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Ⅲ
「あ゙」と、シエラから剣呑な声が出た。隣にいたアネーシャは世話をしていた花から顔をあげ兄の視線の先を見る。
「またお前か、ちっちゃいの」
「シエラだ。いい加減覚えろ、チビ王子」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
血の気の引いた顔でアネーシャは兄の服を掴んで挑発を止めようとする。
「お兄ちゃん? 貴様図々しく妹まで献上して兄上に近付いたのか!」
その言葉に今まで以上にないくらいシエラは激昂し、妹の手を振り払ってニキアスに手を伸ばした。
「てめぇっ……」
だが、その手がニキアスに届くより早く背後から別のものが伸びて来た。
「黙りなさいッこの無礼者!! よくも私の可愛いアネーシャを侮辱したわね!! 今すぐその舌切り落としてやるわ!!」
兄妹の頭の上をあっさりと素通りして、メドゥーサの怒り狂った毒蛇が刺さるようにニキアスに伸びた。
「あっ、姉上っ」
ニキアスの顔から一気に血の気が引いている。
「肥料代わりにこのバラ園にお前の肉を撒いてもいいのよ、ニキアス。せめてものお詫びに美しい花の一輪でも咲かせてみせなさいよ、さあ!!」
メドゥーサこと、アレクシアが一歩前に進むと脇目も振らずにニキアスは花壇から逃げ出した。それはまるで猫に見つかった小さな鼠のようだった。
「許してね、アネーシャ。あのバカは二度とここへ近づけないようしっかり言って聞かせるから。あんなバカの言うことなんっにも、微塵も気にしなくていいよの!」
「あ……ありがとうございます。アレクシア様。あのぅ、あの方は弟君でいらっしゃいますか?」
「そう、認めたくないけど一応ね。捻くれ者なのよ、私に似たのかもしれないけどね」
アレクシアは悔しそうに小さくため息をついた。
「あなたも、あいつに何かされたらすぐにヴァシレフスに言うのよ。家族だからってあいつの無礼は私が許さない」
シエラはそれにただ黙って頷くだけだった。
──そうだ。
ニキアスの言ってることは城のみんなが口にしないだけで実際、腹の中で思っているごく自然なことなんだ──。
「男の、こんな格好の俺が……王子の伴侶なんて、変だよな……」
シエラは客間に戻り窓の外を眺めながらひとり、小さく呟いた。
──────
「街を見に行く? 一人でか?」
シエラの突然の申し出にヴァシレフスはあからさまに否定的な声を出した。
「うん。たまにはブラブラしてみたいなって、お前が一緒だと多分楽しくない気がするから」
「今普通に失礼なことを言っている自覚があるのかどうかを先に聞きたいところだ」
「冗談だよ」と、シエラはクククとヴァシレフスの真似をして喉で笑った。
「本当に、一人で街を見て回りたいんだ。ここへ来てから殆ど城で過ごしてたから、一度この国をゆっくり自分の目で見てみたくなったんだ」
「知らない街で一人は心配だ。せめてカリトンを連れて行け」
「大丈夫だって、か弱き乙女でもあるまいし。こんな体でもその辺の奴よりかは頑丈に出来てんの! 村育ち舐めんなよ!」
「舐めてるんじゃない、ただ心配なんだよ」
そんなことは口にしなくてもシエラにはわかっていた。ヴァシレフスはいつだって対等の人間として自分を扱ってくれる。そんなこと誰よりも知っていたし理解している──。
「これは俺なりの息抜き。な? お前ならわかるだろ?」
ヴァシレフスは複雑な面持ちで最後は渋々シエラの望みを承諾した。
シエラは普段身に付けている高価な生地のトガを外してシンプルに膝丈のトゥニカだけで街へ繰り出した。頭には布を纏い、目立つ髪と肌を隠す。
初めて訪れる街は育った村とは全く違い、人々で溢れかえり市場は活気に満ちていた。
店主の顔の高さまで積まれた色とりどりの野菜たち、籠に入った真っ黒な体に赤い鶏冠をもつ鶏、刺激的な香りを運んでくる香辛料、乾燥させたナッツやフルーツの山、シエラは食料の多さや国の文化の違いに圧倒され、ポカンと開いたままの口に暫く気付けずにいた。
歩き続けて疲れた足を休めるためにシエラは飲み屋の建物の片隅にあったの木で出来た空き箱に腰掛け市場で買った果実を齧り喉の渇きを潤した。
レンガ色の外壁にもたれかかって空を見上げる。
何に邪魔されずに広がる青空だけは唯一自分が育った村と同じだった──。
最近のヴァシレフスは東の塔へ行くことがめっきり増えていた。後 の王になるべく彼のすべきことがたくさんあるのだろうとシエラは理解する反面、王になる日が来たらその時彼は世継ぎについてどう思うのか、シエラが考えない日はなかった。
「俺がカーラだったら……こんな風にならないで済んだのに……」
自分でそう呟いておいて自分勝手な胸がチクリと痛む。
「第二夫人なんてのも、出来るのかもしれないなぁ……、いやそもそも俺が二番になるのかも……」
シエラの思考はますます暗いものとなっていくが、それを止めることがここ最近ずっと出来ないでいた。
もし、他にそんな人が現れたら、自分はどんな顔をしてあの城にいることが出来るのだろうかと──
「運命なんて、全然簡単じゃない……」
涙が出そうになるのを振り切るようにシエラは木箱から飛び降り、再び街を歩いた。
太陽が次第に傾き始め、街の風景がゆっくりオレンジ色に染まり始める。
その眩しい光に目を細めた瞬間、すれ違いざまの男と肩が触れた。
「痛ぇなぁ!」と、あからさまに険悪な声を男は出した。その息は浴びるほどに飲んだのか酷く酒臭い。
その吐く息に思わず顔を背けたシエラが余計癇に障ったのか荒々しく胸元を掴まれる。
「なんだよ、その顔はぁ!」
「悪い、わざとじゃないんだ。ちょっと余所見してて、すまない」
「すまないじゃないよ、おにーさん」
男は自分より背の低いシエラの顔を覗き込むようにしてそのいやらしい顔を傍へ寄せる。
「なぁ、俺まだ呑み足りなくてよお。でももう金もなくてちょうど困ってたんだわー。だーかーら謝礼は言葉じゃなくて金で。な? それが筋ってもんだろ」
男はシエラに無理難題を押し付けてくる。いい加減うんざりしたのかシエラはギロリと琥珀色の目で男を睨み「金ならない」と早口で答えた。
「てめぇ、ガキのくせに舐めてんのか?! 人にぶつかっといてその態度はなんなんだ、この野郎ッ!!」
男はシエラの頭に巻いていた布を強引に剥いだ。取り返そうとシエラが伸ばした手は届かずに空を切る。
「なんだお前、その肌の色……、お前まさか奴隷か?」
その言葉にシエラは頭に一気に火がつき、男の脛を思いっきり蹴り上げた。突然の痛みに男は怯み体をよろめかせる。
「ふざけるな!」
シエラは男から布を奪い取り背後で喚き散らす男を振り返ることなく全速力でその場を立ち去った。
市場の通りを黒い艶髪をしたシエラが通るたびに人々は珍しいものを見るかのように目を丸くしてシエラの姿を目で追う。それが嫌でシエラは何も考えずただひたすらに走り続けた。
──────
足が限界を迎えた頃、シエラが辿り着いたのはあの川のほとりだった──。
荒い息を必死に落ち着かせながら、シエラは穏やかな川の流れに耳を澄ませ、ゆっくりと心を落ち着かせた。
汗でべとつく顔を洗いたくて川の水に顔をつける。その冷たさにシエラは荒れた心が静かに収まっていくのを感じた。
「……走り過ぎた……。疲れたな……」
シエラはそのまま砂利の上に仰向けになり、空を仰いだ。空には少しずつ星が顔を覗かせはじめていてた。
「ヴァシレフス……今頃心配してるかな……。あんまり遅くならないようにしろって言ってたからな……」
体を横にした途端、疲労が全身を襲い、シエラは急な睡魔に襲われた。
こんなところで寝たらまた変な輩に絡まれるかもしれないのに、と頭の片隅ではわかっているのにシエラにはもう限界のようだった──。
睫毛がゆっくりと閉じていく──。
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