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兄は「また近い内に連絡する」とだけ言い残し、そして部屋を後にした。
兄と入れ違うようにしてナハトが部屋へと戻ってくる。普段あまり顔に出ないナハトだが、今はナハトの気持ちが手に取るようにわかった。普段以上に疲れた顔をしたナハトは、そのままソファーへとやってきて俺の隣に腰をかける。
「ナハトさん……」
「……良平」
「お、お疲れ様です」
「別に、疲れてないし」
言いながら俺の肩へと凭れかかってくるナハト。相変わらず変なところで意地っ張りというか、たまには弱音を吐いてもいいのにと思わずにはいられなかった。
伸びた前髪の下、睫毛に縁取られたナハトの双眼がこちらを見上げる。
「……アンタこそ、疲れたって顔してる」
「まあ、そうですね。……まさかいきなり兄が来るなんて思ってなかったですし、それに……」
「また泣く?」
「な、泣きません……っ!」
そ、と小さく笑ってナハトはそのまま座り直した。そして、真面目な顔。
「ボスから護衛として側にいてもらいたい、という話は聞いていた。……けど、そこまで考えてたのは初耳だ」
「安生さんの代わりって言ってましたけど……」
「……ボスから言葉だ。信頼には応えるつもりだけど……気になることもある」
「気になること?」
普段唯我独尊マイペースの鬼であるナハトが唯一慕う兄からの言葉に引っ掛かりを覚えてる。そのことになんとなく胸の奥がざわついたが、その違和感は俺にもあった。
「……新しい護衛の話ですか?」
こちらから聞き返せば、「そう」とナハトは頷いた。
「ボスの言葉は間違いないし、納得できた。けれど、その護衛になるやつが問題だ」
「あ、そういえば名前、聞き忘れてましたね」
「特殊な立場且つ、俺と同業で腕の立つ男……」
「お知り合いですか?」
「俺にお知り合いがいると思う?」
なぜか自信満々に開き直るナハトさん。もしかしていないのか。あまり深く踏み込まない方がいいかもしれない、と思いつつ取り敢えず頷き返せば頬を突かれた。理不尽だ。
「けど、噂は聞いたことある。……完全にキャラ被ってて目障りだったんだけど」
言いながらナハトはデバイスを起動させ、空中にディスプレイを表示させた。
そこに反映されたのは、紫色の背景と、そして狐を抽象化させたようなマークだ。
「これは……?」
「無雲 。変装・隠密・スパイ活動を主に熟していく最近現れたヴィラン。……そいつのモチーフかな。仕事現場には必ずどこかにこの狐が存在する」
「それって、ナハトさんに似てますね」
「だからキャラ被ってんの。……てか、良いんだよそこは」
いいのか。と、思ってる間にナハトは映像をスライドさせる。そして、新たに現れたのは俺も見たことのある画面だった。
たくさんのヴィランネームが並ぶそのページは、確か。
「これはうちに所属してる全社員リスト。……因みに、アンタも『良平』で登録されてる」
「あ、ほ、本当だ……って、わ、わ、俺のページ見ないでください……っ!」
「なんで。別にアンタの半目の写り最悪な写真しかないでしょ」
「そ、それが嫌なんです……っ!」
嫌がらせかというレベルで人の半目証明写真を大きく表示させて遊ぶナハトだったが、すぐに先程の一覧ページへと戻ってくれた。
「さっき言ったけど、その『無雲』ってやつ……ここに登録されてないんだよね」
そして、ぽつりと呟くナハトさん。
「え、そんなことってあるんですか?」
「どんなに入社したてのホヤホヤの社員だろうがここに表示されることになってる。けど、やつにはそれがない」
「で、でも、兄の公認となると……」
「考えられるのは、ダブルネームだな」
「ダブルネーム?」
「在籍時の名前とは別に、新たにヴィランネームを所得してるってこと」
「そんなことって出来るんですか?」
「普通はできない、ってか、しない。……名前は売れれば売れるほど価値が出てくる。けど、それを敢えて別のヴィランネームを使って売り出してるということ自体、ボスの言ってた通り『特殊』なんだろうね」
「…………」
兄がそれをよしとして、俺の警備を頼むくらいなのだから信用しなければならない。とは分かっててもだ、もしその無雲という人が俺の警備にもついてくれるとなると……いや、何も想像できない。別の意味で緊張してきた。
「ボスにも考えがあるんだろう。けど、……アンタもアンタで気をつけろよ。俺も、アンタの新しい警備については気にしておくから」
「ナハトさん、心配してくれるんですか?」
つい、そうナハトの顔を覗き込めば、何故だかナハトはうんざりしたように溜息を吐いた。
た、溜息……?!
そう震えたとき、伸びてきたナハトの指に顎をがっちりと捉えられた。真っ直ぐに鼻筋が通ったその顔と、真正面から覗き込まれる。
「……いちいち言わなきゃわかんないの? 良平。それとも、言わせたがってる?」
「ぁ、な、ナハトさん……」
「それならお望み通り言ってやるよ。……心配してるに決まってる。ボスの命令じゃなけりゃ、断って俺の背中にでも括り付けてやろうかと思った」
「そっちのが、絶対安全だから」と真っ直ぐに覗き込まれる目から目を逸らすことすらも許されなかった。あまりにもその目は据わっていて、今まで押し殺されていたナハトの感情の一部に当てられた俺はつい『はい、その通りです。ナハトさんの好きにしてください』と答えそうになる。
「……ノクシャスやモルグといるときだって心配だってのに、そんなどこの馬の骨かも分からないやつにお前の面倒見させるなんて尚更」
「ん、な、ナハトさん、俺って頼りないですか……?」
「頼りない。頼りないくせに何にでも首突っ込むし、アホだし、すぐ人信じるし、鈍臭いし……」
「い、言い過ぎじゃないですか……っ?!」
「寧ろ全然言い足りない」
言いながら、そのまま俺の肩口に顎を乗せてくるナハト。いつの間にかに押し倒されるような形になってたが、そんなことよりもナハトの髪からいい匂いがすることや流れ込んでくる体温にドギマギしてそれどころではなかった。
ナハトさん、とその背中に手を回そうとしたとき。更にナハトは俺の体を抱き締めた。腰に回された腕に抱き寄せられたと思いきや、鎖骨の辺りに押し付けられた鼻先、唇に意識を奪われる。
「……俺がいない間、俺の知らないアンタがいるの、やだ」
そして、ぼそりと聞こえてきたその声に、俺は文字通り言葉を失ったのだ。
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