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 ――社内・ラウンジ。 「え?! サディークさんがスパイ……ってことですか?!」 「声でけえよ、良平」 「あ、ご、ごめんなさい……でも」  まさかそんなことを言われて、「そうなんですね」とすんなりと受け入れることはできなかった。  安生たちの口から告げられた言葉はにわか信じられるようなものではない。  同業者らしき男を見張っていたところに現れたのがサディークだったという。それだけで、とは思ったが、その後なにやら取引をしているらしい現場まで抑えられていると聞いて頭を殴られたような感覚だった。 「彼が一番怪しいという状況証拠もすべて揃ってるんですよ。けれど、一つだけ不明なことがありまして」 「不明っていうのは……」 「彼が怪しげな店に出入りし、よからぬ連中相手に情報屋紛いのことをしている――というのはこちらも掴んでるのですが、分からないのが肝心なその手段です」  あ、と思った。  そうか、サディークの能力は俺しか知らないのか。  そう思わず口を押さえたとき、にっこりと笑った安生がこちらを覗き込んでくる。 「良平君。君ならなにかご存知じゃありませんか?」 「……っぁ、あの、俺……」 「どうかしましたか? 急に顔色がよろしくないようですが」  するりと伸びてきた安生の指に頬から顎のラインを撫でられ、ひくりと喉が震えた。思わず後退ったとき、見兼ねたように望眼は「専務」と声を上げる。 「望眼君、なんですか?」 「……いきなり色々聞かされて、そいつも動揺してるんすよ。優しくしてやってください」 「おや、それは申し訳ない。別に虐めているつもりはなかったのですが」  ぱっと離れる安生の手にホッとするのも束の間、安生は「それで、なにか心当たりは?」とこちらを見下ろしてくるのだ。  ――心当たりは大いにあった。  そしてこうして安生が俺のところに来たということは得たサディーク関連の情報が正しいと確信したからだ。そうでなければ憶測だけでここまで大胆な動きをするような人ではない。  だから、ここで庇うということは安生たちを敵に回すようなものだと分かった。  けれど、まだ頭の中ではサディークのことを信じていたい自分もいた。 「こ、心当たりは……」 「はい」 「……………………わかりません、俺にも」  ――嘘を吐いてしまった。  安生は薄く微笑んだまま俺を見下ろしていた。その横、望眼は何か言いたそうな顔をして俺を見ていた。二人の視線が突き刺さるように痛い。  それでもやはり、サディークを売ることはできなかった。  この二人を裏切りたいというわけでも、欺きたいわけでもない。――サディークの口から直接聞いて確かめたかった。  だから、俺はその場しのぎの言葉を口にしてしまったのだ。  なにを言われるだろうか。どくどくと鳴り響く鼓動、全身に冷や汗が滲む。目のやり場に困っていたときだ。 「そうですか。では、怪しいなと思ったことは? ほんの少しでも構いません」 「……それは、確かに……その、サディークさんはたまに怪しい人ですけど、俺には優しくしていただいたので……その」 「つまり、わからないと」  念押しするように尋ねられ、俺はその安生からの圧に押し潰されそうになりながらも必死に頷き返す。  そのとき、安生と望眼が目配せし合った――ような気がした。 「――わかりました」  そして、安生は思いの外あっさりと身を引いた。  もっと問い詰められる覚悟をしていただけに、思わず「え」と顔をあげれば、安生はにこりと微笑んで俺の頭を撫でるのだ。 「変なことを聞いてすみませんでした。いきなりこんなことを聞かされて貴方も流石に驚いたでしょう」 「安生さん――」 「良平君は何も知らない。ええ、確かにそう仰りました。――その言葉、信じますよ」  まるで見えない鉄杭を打たれるような感覚だった。微笑む安生はそのまま俺の隣にいた望眼を一瞥する。 「それでは、私はここで失礼しますよ。ええ、まだ少し野暮用が残ってますので、良平君のことは君にお任せします。望眼君」  安生に名指しをされた望眼は慌てて「はい」と応える。そして、安生はそのまま個室を後にするのだ。  安生が立ち去ったあと、静かに扉が閉まるのをただ俺は見ていることしかできなかった。

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