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第11話

 食欲なんてあるはずがない。  胃がもたれ、ただ具合が悪くなりながらも俺は花戸の用意した食事を半ば無理矢理腹の中へと収めた。感触した俺を見て、花戸は「ああ、よかった」と頬を綻ばせるのだ。 「君の口に合うのか心配だったけど、お気に召してくれたようで安心したよ」  どの口で言ってるんだ。全部食べろと脅してきたのはあんたじゃないのか。  言い返す気にもなれなくて、俺はただ口を閉じていた。顔も見たくなくて顔を反らしていると、顎を掴まれて強引に上を向かされる。  すぐ鼻先には微笑むあの男の顔があった。 「今度は間人君――君の好きなものを用意したいんだけど、好物。教えてくれないかな」  なにが今度だ。まだ俺をここに閉じ込めておくつもりなのか。当たり前のように次の話をしだす目の前の男に背筋が凍る。  こんな犯罪者と長期いるつもりはない。 「……っ、……だ、れが……」 「ん?」 「……ない、好きなものなんて……ッ!」  嘘だった。それでも、罪悪感なんてない。少なくともこの男に言うつもりなどなかった。知られることすら嫌だった。  その手を振り払えば、思いの外呆気なく花戸の手は離れた。乾いた音とともに花戸はただ振り払われた自分の手を見ていた。  怒らせたならそれでもいいと思った。いっそのこと、これ以上屈辱を味わされるくらいなら兄と同じところに。そこまで考えたときだった。  いきなり頬に熱が広がる。そして、遅れて破裂音とともに鼓膜が震えた。ほんの一瞬、左耳にきんという音が走り全ての音が遠くなる。  頬を叩かれた、と気付くのに遅れた。そして次に、左頬全体にひりつくような痛みが走る。 「……ッ、……」 「ごめんね、間人君。痛かったよね?」 「……けど、君が悪いんだよ。君がしょうもない嘘を吐くから悪いんだよ」先程までと変わらない声色、表情。それでも、咄嗟に逃げようとすれば胸倉を掴まれて椅子の上へと引き摺り戻される。  そして長い前髪の下、薄暗い二つの目が俺の奥の奥を覗き込むのだ。唇が触れるほどの距離、濃くなるのは甘い花の香り。  兄のところに送られた方がましだ。そう思っていたのに。 「オムライスとチキンライス、それからプリンも好きだったよね。……それと、駅前の定食屋では毎回焼き魚定食頼んでた。一時期部活帰りにコンビニに寄り道してチーズチキンも食べてたよね?」 「なんでないなんて嘘を吐くの?」と花戸は低い声で尋ねてくるのだ。  もう、なにも驚くことなんてなかった。そう思っていた。駅前の定食屋に通っていたのは中学生の頃の話だ。なんでこの男が知ってるのか。見ていたのか、まさか。兄から聞いたのか。 「……残念だよ、少しは俺のことを信用してくれたと思ったのにな」 「っ、……信用なんて、するわけないだろ、お前みたいな犯罪者……ッ! 人殺し……ッ!」  喉の奥、身体の芯から震えてしまいそうだった。それでも、怖かった。今考えると俺は動転していたのだろう、賢い選択肢ではなかった。それでも、花戸に殴られた痛みで堪えていたもの全てが溢れ出したのだ。  そんな俺を見て、花戸はただなにも言わずに俺の口を手で塞ぐのだ。長い指に舌を掴まれ、強引に舌を引きずり出された。 「……朝方から大きな声を出すのは良くないよ。それに、君は喉も痛めてる」 「っ、ふ、ぅ……ッ」 「君に信用してもらえないのは仕方ないと思ってるよ。……だからこうやって少しでも君に俺のことを知ってもらってもらいたいと思ってるんだ」  唾液で指が濡れようとも花戸は気にせず、舌の上を親指で撫でるのだ。そのまま硬い指先が舌の付け根の方へと滑れば自然と口も大きく開かされるような形になってしまう。  息苦しい。喉奥、舌の上を柔らかく押されれば「お゛えっ」と器官全体が痙攣するかのように収縮する。嗚咽とともに先程咀嚼したものが競り上がってきそうになり、必死に花戸の指から逃れようとするが、花戸は舌を窄めることすら許さない。 「……は、なへ……ッ」 「……」 「は、な゛……ッ、え゛……ッ」  ぎち、と舌の腹を強く押されれば逃げることもできなくなる。前のめりになり、花戸に顔を寄せて少しでもこの圧迫感から逃れようとする俺をただ花戸は見ていた。そして。 「あ、ぇ……ッ!!」  いきなりのことだった。いきなり右頬を叩かれ、思わず舌を噛んでしまいそうになる。  なんで、どうして。目を見開き、花戸を見上げれば、そこにはただこちらを見下ろす花戸がいるのだ。ただ、先程と違うのはその瞳は熱っぽくて。 「っ、なん、れ……ぇ……」  今度はなにも言ってないのに、と続けようとしたとき、花戸が手を大きく振り上げた。  ――また叩かれる。  襲いかかるであろう痛みと衝撃に備え、咄嗟の防衛本能でびくりと目を固く瞑り、顔を腕でガードしようとした。  ……が、一向に痛みはこなかった。  恐る恐る腕を降ろして顔を上げ、息を飲む。全身から血の気が引いた。  そこには、いつの日か見た加虐の色を滲ませた花戸が笑っていたのだ。

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