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 ナハトに連れられ、俺は自室まで帰ってきていた。  なんだか、酷く久しぶりに部屋に帰ってきたようだ。 「ナハトさん、あの、送ってくれてありがとうございます……」 「……」 「……ナハトさん……?」  ここまで帰ってくる道中も一言も話さないナハトだったが、それは周りの目があるからだと思っていた。けれど、この部屋ならば俺とナハト以外はいない。  何も応えず、無言で顔を覆っていた仮面を外したナハトはじろりとこちらを睨む。  ナハトさん、ともう一度名前を呼ぼうとした時、目の前に並んだナハトに肩を掴まれた。 「……っな、ナハトさん、どうし……」 「あのさあ、どうしました? ……じゃないだろ」 「え」 「他に、俺に言うことないのって言ってんだよ」  ナハトの機嫌が悪い、というのは嫌でも分かっていた。けれど、まさかそんな風に詰められるとは思ってなかった。  壁に背中を押し付けられるように掴まれた身体はびくともしない。あの、と俺は必死に言葉を探す。 「……えと、その」 「あいつ、なに」 「え? あいつって……」 「営業部のやつだろ」  そうぽつりと口にするナハトに、ナハトの言ってるのが望眼のことだと分かった。 「……なんなの、あいつ。なんであいつとホテル入ってんの? 昨夜もあいつと寝て、なに? まさか恋人ごっこでもしてんの?」 「寝て、って、なんで」 「なんで知ってるんですか? って? ……あのさ、俺のこと舐めてんの? あのホテルでお前が何してたのか、昨日の夜もバーで誰と会ってたのかあいつの部屋でなにしてたのか全部見てたに決まってんだろ」 「俺、お前の監視役なんだけど」あくまで淡々と、それでいて言葉の端々に滲む棘は気のせいではないはずだ。  それよりも、さらりととんでもないことを口にするナハトにただ俺は冷や汗が滲んだ。  実際にナハトが隠密に長けているヴィランというのは俺も知っていた。  だから、俺が全く気付けなくても当たり前かとも納得してしまう。 「えと、その……望眼さんは俺の先輩で……その、いい人です。あ、それと……ナハトさんのファンだって――」 「そんなこと聞いてんじゃないんだけど」  言ってましたよ、と続けるよりも先に顔面のすぐ横、ドン!と叩きつけられるナハトの手のひらに壁が軋むのを身体で感じ「ひゅっ」と息が漏れる。  恐る恐る正面のナハトに視線を戻せば、せっかくの綺麗な顔は今では鬼のような形相になっていた。  こんなに怒ったナハトは初めて――ではない、紅音のことで揉めたときもナハトは怒っていた。  けれど、今日のは正直、俺は何故ナハトがここまで怒ってるのかはわからなかった。 「ぁ、あの、ナハトさん……」 「……なに」 「な、なんで怒ってるんですか……?」 「……………………………………」 「あっ、ご、ごめんなさい、その、変な意味じゃなくて……」  ピシリと音を立てて空気が凍り付くのが分かり、慌てて俺は「その」と弁明しようとしたとき。ナハトの手に思いっきり顎を掴まれた。 「んに゛」 「………………ね、お前、それ本気で言ってる?」 「にゃ、に゛ゃはとさ……っ」  親指と人差し指で両頬を押し潰され、もごもごと口籠る。 「あの男のこと、好きなの?」 「へ、えと、望眼さんのことですか? ……尊敬はしてますけど……」 「じゃあなんでヤラせてんの」 「や、ヤラせ……」  なんてことを言い出すのだ。  身も蓋もないナハトにこちらが照れていると、「いいから答えろよ」と更に頬をぐりぐりと潰され「ひゃい」と慌てて俺は声をあげた。 「えと、流れで……つい……」 「……へー、好きでもない男と何度も寝るんだ? お前」 「そ、それは……」  それを言われたら確かにそういうことになってしまうのだけれども。 「な、ナハトさんだって……っ、そうじゃないですか……」  確かに俺も自分でちょっと流されたかなと反省して流石に宿泊は断ったのだ。  それを責められてばかりだと少し、傷つく。  そのつもりの反論だったが、どうやら俺の言い草がナハトの逆鱗に触れてしまったようだ。目を見開いたナハトの額にびきりと青筋が浮かぶのを見て、「ひっ」とつい声が漏れてしまう。 「……今、なんて言った?」 「あ、だ、だって……ナハトさんだって、ぉ、俺のこと、抱いたじゃないですか……っ! す、好き、でも……ないのに……」  言いながら声が萎んでいく。言葉尻がぷるぷる震えそうになりながらも反論すれば、そのままナハトに胸倉を掴まれ、今度こそ俺は死を覚悟した。 「ぁ、あ……っ、謝らないですよ……っ!」 「……お前さ、俺がどうでもいいやつと寝るようなモルグやノクシャスや望眼とかいうクソヤリチン精子野郎と同じと思ってんの?」  それは流石に言い過ぎじゃないですか、とナハトを見上げ、反論しようとしたときだった。  視界が陰り、唇になにかが押し付けられる。あのときと同じ、それでもあのときのような触れるだけの接触ではなかった。 「っ、ん、ぅ……っ!」  今回ばかりは誤魔化しようがない、正真正銘のキスだった。  ナハトの長い前髪の下、二つの目がこちらを睨む。  噛み付くように唇を貪られ、驚きのあまり抵抗することも忘れ、されるがままになっていたとき、ぢゅぷ、と音を立ててナハトの唇は離れた。 「な、ん……で……」 「……っ、……俺は、……どうでもいいやつなんかと寝ない」 「――……そのくらい、いい加減分れよ」普段、血の気を感じさせなかった白い肌はほんのりと上気していた。  一瞬、何が起こったのかわからなかった。  唇に残った熱に、目の前のナハトの言葉に俺は文字通り思考停止する。

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