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「……っ、ぉ、お待たせしました……」 「別にわざわざ部屋に上がらなくてもここでもいいのに」 「アンタが女だとか言うからだろ」  ぜえぜえと既に疲れ果ててる望眼に招かれ、そのまま俺と東風は望眼の部屋へとお邪魔することとなる。最後にやってきたときよりも綺麗になってる部屋の中、俺たちはリビングルームへと通された。  なんだかここに来るのも久し振りな気がする。  が、今は懐かしさに耽ってる場合ではない。 「……すみません、急に押しかけてしまって、その。望眼さんの体調が気になって……」 「……良平……」 「どうせ仮病だから心配しなくていいって言ったけど気にしてるから、連れてきた」 「東風さん、アンタは……」  明らかに怒ってる望眼ではあったが、途中から諦めたように溜息を吐いた。 「はー……もういいや」 「も、望眼さん……ごめんなさい、具合悪いところに……」 「ずっとこんな調子だった。どうせ二日酔いだって言ったけどな」 「………………」  そんなわけないじゃないですか、と望眼ならいつもの軽薄な口振りで返してくれるのではないかと思ったが、望眼からの返事はなかった。  その沈黙と少しだけ見たことがない望眼の雰囲気に緊張する。思ったよりも元気そうな望眼を見れただけでも俺は満足だった。 「すみません望眼さん。やっぱり俺、お邪魔……ですよね。俺……」  帰ります、と慌てて立ち上がろうとしたとき、向かい側の椅子に腰を下ろしていた望眼は立ち上がるのだ。そして、伸びてきた手に手首を取られた。 「……っ! 望眼さん……?」 「……帰らなくていい」 「あの、でも……」  掴まれた手首から流れ込んでくる望眼の体温の高さに心臓がトクトクと脈を打つ。申し訳無さと、居た堪れなさ、引き止めてもらえたことへの喜びが自分の中でごっちゃになってるのが分かった。 「……お前が俺のこと心配してくれたのも、わざわざここに来てくれたのも、すげー嬉しいから」 「も、望眼さん」 「俺もいるんだけど」  向けられる眼差しの熱さに、どくん、と心臓が跳ね上がりそうになった矢先。飛び込んできた冷ややかな東風の声にはっとした。  そうだ、今は東風がいるのだった。 「東風さんは誂いにきただけでしょ」 「まあ、そう。けど実際元気そうだし」 「……まあ、それはお陰様で……」 「……」 「……」 「……」 「いや、いつまでアンタいるんすか?」 「仮にも俺お前の先輩なんだけど」 「そうだけど、アンタは良平と違って心配してもなかったくせに」 「人がせっかく助けにきてやったのに」  それはどういう意味ですか、と東風の方を見上げたときだった。伸びてきた白い手に、顎を掴まれる。そのまま顔を持ち上げられれば、すぐ目の前には生気のない眠たげな目があった。  その目にじいっと見つめられたとき、体の奥が僅かに熱くなる。「東風さん」と慌てて望眼が止めに入ろうとした矢先。 「望眼、こいつのこと好きだよね?」 「んな、に、を言ってるんすか……そんなわけ……」 「職場恋愛でうだうだされんのも面倒だから、手伝ってやるって言ってるんだよ」  キィン、と全ての音が遠くなる。まるで水中にいるみたいに東風と望眼の声が聞こえなくなり、それでも二人が何かを揉めているのだけはなんとなくわかった。 「待ってください、東風さん」 「――《良平、俺の声が聞こえる?》」  ごぽ、と水に包み込まれたような意識の中、今度はハッキリと東風の声が頭の中に直接響いた。どこまでも深く、暗い二つの目がこちらを見つめてる。  尋ねられるがままはい、と返事をすれば、望眼の顔色が変わった。 「《お前が好きなのは誰?》」  頭の中に無数の泡沫が溢れ、そして一つの巨大な泡沫が自我を包み込むのだ。何かに守られるような心地よい感覚、このまま身を任せていればもっと気持ちよくなれるのではないかと予感させるような深い意識の底。吐き出そうとした言葉は泡に飲まれる。  頭に浮かんだ冷たいけど、不器用で優しい人。その人の顔は弾け、その代わり、この口は別の言葉を口にしていた。 「……望眼さん、です」  漂う視線の先にいた望眼の顔が青褪める。俺にはもう自分がなんと言ったのかも聞き取れなくなっていた。 「東風さん、アンタ……」 「目を覚ませば記憶はなくなる。気休めくらいにはなるんじゃない?」 「…………俺が、こんなことされて喜ぶとでも?」 「少なくとも、前のお前だったら喜びそうだったけど」  する、と顎の下から首筋まで伸びる指にシャツの襟を緩められていく。細く長い東風の指は、慣れた手付きで俺のネクタイを解く。 「社内恋愛は禁止だって」 「恋愛じゃなければ問題はない。あと、問題になるのはお前の後始末が杜撰だからだよ」 「ぐ……それは否定できないけども、これは、流石に……」  目の前に望眼がいる。しゅるりと抜き取られたネクタイ。ゆっくりと胸元を開けさせられながら、俺は目の前の“好きな人”を見つめた。 「……も、ちめさん」 「よ、良平……」 「望眼さん……」 「良平、何か言いたいことがあったんじゃないの? こいつに」 「ぁ、ります……謝りたくて、昨日の……こと……」 「昨日のこと?」 「望眼さんを傷つけてしまったこと、を……謝らなきゃって思って、それで……」  自分の視界の筈なのに、酷く荒い映像を見せられているかのような感覚だった。自分の口から発せられる言葉が何を言ってるのか認識できない。それでも、耳元で東風に囁かれると体は勝手に意思と反して反応してしまう。 「傷付けたって、なに」 「東風さん」 「いいから、言ってみ。良平」 「……望眼さん、俺、望眼さんに言わなきゃいけないことがあって……」  まるで心地の良い夢を見てるような感覚だ。この感覚には覚えがあった。望眼に飲まされたあの自白剤――現実と夢の境界が曖昧になったときのあの作用と似ている。  頭の中には、ナハトさんとのデートの最中のときのことが蘇った。  そうだ、ナハトさん。ナハトさんとのことも、ちゃんと伝えないと。また望眼さんを傷つける前に。 「俺、望眼さんの他に好きな人が――」  そう、口を開いたときだった。伸びてきた手に口を塞がれる。目を開けば、望眼と目があった。 「悪いけど……それ、聞きたくない」  その望眼の声は、聞いたことのないトーンだった。膜を張ったように響く声、その中でも望眼の声は先程よりもずっと大きく俺の心に響いた。それはきっと距離の近さの問題ではない。 「お前の好きなやつの話、聞きたくねえわ。……俺」 「もち、めさん」 「東風さん、良平のこれ解いてやってください。……じゃねえと、もっとおかしくなりそうだわ。俺」 「いいの? 別の用途もあるけど」 「多分それ、俺勃てねえかも」  俺と頭の上で交わされる二人の会話を聞きながら、喋るなと言われた俺はただ次の命令を待つまで動くことはできなかった。 「重症だね」と東風は俺の目を覗き込む。 「正直、自分でも驚いた」 「思い出作りもいらないなんて、余程だよ」 「それ、後々悪夢になりそうなんで勘弁すわ。俺、案外繊細らしいので」  今知ったけど、と望眼は自嘲気味に笑う。引き攣ったその笑顔がなんだか痛々しくて、望眼さん、と俺の顔に触れる望眼に手を重ねた。  すり、と筋張った手の甲を撫でれば、驚いたように望眼の目が開く。 「良平……お前」  望眼さんのことも好きです。それはやっぱり恋愛感情のそれとは違うけれど、それでも望眼が元気がない姿を見てると胸の奥がチクチクと痛むのだ。  元気出してください。言葉を発せない代わりにそっと指を谷間に添えれば、ぴくりと指の下で望眼が反応するのが分かった。 「驚いた。……自我まだ残ってたんだ」 「東風さん」 「わかってるよ。ほら、良平……こっち向いて、いい子だから」  再び覗き込んでくる東風さん。さらりと落ちる前髪の下、その目が怪しく光った瞬間、膜を張られていたような意識は鮮明になっていく。

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