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 カリトンがひどく疲れた顔をしてヴァシレフスに食後の茶を給仕している。さきほど終えたばかりの朝食にシエラの姿はなかった。 「──どうした? 寝不足か?」  ヴァシレフスは従者を心から気遣い声を掛けるが何故かジトリとした視線を返される。 「ええ、寝不足ですとも! 私の部屋があなたの二つ隣であるのをお忘れですか? ええ、お忘れでしょうね! 夜中から朝まで延々と……っ。あれをもしニキアス様が偶然にでもお聞きになられたかと思うと心臓が潰れる思いです! 持ちません! 今日顔を合わせないことを祈るばかりです」  ヴァシレフスは従者の怒りを察して、誤魔化すように下手な笑みを浮かべ、頭をかきながら天井を仰いだ。 「まぁ、たまには許してくれ」 「いえ、私には想像がついております。あなたたちのことですからあと3日は続きますね」  その返答にヴァシレフスは固まった笑顔のまま絶句した──。  シエラはあまりの疲れに起きることができなかった。一度ヴァシレフスと目を覚ましたが、頭が重いのと下半身が他人のように重くてとてもじゃないが起き上がれそうになかった。  好きなだけ寝ろとヴァシレフスに言われ、その言葉に甘えて昼前までヴァシレフスの寝室で過ごした。  ベッドからはヴァシレフスの香りがしてシエラは幸福感に満たされる──。 「あの花……」  ふと昨夜の花のことを思い出し、シエラは重い腰をどうにか引きずって床が見えるまでベッドの端へと這って進んだ。  だかどこにも花の姿はない──。  空になった一輪挿しは残ったままそこにあるのに飾られていた花は部屋のどこにも落ちていない──。 「夢……? いや、まさか……どうなってるんだ?」  床に落としたせいでヴァシレフスかカリトンがもう捨てたのかもしれないと確かめるため重い体をどうにか起こして、トゥニカを雑に羽織った。  一気に70歳ほど老け込んだような動きでズルズルとヴァシレフスの寝室の扉を開けると廊下に通りがかった人影と目があった。 ──ニキアスだ。  思わず構えたシエラだったが、シエラに気付いたニキアスはなぜか凍ったように固まっている。 「──ニキアス?」  明らかに様子のおかしい王子の顔色を近くで窺おうとシエラがその頭をニキアスに寄せた途端ニキアスから「ヒッ!」と変な声が出たのでシエラは驚いて動きを止めた。 「へ?」 「や、やあ! シエラッ、ごっ、ご機嫌よう!」  裏返った声で一言発してニキアスは凄い勢いでその場を後にした。  小さくなっていく背中を眺めながらシエラは首を傾げた。 「ああ──」と憂いを帯びた声でヴァシレフスが納得しながらシエラが話すニキアスの様子を理解した。 「なんだ? ああって。あいつなんか変なものでも食ったのか? 毒キノコとか?」 「──それはシエラ様の方では?」  シエラはの分の朝食を運んできたカリトンの顔が思ったよりも近くにあってシエラは思わず怯む。 「俺が──なに?」 「さて、何でしょうね。では、わたくしは失礼致します。どうぞごゆっくり」  カリトンは殆どシエラの顔を見ることなく淡々と準備を済ませ扉に手を掛ける。 「あっ、カリトン! 寝室にあったアネモネ知らない?」 「昨日一輪挿しに差した花ですか? 私は存じ上げませんが、それに──」 「それに?」 「あの部屋に入ろうなどと、私はそこまで常軌を逸しておりませんよ、シエラ様」 「えっ?!」  冷ややかに告げるとカリトンはさっさと部屋から消えた。  コホン、と小さくヴァシレフスが咳払いする。  なんとなく空気を理解したシエラは自分の脳味噌が沸点に達し爆発する音が聞こえた。 「嘘だろ、嘘嘘……嘘〜」  両手で顔を覆って肩を竦ませている。 「──まあ、うん。過ぎたことだ」 「全然救いになってないっ!!」  思わず涙目でシエラは嘆く。  ────── 「ありえない、ありえない、ありえない!」  ニキアスは一人顔を赤く染めて廊下を早足で歩き続けた。  動いていないと落ち着かない。目的地があるわけでもないのに歩くのをやめられないでいた──。 「あ、兄上があいつと……。伴侶って本気だったのか……しかもあいつ……」  たまたま廊下で聞いたシエラとは思えないほどにあの甘い声にニキアスは一人心臓を跳ね上げる。  見た目は子供で小さくて、太々しくて偉そうで無礼者で──そんなあいつが…… 「兄上の前では……あんな、なのか……」  そして、ヴァシレフスもシエラの前では誰も知らない姿をしていた──  独占欲の塊の声を発して、その体を頭の先から爪先まで食らう獣のように── 「あんな兄上、俺は知らない──。多分きっと誰も、あいつ以外は知らないんだ──」  自分の心臓の音を確かめるように胸に手を置いて、ニキアスは思いを巡らせた。 「──ニキアス様?」  背後から突然声をかけられニキアスはシエラの時と同じような声を上げてしまった。 「いかがなされました? 大丈夫ですか?」  振り返った先にいたのは心配そうにこちらを覗き込むカリトンだった。 「へ、平気だ」 「平気じゃないでしょう。やはり聞いたんですね。お二人のあの、その、えーと、はい──」  カリトンは言葉を選びに選んで最終的に選べずに着地したが、それでもニキアスには通じたようだ。 「あ、ああ──うん」  複雑な面持ちでニキアスは答えた。その視線は床を眺めていてカリトンと合うことはなかった。   「ニキアス様はご納得されないかもしれませんが、あの方たちは本当に互いを思い合っているんです。それは国王であっても引き裂くことは出来ません。ですから──」 「あんなに苦しそうな声を出してるのに兄上はどうして、シエラを泣かすんだ?!」 「──はい?」 「いやだ、やめてって何度も辛そうに泣いてたのに兄上はやめなかった、そんなひどい人だったなんて……」  真剣に青い顔をして話すニキアスを見てカリトンはぐったり項垂れ、完全に言葉をなくした──。  ────── 「昨日の花のこと覚えてるか?」  シエラはパンを齧りながらヴァシレフスを見た。 「アネモネのことか? そういえば今朝起きたらどこにもなかったな」  ヴァシレフスも気付いていたのかとシエラは驚いた。 「──黙ってたけど……あの花、実は竜がくれたんだ」 「竜って、あの川に棲むあの竜のことか?」  シエラはコクンと頷く。 「あの花の蜜を飲めば、真実がわかるって……昨夜は意識が朦朧としてて思い出せなかったけど。今朝は思い出せたんだ、確かにそう言われた──」 「真実って……なんの?」  バツが悪そうにシエラは少し唇を噛む。 「……お前や俺の本当の……心」  一瞬ヴァシレフスは黙るがすぐに大きな声で笑い出した。突然のことにシエラは目を丸くする。 「あっははっ、一杯食わされたな、シエラ」 「はぁ? 何が、どう言う意味だよ」 「あの花にそんな力なんてあるわけないだろ。お前は自分で暗示にかかっただけだ」 「そんな事わかんないだろっ、現にっ……」 「あんな花なんてなくても、俺はずっとお前に同じことを言い続けていたし、俺の心なんて最初から何一つ変わっていない。それとも毒でも喰らわないと俺は本心を言わないとそんな風にお前は思っていたのか?」  シエラは少し逡巡し、すぐに自分を真っ直ぐ見つめるヴァシレフスを見つめ返す。 「──ううん。お前はいつだって、本当のことしか言わなかった……俺が、勝手に、不安になってたんだ──。お前がここ最近東の塔に入り浸るようになって、一人で考える時間が前よりずっと増えて、それで俺は……すごく怖くなって……」  シエラは肩を震わせて、その瞳を揺らす。  ヴァシレフスは席を立ち、シエラの前に跪き、その震える手を両手で優しく包んだ。 「一人にして悪かったシエラ。東の塔に俺が行こうと俺の心は変わらない。それはお前も同じだろう? シエラ。お前は最初からずっと真っ直ぐだった。俺を思って命を捧げた時も、今も──。全ては俺を思ってくれているからだろう? それともこれは俺の自惚れか?」  シエラは何度もかぶりを横に振る。その度にパラパラと涙の粒がヴァシレフスの手の甲に落ちてゆく。 「シエラ、昨日言った事は前からそこにあった俺の真実だ。お前が意地悪をして体に触らせてくれなくても俺は同じ事をお前に言うよ」 「い、意地悪ってなんだよ、いつだってお前は勝手にするだろ」  少しむくれた顔をしてシエラは反抗した。 「俺の勝手か、じゃあそう言うことにしておいてやろう」 「本当の事だろっ、俺が眠くたって何したってお前はいっつも……」 「昨日の俺は誰かさんが心配で、本当に疲れて心の底からクタクタで眠かったけどな──」  はーっ、とわざとらしい溜息付きでヴァシレフスは嫌味を言ってみせた。  昨日のことに関してはシエラはぐうの音も出ない。結局文句をいう口を失った。 「ホラ、泣いてないでちゃんと食べろ。昼まで寝てて腹が減ったろ」  シエラの頬を優しく撫でてヴァシレフスは微笑んだ。 「でも、まあ、昨日のお前のことは死ぬまでずっと覚えていたいな」 「やめろ! さっさと忘れてくれ!」  耳まで赤くして嘆くシエラにヴァシレフスは相変わらず大きな声で笑ってみせた。

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