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 深い深い意識の中。   「ん、ぅ……」  もぞ、と身体になにかが触れる。  ぷよぷよとした薄い粘膜に覆われたような曖昧な意識の中、身体に触れる感触だけが鮮明だった。  ……そうだ、俺、作戦の途中だったんだ。  ここで眠っている場合ではない、と無理矢理瞼を持ち上げたときだった。  至近距離にあったサディークの顔に「わっ!」と声をあげれば、サディークもつられてぎょっとする。 「び……っくりした……」 「さ、サディークさん……? あれ、俺……そうだ、触手は」  起き上がり、辺りをきょろきょろと見渡す。  どうやらここは手術準備室のようだ。あれほど居たはずの触手の群れはいなくなっていた。 「触手たちなら……あんたのお陰で全員どっか引っ込んでいった」 「そう、ですか……」 「こっちも目的は果たしたし、あとは地上へ向かうだけ、なんだけど」  そう言いかけて、落ち着かない様子でサディークはちらりとこちらを見るのだ。  そこで気付いた。どうやらサディークがスーツを着直させてくれたらしい。しっかりとネクタイまで締め直されてるのを見てハッとする。  同時に自分がどんな状況で気絶していたのか気になって仕方なかったが、あまり考えないようにしよう。 「そ、そういえば紅音君は……」  今更いたたまれなくなり話題を変えようと尋ねれば、サディークはそのままゆっくりと立ち上がった。 「……こっち」  そしてそのまま隣の手術室へと繋がる扉を開き、移動する。俺はその丸まった背中を追いかけた。  ――手術室。 「……っ! くお……トリッド……!」 「……ずっと気になってたんだけど、毎回その『くお……』ってなるやつなに?」 「こ、これは……口癖です」 「……君、わかりやすすぎない? ……まあいいけどさ、この際」  先程見たときには触手に覆われていた檻に今は触手の一欠片も見当たらない。代わりに四角い箱の中、手術台を改造して作られた拘束台の上に寝かされていた紅音に駆け寄る。  見たところ顔色も悪くないし呼吸も安定してる。本当にただ眠っているだけのようだ。 「トリッド!」とぺちぺちと眠る紅音の頬を叩いたとき、「んん~~」と紅音は呻き声を漏らし、そして身動ぎをする。 「トリッド、起きて……っ!」 「ぅ……ん……」 「トリッド……」  俺の声や刺激に反応するということは、少しは意識はあるはずなのに起きない。  どうしたものかと考えていたとき、「良平」とサディークに呼ばれる。 「サディークさん」 「先にその台の拘束外す。……多分そいつ、簡単には起きないから」 「あの、起きないっていうのは……」 「カノンの能力、……一応こいつが暴れ出さないようにカノンには眠らせたままにしてもらってる」 「そういうことだったんですね」  それを聞いて安心すると共に、なかなか恐ろしい能力だなと思った。  慣れた手付きで紅音を拘束していたベルトを外したサディークはそのまま通信機を取り出した。それからカノンに通信を送ったようだ、暫くしない内に「もうそろそろ目を覚ますはず」と小さく口にした。 「カノンちゃん、大丈夫ですかね……」 「いきなり触手が帰ってきたから少し揉めてるみたいだけど、まあ、カノンは俺よりも器用だから……」  サディーク基準にされると俺はもうなにも言えないが。  なんて思っていたとき、ぴくりと紅音の瞼が反応するのを見た。そして咄嗟に俺は手術台を覗き込んだときだ、ぱちりとその目が開かれた。  ――紅音が目を覚ました。 「……ッ! トリ……」 「っ、おい、危ない!」  ――トリッド。  と、呼びかけるよりも先に、背後から伸びてきたサディークに首根っこを掴まれる。そしてそのまま引っ張られた次の瞬間、目の前に走る鋭い閃光。ぢり、と掠めた前髪が数本溶けるのを見て、息を飲んだ。 「っ、はあ……ぁ……ぐ、ぅ……ッ」  紅音の手に握られたのはどこからともなく現れた短剣だ。起き上がったと思えば、それを手にしたまま頭を抱え、苦しみ出す紅音を見て俺は言葉を失った。  一瞬、なにが起きたのか分からなかった。  尻もちをつきそうになる俺を抱き留めたサディークは、「普通さあ……」と唸る。   「普通、寝起きの捕虜にノコノコ近付かないって……」 「す、すみません……けど、トリッドが……」 「……多分、後遺症だから気にしなくていい」 「後遺症?」 「強制的に眠らされて、その昏睡状態が続けば続くほど対象の夢が深くなる」 「……夢から覚めるのに、少し時間がかかるって話」サディークの言葉に、ひやりと背筋が冷たくなる。  すごい能力だとは思うが、それとは裏腹に恐ろしくもあった。  紅音の生い立ちを知っていたからこそ余計、多分この状態はよくないということだけはわかった。  俺は考えるよりも先に照明のスイッチを探す。そして、咄嗟にそれを押した。瞬間、辺りが闇に包まれる。 「良平、なにやって……」 「すみません、その、くお……トリッドは手術室って場所がよくないんじゃないかと思って……」  説明するのは難しい。  そのまま手術台へと近付いた時、トリッドの荒い呼吸が聞こえてきた。目が慣れるのに時間はかからなかった。手術台の上、丸まった紅音の姿を見つける。 「……紅音君」  恐る恐る、声をかける。  すると、ぴくりとその影が反応するのを見た。 「――ぜん、け」  たどたどしい、それでも確かに俺の声を認識することはできたようだ。その事実に今は安堵した。 「……君を迎えに来たんだ、帰ろう」 「お前は、本物か? これは……夢じゃ、ないのか?」  サディークの言う通り、まだ完全に目が覚めているわけではなさそうだ。  それでも、様子がおかしい紅音に胸の奥が苦しくなる。 「……夢じゃないよ、紅音君」  紅音朱音は怯えていた。中身は昔の紅音だということを知っていたからこそ余計、このまま放っておくことができなかった。  手を伸ばし、紅音の手を握る。短剣を手にした紅音の手が一瞬反応したが、次第にその身体の緊張も解けていくのだ。 「……善家、なんで、ヒーローにならなかった」  その言葉に思わず目を見開いたときだった。そのまま紅音が脱力するのを見て、俺は「紅音君?」と思わず声をかけた。 「大丈夫。……ただのバッテリー切れみたいなもんだから」 「サディークさん……」 「それより、紅音君って……そいつの名前?」  ここまできたら、もう隠すこともできないだろう。小さく頷き返せば、サディークは目を伏せる。 「今の、ヒーローにならなかったってやつ。……もしかして、良平……」  サディークは能力を使わなくとも鋭い。  下手に言い訳する気にもなれなくて、俺は腕の中で眠りつく紅音の身体を抱きかかえる。 「昔の……話です。それより、今の内に彼を移動したいんですけど……手伝ってもらってもいいですか?」 「ん、ああ……そうだな」  サディークもそれ以上深く俺たちについて聞いてくることはなかったが、それでも勘付いてはいるのだろう。なのにこうして手伝ってくれるサディークには頭が上がらない。  それから、手術室から紅音を連れ出そう。そうサディークと話し合っていたときだ――凄まじい轟音とともに建物全体が揺れ始める。  一瞬地震かと思ったが、すぐにそれはただの地震ではないと知らされることとなった。 「え、わ、ゆ、揺れてる……っ?!」 「良平、こっちだ!」  転倒しそうになったとき、黒革の手袋を嵌めたサディークの手が俺の手を取った。 「っ、サディークさん……!」 「この揺れ、デッドエンドの爆薬とも違う。……ヤバそうだから、このまま地上まで移動する」 「は、はい……!」 「――その必要はねえよ」  廃墟内、反響して聞き覚えのある低い声が聞こえてくる。どこからだ、と振り返ろうとした次の瞬間、ぼご、と鈍い音を立てて側の壁が波打つように亀裂が走ったと思えば大きな穴が開く。 「な……」 「この声は……っ!」  瓦礫が崩れ、立ち込める土煙の奥。浮かび上がる二メートル近い大柄な人影に息を呑む。 「……っ、たくよ、安生の野郎はなにを考えてんだよ。――お前みたいなじゃじゃ馬を野放しにするなんて」  がらりと、小石でも蹴るかのように足元の巨大な壁だったものを避けたその大柄な青髪の男――ノクシャスは、サディークに掴まれていた俺と紅音を見下ろし、舌打ちをした。 「テメェがサディークか。随分とうちのが世話になったみてえだな」 「の、ノクシャス……ッ」 「ノクシャスさん! なんでここに……」 「なんでもクソもねえだろ。……俺の役目はテメェの子守だって言ってんだろ、良平」  ――ノクシャスさんが怒ってる。  それが俺に対してなのかは分からないが、全身から滲むその不機嫌なオーラにサディークの顔は段々蒼白になっていくのを見た。  俺はノクシャスが悪い人ではないと知ってるが、サディークからしてみればノクシャスは悪名高いヴィランの一人だ。  それに、悪い人ではないとしても完全に真っ白な善人ではないということを俺も知ってる。 「の、ノクシャスさん……っ、待ってください! お話があるんですけど……」 「ああ、聞いてやる。後から上でたっぷりとな」 「の、ノクシャスさ……うわっ!」  大股でやってきたノクシャスにそのまま持ち上げられる。瞬間、触手に抱かれたときの名残が全身に広がり、思わず「あぅ」と声が漏れた。 「ああ? なんかぬるぬるして……っ、て、おい、良平……」 「っ、ノクシャスさ、待ってくださ……っ、ぁ、い、今は……っそこ触られるのは、その、ぉ」  ノクシャスに抱かれ、腰を掴むその分厚い手のひらにそのまま股を弄られた瞬間、じんじんと痺れるように体が熱くなってしまう。  そんな俺を睨んだノクシャスの額にびき、と青筋が浮かぶのを見てぎょっとした。 「の、ノクシャスさ……」 「……テメェか、こいつに手ぇ出しやがったのは」 「ひッ」 「わーっ、待ってください! ノクシャスさんっ!」  このままではまずい、と直感した俺はそのままノクシャスの体にしがみついた。腕一本だけではノクシャスを止めれる気がしない。 「チ……ッ! おい! そこで動くんじゃねえ、良平!」 「サディークさんは悪くないですっ!」 「ああ? ……っ、だから顔の前で動くなって言ってんだろ!」 「あわ、わわっ」  必死にノクシャスにしがみつこうとしたあまり、バランスを崩し、そのまま落ちそうになった体を今度はノクシャスに抱きかかえられた。俵のような抱き方ではなく、ちゃんと顔が見えるような――所謂お姫様抱っこである。 「の、ノクシャスさん……」 「……とにかく、後から話は聞かせてもらうからな」 「ひゃ、ひゃい」 「そこのスパイ野郎もついて来い。少しでも妙な真似したら……わかってんだろうな」 「は、はい……」  そのまま倒れてた紅音の足を掴み、そのまま楽々と担ぎ上げるノクシャスに「おお」となりながらも俺はノクシャスに強制連行されることになる。  そして、サディークはというと諦めたような顔をして大人しく俺たちの後をついてくるのだった。

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