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慌てて顔を洗ったり口を濯いだりした後、俺は急いでリビングへと戻る。
「に、兄さん……っ!」
そう勢いよく扉を開けば、リビングルームのソファー。向かい合うようにナハトと座る兄が何事かとこちらを見た。
「良平、おはよう」
「おはよう、兄さん。……っ、じゃ、なくて、その……あの、どうしたの? 急に……俺に用って……?」
「ああ、そのことについてはこれからきちんと話すつもりだ。……取り敢えず、お前も座るんだ。良平」
口振りからしてナハトも兄に座らせられたのだろうか。珍しく背筋がぴんと伸びたナハトさんを見た気がする。
部屋の中の換気の状態は如何なものかわからなかったが、兄がいつもと変わらないところを見るに大丈夫……なのだろうか。
不安になりながらも、俺は兄に促されるがまま恐る恐るナハトの隣に腰を下ろす。そんな俺を見て、「ふむ」と兄は目を細めた。
「随分と親しくなったんだな」
「え?」
「ナハトとだ。……昔は俺の隣から離れなかったというのに」
その言葉にギクリとする。確かに言われて見れば、兄の隣が空いていたら誰かに取られる前に真っ先に駆け寄っていた。
けれど、今は何も考えずにいつものようにナハトの隣に座ってしまったが――普段から一緒にいるわけではない兄からしてみれば意外だったのかもしれない。
兄の指摘に、全身の血液が顔面へと集まるのがわかった。
「あ、いや、それは……」
「……良平、狼狽えすぎ」
「う、す、すみません……いきなりだったものなので」
「はは、悪い悪い。少し意地悪だったか?」
「兄さん……」
意地悪だという自覚はあったのか。いつもの兄の笑顔にホッとする反面、隣に座るナハトの顔をまともに直視することはできなかった。
「本当なら、事前に連絡してゆっくりと話せる機会を作りたかったのだが……悪かった。このタイミングしかなくてな」
「……ボス、俺は席を外した方がいいですか」
「いや、問題ない。寧ろお前にも聞いてもらいたいことなんだ、ナハト」
――ナハトさんにも?
兄の口振りからなんとなくただ事ではない気がした。……いや、まさかナハトさんとの関係がバレたとかか?
すん、と思わず匂いを嗅いでみる俺の横、ナハトは「わかりました」とだけ呟いた。
「それで話というのは――良平、お前の今後についてだ」
「お、俺の……?」
「ああ、お前のだ。……本来ならばこれからもこの体勢でお前を警護させたかったんだが、少々状況が変わってきてな」
思っていたよりもただ事ではなさそうな気がして、自然と身が引き締まる。ナハトの表情も氷のように硬くなっていた。
そんな俺たちを交互にゆっくりと目を向けた兄は、「ああ」と頷いた。
「ナハト。お前には以前から話していただろう。――お前に俺の仕事を手伝ってもらいたい、と」
え、と思わず喉からアホな声が漏れそうになる。固まる俺の横、僅かに目を細めたナハトは「はい」とだけ呟いた。
「想定していたよりも急にはなるが、その話を進めさせてもらおうと思う」
「――畏まりました、ボス」
ということは、ナハトさんが昇進するってことなのだろうか。
元々幹部以上の人たちの形態について詳しくはない俺だが、それでも兄の傍に置いてもらえるなんてすごいことだ。
「兄さん、それってもしかして……」
「ああ、早い話安生の穴を埋めてもらいたいわけだ、ナハトに」
「そ、そうなんですね! すごい、ナハトさん……っ!」
おめでとうございます、とナハトの方を見た時だった。何故だかほんの一瞬寂しそうな顔をしていたナハトは小さく息を吐く。そして、「どうも」とそのままそっぽ向いた。
兄のことを慕っていたナハトならばもっと喜ぶと思っていただけに、俺は素直にナハトの反応に引っかかった。
何故、そんなに嬉しくなさそうなのだろうか。そんな俺を見て、兄は少しだけ眉尻を下げるのだ。
「ああ、そうだ。……つまりだな、良平。ここからはお前への話になるんだが」
「は、はい!」
「ナハトをお前の護衛から外す」
「はい………………へ?」
「ナハトには悪いが、これからは忙しくなるだろうし、その上良平にまで手は回らないだろう。だから、新たな護衛をつけることとなった」
右から左へと兄の声が流れていく。柔らかくて暖かくて、一句一句聞き取りやすい声。なのに、何故だか今だけは兄が何を言ってるのかわからなかった。
思わずナハトの方を見るが、ナハトは兄の方を見たまま何も言わない。こちらを見ようともしない。
……待って、兄さんは今なんて言った?
「良平?」
「は、はい……」
「聞いてるか? 何か分からないことがあれば言え」
「あ、いえ……今、なんて言ったのかよく分からなくて」
「ああ、だからナハトの代わりに新たな護衛を連れてくる、と言ったんだ」
今度はしっかりと俺の耳に届いていた。わかったか?と兄に確認され、俺は「はい」と頷き返した。
「とはいえ、そいつは少し特殊でな。……もしかしたら、もう既に知り合っているかもしれないが。あくまでも俺とお前の関係性は伏せたままお前の警備についてもらうという“契約”になっている」
「……はい」
「実力はある。主に暗殺・用心棒に特化した男でな、ナハトの後釜には相応しいだろうと俺は踏んだ」
「……そう、ですか」
ちらりとナハトの方を見るが、相変わらずナハトの表情は能面のようだった。何を考えているか分からない。それでも、少なからず嬉しそうには見えなかった。
「ボス」
そんなときだった、不意にナハトが口を開いた。「どうした?」と兄は言葉を止めた。
「……ボスとこいつの関係を教えられないような相手に、こいつを託すのは危険だと思います。それならば、護衛の手が回らないのなら部屋に監禁させるとかの方が――」
「ナハトらしい意見だな」
「……ボス」
「俺もそれは考えた。が、これは試験的な意味合いもある」
――試験的。
兄の口から出た言葉は兄には似つかわしくないほど冷たい響きだった。そんな兄の言葉に、ナハトの目が僅かに細められる。
「悪く思うなよ。……俺もそうしたいが、過保護にするあまりに逆効果になる場合もあるということだ。前回、良平が人質に選ばれたことがあっただろ?」
言わずもがな、デッドエンドさんたちとのことだろう。俺とナハトは小さく頷く。「ああ、それだ」と兄は顎を撫でた。
「あまりにもお前たちのような重役たちが贔屓にしていると、返って目立つらしい。……かと言って一人監禁させていたとしても、完全に安全とは言い切れない状態が実際にあったわけだ」
「……スパイのことですか」
「ああ、そういうことだ。……無論、良平を危険な目には遭わせるつもりはない。しかし、このまま人手が足りなくなり警護が手薄になるくらいならば、俺は身辺警護を強化した状態で尚かつ一般社員として擬態をさせることを選ぶ」
多少のリスクが却って俺のためになる、ということだろうか。理屈は理解できたが、それと同時に兄の言葉を悲しく思う自分がいた。――それはつまり、兄は何も信じることができない状態になっているのではないか。
俺でもびっくりするくらいの本社のセキュリティシステムすら、兄には信頼しきれていないのだろう。それは純粋に悲しくて、俺は何も言えなかった。
「……そういうことだ、分かってくれるか」
「……はい、ボス」
「話が早くて助かるよ。……良平は、それでも構わないかい?」
「は、はい。俺は……今まで通り過ごせるのなら」
「一人で部屋にいると、少し寂しくなるし」と冗談のつもりで言ったが、口にしてから急激に寂しくなってくる。
仕事だとか任務だとかで暫くナハトと会えないときはあったが、それでもだ。護衛から外れるということは、毎回必ずナハトと繋がれていた関係が一つなくなるということだ。
「……寂しく……」
代わりの護衛が誰であろうと、本当の意味でナハトの代わりになることなんてないだろう。そう心で理解してしまった瞬間、言葉にできない感情の波のようなものが一気に噴き出すのだ。
そう考えると、目の前がぐにゃりと歪む。歪んだぐにゃぐにゃの視界の向こう、俺の方を見ていた兄とナハトはぎょっと目を丸くするのが見えた。
「ちょ、え――」
「おい、どうした良平。お腹痛くなったのか?」
「……っ、ず、ずみばぜん……なんでもないでず……っ! お、俺のことはぁ、気にしないで下さいぃぃ……っ!」
駄目だ、耐えろ――そう思うのに、駄目だった。
寂しい。ナハトさんの昇進はめでたいのに、邪魔しちゃ駄目なのに。もっと喜ばなきゃいけないのに――ナハトさんと会えなくなるかもしれない、そう思った瞬間ぼろぼろと行き場のない子供じみた感情が涙となって溢れ出す。目を丸くした兄とナハト。二人にこれ以上恥ずかしい姿を見せたくなくて、慌てて俺は顔を掌で覆った。
――はずだった。のに。
伸びてきた手に手首ごと掴まれたと思った矢先、体を引っ張られる。抱き締められてると気付いたのは、すっかり慣れてしまったナハトの体温を感じたからだ。
「……いや、普通に考えて、無理でしょ」
ぼそ、と頭の上から落ちてくる声。そして、伸びてきた手。その手に握られていたタオルでぐしぐしと頬を拭われる。歪みが落ち着いた視界の向こう、困ったように眉根を寄せ、ナハトは微笑んだ。
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