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「しかし、まさか安生を送り込むなんてな。……ボスも思い切ったことをする」  元々この会社が設立する前、兄と安生二人で人助けするところから始まったということを聞いていたからこそそのことに対する不安は何もなかった。  けれど、確かに安生はボスの右腕のような存在だった。兄のことも気になったが、なによりその選択を下したのは兄自身なのだ。 「安生さん……寂しくなりますね」 「ならねえよ」  即答だった。再び静けさが戻ったラウンジのソファーに腰をかけたノクシャスは、こちらに視線を投げかけてくる。 「それよか、安生の言ってたことは本当なのか?」 「え?」 「……お前が、ボスにあいつらの育った街をどうこうしろって言ったの」  あ、と思った。確かに、ノクシャスには何も言っていなかった。怒ってるわけではなさそうだが、真面目なトーンのノクシャスに緊張しながら「はい」と頷き返した。  なんと説明しようかと頭の中で組み立てていると、「そうかよ」とノクシャスは呟いたっきりそれ以上追求してこようとしなかった。沈黙の中、グラスの中に入った鮮やかな液体を飲み干すノクシャス。 「あ、あの……怒らないんですか?」 「ああ? なんで」 「余計なことするなって……もしかしたら、ノクシャスさんの負担も増えるかもしれないのに……」 「あのなあ、俺がそんな小せえ男に見えんのか?」 「い、いえ! 滅相もございません……っ!」  少なくともあらゆる意味で小さいとは対局にいるような男で間違いないだろう。  震える俺に、ノクシャスは「だよな」と尖った歯を覗かせて笑った。 「……安生じゃねえけど、お前があの人の弟だって聞いたときも半信半疑だったが、今納得した」 「え、い、今ですか?」  ということは今の今まで疑ってたのか、と固まる俺に「ああ、今だ」とノクシャスは不敵に笑う。 「俺がなんでこの会社で働いてんのか、考えたことあるか?」 「え? えーと……なんでですか?」 「あの人に恩義があるからだ」 「じゃなきゃ、こうやって真面目に働くって頭にもなんなかったな」とノクシャスは続ける。なんとなく、その目は懐かしむようにどこか遠くを見ていた。 「ノクシャスさん……」 「……って、なんでこんなことお前に言ってんだろうな」 「え、き、聞きたいです……っ!」 「あー、やめだやめ。……なんかむず痒くなってきて」 「そんな……っ!」  一緒にいられなかったときの兄の話、ノクシャスの言葉が気になったが、ノクシャスは照れくさくなったようだ。「いい加減諦めろ」とノクシャスにしっしとあしらわれる。 「……ったく、安生のせいでなんの話かわかんなくなったな。……おい、戻るぞ」 「う……はい」 「…………また、気が向いたときにでも話してやるよ」 「……っ! は、はい!」  やっぱりノクシャスはなんだかんだいっていい人だ。  それから俺はノクシャスとともに紅音の元へと戻ることになった。「どこに行ってたんだよ」と少しだけむくれた紅音に説明しつつも、俺はノクシャスが話してくれたことを考えていた。  デッドエンドの濡れ衣の話、なんとなくだが単純な話ではなさそうな気がする。  ノクシャス達側にも考えはあったのも分かるが、デッドエンドの話を信じればその間に何かが介入してることは間違いなさそうだ。  今回の安生の左遷――出張で、なにかが変わればいいのだけど、今俺に出来ることなど限られてる。  取り敢えず、また仕事を頑張ろう。  そう自分に言い聞かせるのだ。  ――それからはバタバタと日常が戻ってきた。  といっても、恐らく俺だけなのかもしれないが。  安生がいなくなって、相変わらず皆忙しそうな社内。ECLIPSEが捕まってからというものの社内はサディークたちへの話で持ち切りだった。  心無い噂話を耳にする度に「サディークさんはそんな人じゃないです」と言い返したくなったが、ノクシャスに止められたし「三日も経たずに飽きるだろうから放っておけ」と宥められる。  頭では分かってはいても、それでもやはり平常心を保つのは難しい。  というわけで、俺も噂話が落ち着く三日は仕事を休めというノクシャスの言葉により三日、念の為安静にすることになった。  俺の体自体元気だし、本当は今すぐにでも出社したいがノクシャスに半ば無理矢理部屋に監禁される羽目になったのだ。  その間、俺はもうやることなくてひたすら寝室とリビングを行き来する生き物みたいになってた。  そして、ようやくノクシャスとの約束の期日がやってきた。無事出社を許された俺は、新調されたスーツに袖を通す。因みに、前着ていたスーツはデッドエンドに爆弾にされてしまったのでモルグに回収されてしまった。  やはり、スーツを着ると心が引き締まるようだ。ネクタイを締め、ちょっと結び目がよれてしまったのでもう一回緩めて締め直そうとしたら今度は襟がぐしゃっとなってしまう。 「あ、あれ……?」 「アンタさあ、そんなんで本当に仕事復帰できるの」  洗面室、鏡の前。鏡越し、開いたままのリビングの扉の前に立ってる仮面の男にびっくりして首を締めすぎてしまいそうになったとき、すぐ側までやってきたナハトにネクタイを掴まれる。  それから、「じっとしてろ」と耳元で囁かれるのだ。 「まっ、な、ナハトさん……っ? 仕事は……」 「終わった。んで、今度はお前の子守にきた」 「っ、え……」 「いいからじっとしてろって言ってるだろ」 「う、す、すみません……」  久し振り会ったナハトにドキドキする暇もなかった。目にも見えぬ速さで俺のネクタイを結び直したナハトは「これでよし」と小さく呟く。そして、ぽむ、と俺の胸を叩いたのだ。 「あの、ありがとうございます……っ!」 「社員証、持った?」 「……………………あ」 「まだ捕虜気分なわけ? ……ほら」 「あっ、ありがとうございます、ナハトさん……っ!」  そう、寝室に置きっぱなしにしてた社員証を持ってきてくれたらしいナハト。  久し振りのナハトだからか、余計なんかどぎまぎしてしまう。 「あの、これからはまた一緒にいられるんですか?」 「さあね」 「さ、さあね……?!」 「一先ず俺の任務は終わっただけ、けどまた次の仕事がいつ入るか分かんないから――今のうちに、そろそろアンタのアホヅラ見に来た」 「な、ナハトさん……」  相変わらずの物言いだが、言葉には以前のような険はない。  なにより、素直にそう言ってくれるナハトの言葉が嬉しくて、なんだかじーんとしている俺を見て「良いから早く準備しなよ」とナハトに小突かれる。  ナハトの顔を見て、なんだかようやく日常が帰ってきた――そんな風に思える自分にもなんだか嬉しくなった。なんて思いながら俺は、ナハトに小突かれながら慌てて忘れ物チェックをすることになった。

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