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「兄さん……」 「どうした、良平」 「俺、やっぱりナハトさんの迷惑になってるのかな」  自室へと戻る途中。一部限られた者しか出入りすることのできないそのフロアには相変わらず人気はない。  項垂れる俺に対し、兄は「何を言ってるんだ、そんなことか」と笑った。 「言っておくが、あのナハトがお前を部屋で休ませておくって言い出すこと自体が珍しいことだからな。だから俺も、最初モルグ伝手に聞いたときは何事かと思って早々に仕事を済ませてきたんだ」  仕事、と言われてハッとする。そうだ、あまりにも兄が変わっていないせいでつい立場を忘れてしまいそうになるが、たかだか俺が、しかもあんな理由で一時的に行動が困難になったという理由で独占していいような相手ではないのだ。  しかし、そんな俺の気を知ってか知らずか兄は変わらず優しくこちらを見詰めてくるのだ。 「このあと俺もフリーになる。お前の看病は俺が見よう」 「兄さん、でも忙しいんじゃ……」 「何言ってるんだ。今まで傍にいられなかった分、こうして少しでも時間が空いたときはお前と過ごしたいと思ってる」 「償い、と言えば聞こえは悪いだろうがな」嫌か?とむずむずしてしまいそうなほどの温かい眼差しを向けられ、つい俺は視線を外した。  兄は本当に俺のことを分かっている。俺がどんな言葉をかけて欲しいのか、どう接してほしいのか。いつだってそれに応えてくれるヒーローだった。  でも、いや、だからこそだろう。なんだか今だけは兄の目をまともに見ることができなかった。 「良平?」 「ううん、俺も兄さんと一緒にいられるのは嬉しい……」  嬉しいけど、なんとなく緊張してしまうのだ。  原因は自分でもわかっていた。ナハトと一線を越えてしまったからだ。  わざわざ兄に報告するようなものでもなければ、思い返してみればナハトに好きと言われたわけでもない。況してや恋仲になったわけでもないのだ。  だからだろう、兄に対して秘密を抱えるような嫌な後ろめたさがあるのだ。  俺ももう子供ではない、経験の一つや二つあったっていいはずだ。なんて、誰に対して言い訳しているのか。自分で自分がおかしくなってくる。  ひとりで悶々と考えては、顔がポカポカしてきた。ふと顔を上げたとき、一瞬兄の目がすっと細められた――そんな気がした。が、気付けばいつもの兄に戻っていた。 「じゃあ、体を冷やす前に部屋まで送ろう。おんぶでいいか?」 「あ、歩ける……っ! 一人でも歩けるから……っ!」  そんなやり取りをしながら、俺は兄に自室まで連れていかれる。  そして戻ってきた社員寮、自室前。  扉のロックを解除した兄はそのまま俺を寝室のベッドまで運んでくれた。  兄がこの部屋にいるのはなんだか変な感じだ。  そっとベッドへと寝かされ、伸びてきた兄に額を撫で上げられる。前髪を掻き上げられ、額越しに俺の体温を測っているのだろう。 「やはり熱があるな。微熱だが、万一の場合もある。一応モルグに診てもらうか?」 「大丈夫だよ、兄さん。ちょっと慣れないことしたからそれで疲れてしまっているだけだと思うし」 「そうか。けど、またあとで熱は確認するからな。それでまだ熱があるようならモルグに診てもらうからな」 「……うん、わかった」  胸元までシーツをかけられ、いいこいいこと頭を撫でられる。  兄が俺を子供扱いするから余計俺まで子供に戻ってしまったような気分になるのだ。 「俺とお前の関係だが、一応ナハトとノクシャス、モルグの三名には俺から改めて説明しておこうと思う。あいつらは俺の腹心の部下だしな」 「他の人たちには?」 「言う必要はない。無論、箝口令も敷かせるつもりだ。……万が一のことが起きないとも言い切れない」 「だから、信用に足る相手にだけお前が俺の身内だと伝えておく。何かが起きたときにまずお前を守れるようにな」全身に火照りが回り、なんだか眠気がこみあげてくる。兄の手が気持ちいいのもあるだろう。  立場も立場だ、兄に敵が多いとは聞いたけど、やはりそんな話を聞くと心配になってくる。――自分ではなく、兄の。  重たくなる瞼を持ち上げ、ちらりと兄を見上げる。いつの日かと変わらない優しい目をした兄が子供を寝かしつけるかのように俺のお腹の辺りを鼓動に合わせてぽんぽんと叩いてくる。 「兄さん、そのぽんぽんってするの……」 「ん? ああ、これか? お前はこうやって、心音に合わせて軽く叩かれるとすぐに寝付けただろう?」 「お、俺……もう子供じゃない……」 「ああ、知ってる。……けど、俺からしてみたらずっと変わらない、可愛い俺の弟だ」 「……っ、ん、……」  兄が覆いかぶさってくる。そして、視界が陰るとともに搔き上げられた前髪の下、露になる額にちゅ、と優しく触れるだけのキスをさえる。  昔は兄の前髪が当たるのがこそばゆくて笑ってはしゃいでいたが、今の俺にたってその行為すらもあまりにも生々しく感じてしまうのだ。  大人の階段を上るというのはこういうことなのかもしれないな、なんて。 「に、兄さん……やめてよ、こういうのはもう卒業……っ」  そう、やんわりと兄の胸元を押し返せば、兄はショックを受けたようにこちらを見る。 「……嫌だったか? 悪い、そういうつもりはなかった。俺はただ、昔のように……」 「い、やじゃ……ないけど……恥ずかしいよ」 「恥ずかしい?」 「……うん」  嘘、ではない。そう俯けば、「そうか、悪かったな」と兄が身を引くのを感じた。  先ほどに比べてその声のトーンは落ちていた。兄を傷つけてしまった、とは思ったが、これ以上なんて言えばいいのか俺にはわからなかった。 「……っ、兄さん……」  俺を寝かしつけようとしていた手が離れ、つい顔を上げれば兄はそこにいた。  近くまで椅子を引っ張ってきたようだ、それに腰を下ろした兄は「大丈夫だ、お前が寝付くまでここにいる」とほほ笑んだ。そして、ばつが悪そうに視線を外すのだ。 「……難しいな、どうも。安生からは言われていたんだが、どうしてもお前を見てると歯止めが効かなくなる。……ずっと寂しい思いをさせてきた穴埋めというわけじゃないんだけどな」 「兄さん……」  兄がこうして俺を甘やかしてくれるのは俺のためだと思っていた。だからこそ余計なんだかいたたまれない、申し訳なさを感じてしまっているなだと思ったが、そんな兄の言葉を聞いてハッとする。  ――会えなかった間、寂しさを感じていたのは俺だけではないのだと。  俺はもぞりとシーツの下から手を出し、俺は兄の手へとそっと伸ばした。  昔から、兄の手は大きく感じていた。それはきっと俺が子どもだからそう感じるのであって、きっと俺も大人になったら兄みたいになれるのだと思っていた。が、実際はどうだろうか。  兄の手はやっぱり大きく、優しく俺を包み込んでくれるのだ。 「……手、握るまでなら……いいよ」 「良平」 「ん……おやすみなさい、兄さん」  なんとか瞼を持ち上げていたが、やはり睡魔に太刀打ちすることはできなかった。握り返してくる兄の掌越しにその体温を間近に感じながら、俺は目を閉じた。 「……ああ、おやすみ。良平」  まどろむ意識の中、俺は兄の声を最後に深い眠りについた。

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