまに詰め寄った。
「そんなものはない」
「どういうことだ。人質を取っておいて、無条件で返すとは」
クラウディオは眉をひそめる。
「なるほど、魔族の得意技というわけか。甘言で人をそそのかし、邪悪な契約を結ばせる――」
「一体、何百年前の話をしているのだ」
魔王さまは呆れ顔で言った。
「情報が古いぞ」
「兄上、話を聞いてください」
ルネは二人の間に割って入った。
「ネヴィスランドには初めから、僕を人質にする意図などなかったんです」
「なに?」
他ならぬ弟の言葉に、クラウディオもようやく耳を傾けた。
「どういうことだ。人質でないなら、なぜ縁談などを持ち込んだのだ」
「一目惚れしたからだ」
魔王さまが言った。
「ひ、一目惚れ……、だと?」
「そうだ。ある社交の場でルネを見かけて、それで――」
「まさか! 信じられぬ!」
クラウディオは怒鳴った。
「なぜ信じられぬ? ルネはこんなに可愛いのだから、誰かが一目惚れしてもおかしくないだろう」
「ま、魔王さまっ」
「ぐっ……。確かに……」
クラウディオは唇を噛んだ。
「一目見て、好きになった」
魔王さまは、堂々と胸を張った。
「可愛くて優しくて賢くて、剣も乗馬も上手で可愛くて、ちょっとわがままで怒りんぼで可愛い」
魔王さまとクラウディオは、しばし無言で睨み合った。クラウディオは探るような目で、魔王さまを見つめる。
「では本当に、我がセヴィーラと敵対する意図はない、と……?」
「当然だ。花婿の実家だぞ」
「…………」
「信じてください、兄上!」
ルネも必死に口を添えた。
ところがクラウディオは、思いの外あっさりと言った。
「そうか。それなら合点がいくな」
「え? し、信じていただけるのですか?」
「ああ。実はしばらく前にマファルダが突然、友好条約の締結を打診してきたのだ。今の話が本当なら、辻褄が合う」
「そ、そうです兄上! マファルダ王は、セヴィーラとの和解のきっかけになればと、縁談を仲介してくれたんだそうです」
「なるほど。そういうことだったか……」
クラウディオは呟いた。
「とにかく、お前が人質としてひどい扱いをされたのでないなら――、よかった」
クラウディオは安堵の表情で、ルネの髪を撫でた。
「兄上……」
兄の優しい手で、ルネの心から、長い間のわだかまりが消えていく。
やがてクラウディオは居住まいを正し、魔王さまに向き直った。
「どうやら、こちらの勘違いだったようだ。大変失礼した、お詫びを申し上げる」
「水に流そう。こちらも誤解を招いて申し訳なかった」
黒猫が、魔王さまの肩に飛び乗った。
「いや~! めでたしめでたし、だな!!」
「うむ。一時はどうなることかと思ったが」
魔王さまもほっと一安心し、緊張を解いて猫の背を撫でた。猫はゴロゴロと喉を鳴らす。
ところが、その時だ。
クラウディオがひらりと剣を抜いた!
「――だが許さん!!」
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