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ねことあいつ

 梅雨の手前。  蒸し暑くもなく肌寒くもない夜道をぶらぶらと歩いて家に帰る。  たどり着いたのは、明かりのついてない空っぽの箱。  鍵を開けて中に入り、靴を脱ぎながらまた鍵をかけ、玄関の電気のスイッチを入れる。  もう、手探りでもできる行動。  なおなおと猫が足元によってくる。 「ああ、飯な。ちょっと待て」  ストックのコーナーから缶を取り出し、玄関脇の猫スペースにかがみこんで皿に餌を入れる。 『この子の餌は、カリカリなんだ~』 『缶のは臭いがな……』 『ああ、りゅーさん、肉も魚も生っぽい匂い苦手だもんね』  離婚が成立した後この家に顔を出すようになったあいつと、そんな会話をしたのはずいぶんと前。  結局猫も寄る年波には勝てないらしく、固い餌を嫌がるようになったので、やむを得ず缶の餌を与えるようになった。  年寄猫用のやつ。  自分の飯は面倒で適当に済ませることが多いけど、これだけはきちんとしている。  命を預かるのは、恐ろしい。  猫然り。  人の子然り。  娘が赤ん坊のころ、元嫁の代わりに時々面倒をみた。 『父親なんだから、当然でしょう』  そう言われて、それもそうだと思った。  けれど。  ミルクを飲ませ、おしめを変えて、抱いて寝かしつけ。  あの、すべてをこちらに預けているような感覚は、暖かくも恐ろしかった。  自分のさじ加減ひとつで、どうとでもなる命を手元に置くのは恐ろしい。  これが最後でいい、そう思う。  はぐはぐと勢いよく餌にくらいつく様子を見て、安心する。  身体の調子は悪くないようだ。  そのまま水を入れ替えて、戸締りを確かめ、留守電をチェックして、ソファに寝転んだ。  寝室で寝るのがベストだとは知っているけれど、面倒くさい。  ここで寝たところで、風邪をひくことはないだろう。  そのまま目を閉じる。  今日はなんだか疲れた。  あったかいね。  俺のマフラーを首に巻いて、くふふ、と笑った姿を今も覚えている。  マフラーとはいうものの、ストールとマフラーの間くらいの大きさのカシミヤの。  首筋よりも背中が冷えるのが嫌いで、大判のそれが気に入っていた。  でもその頃は離婚協議中で、俺は自分が家を出るつもりだったから、荷物を減らしているところでちょうどいいからと進呈した。  マフラー一枚減ったところで何が変わるってこともなかったけど、「くれてやる」と、寒そうなあいつの首にぐるぐると巻いてやった。 「ありがとう、りゅーさん。これ、あったかいね」  それから二・三言葉を交わして他の奴と話をして。  ふと気が付いたら、あいつが深呼吸していた。  マフラーの中に鼻を埋めて、こそばゆくなるくらいとろけた顔で。  くれてやる、とぞんざいに渡したのに。  その表情を見た瞬間、そんなマイナスの感情じゃなくて、もっと前向きに何かをしてやりたくなった。  あれが多分、恋に落ちていると納得した瞬間。  それまでも気にかかっていた後輩に惚れてると。  懐いてきているあいつも、懐いているんじゃなくて、きっと俺に気があると。  自惚れじゃなくて、そう、確信した瞬間だった。  たくさんたくさん、優しくしてやりたいと思ったんだ。  その身体を愛して、俺を刻み込んで。  その心を包んで温めてやりたかった。  一人で涙を流したりさせたくなかった。  泣くなら俺の前がいいと思った。  全開の笑顔もいいけれど、そっと笑うとろけるような顔を独り占めしたいと思った。  振り回されてばかりの人生だけど、お前とのことは違うと、伝えたかった。  わかってほしかった。  大切だと、信じて欲しかった。  大事にしたかった。  その始まりは、マフラーに残る俺の匂いを、そっと嗅いで幸せそうにしているのを見たとき。  なんて単純。  傍にいて欲しい。  抱きしめたい。  残り香なんかで満足するな。  めちゃくちゃにしたい。  笑っていてくれ。  支えてくれ。  支えさせてくれ。  ずっと、一緒にいよう。  理由や理屈は後から考えればいいから、ただ、一緒に居たいと願った。  その気持ちの終わりは、いつなのか分からないまま。  今も、わからないまま。  懐かしい夢を見て、目を開けた。  見覚えのある天井。  うん、自宅の俺の部屋だ。  俺は今自宅にいる。  あの頃、出ていくつもり満々だった場所に、結局俺が一人でいる。  リアルな夢を見たときは、うまく現実に戻れない。  誰かとバカな話でもすれば、すぐに帰ってくることができるのに、一人でいるとそれもままならない。  なーお。  猫が俺の腹の上に乗って、顔を洗う。  ああ、朝なのか……。  ぼんやりとそう思って、寝返りを打つ。  猫が慌てて逃げて行った。  ソファから起き上がって、周りを眺める。  自宅のリビング。  閉め切ったカーテン、久しくつけていないテレビ、埃のたまった電燈、つみあがった雑誌、放置された洗濯物。  娘が来るときには片づけるからそれほど荒れてはいないけれど、それでも、人がいない家というのはただの箱に見える。  あ。  無理だ。  唐突にそこにたどりついてしまった。  なんか、いろいろと無理だ。  できるだけ何も考えないように、玄関脇に行って猫の餌セットをとってくる。  皿を洗って新たに餌と水を入れて、元の場所に戻す。  それだけ済ませて、階段のガード――子供が行かないようにするやつが階段に取り付けてある。元は娘のためだったのが今では猫が二階に行かないようにするために――を開けて閉めて、階段を上がって寝室に行った。  そのまま、もそもそと布団にもぐりこむ。  ああ、昨日の服のままだな。  そう思ったけれど、もう、面倒だったので目を閉じた。  あと少し眠ろう。  大丈夫、少しばかり睡眠が足りていないだけだ。  昨夜ますみちゃんと飯食ったから、眠れば大丈夫。

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