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「準一さん、足元気を付けてください」 「あ、どうも」 「いいえ、どういたしまして。あっ南波、塵取りのゴミが溜まったら窓の外へお願いします」 「……」  ヤンキー座りでじっと塵取りを手に木屑を受け入れる南波。先程からやけに大人しいかと思えばその目は最早焦点が合っておらず、青い顔をして小刻みに震える南波に気付き、ぎょっとする。 「あ、花鶏さん……俺、やっぱ別のところ掃除して……」 「気にしなくてもいいですよ。……というより、南波。貴方もそろそろ慣れたらどうですか、この先準一さんと暮らしていくわけですから」 「………………」 「……ああ、ダメですね。完全に意識が向こう側にいかれてますね」  向こう側とはなんだ?! というツッコミはさておき。 「っと、すみません、ちりとりちょっと借り……」  ますね、と硬直してる南波の手からちりとりを拝借しようとしたときだった。  瞬間、凄まじい音と衝撃とともに視界が真っ暗になる。  一瞬俺の目が可笑しくなったのかと思ったが、どうやら違うようだ。 「じゅ、準一さん……」  驚いたような花鶏の声とともに、顔面に叩き付けられたそれはカランと小さな音を立て床の上に落ちる。……どうやら俺は、南波に塵取りを顔面から叩き付けられたようだ。  痛みがないだけに一瞬自分がなにされたのかわからなかったが、驚かせてしまったようだ。  ゆっくり南波の方に視線を向けたとき。 「……って、え」 「……っご……ご、ごめんなひゃ……っ俺、俺……どうしたら……すみません、本当はこんなことするつもりはなかったんです……手が勝手に動いてしまって……っ」  あのチンピラと同一人物かと疑ってしまうくらい取り乱す南波は言いながら床に額を擦り付け始める。ジャパニーズ土下座である。  「な、南波さん、俺大丈夫ですから……っ」 「こ、殺さないでください、ごめんなさい、なんでもしますから許してください……ッ!」 「え、ええ……っ?」 「おやおや、まさかここまでとは。よっぽど準一さんが怖いようですね。今までで一番怖がってますよ」 「……花鶏さん」 「……申し訳ございません。どうやら少し遊びすぎたようですね」 「準一さん、すみませんが外の焼却炉にこの木くずを運んでもらえませんか。そのあとは私が片付けておきますので」これ以上は南波の精神衛生上問題が起きると判断したようだ。俺は「わかりました」と木くずを纏めた袋をもらい、その場をあとにすることにした。  ……それにしても、男性恐怖症か。  女の人がなるのならまだわかるが、何かあったのだろうか。気になったが、あの様子からして南波が俺とまともに接してくれるようになる日が来るかすら怪しい。  なんとなく傷つきながらも、俺は一度屋敷外の焼却炉へと向かった。  それから再び例の部屋に戻ってきたとき、突き抜けとなったその部屋に花鶏の姿を見つけた。  どうやら南波はもう部屋に返したようだ。床の上の血溜まりもなくなっている。 「花鶏さん、一応捨ててきてます」  そう、廊下からその後ろ姿に声をかければ、花鶏はこちらをゆっくりと振り返った。そして、変わらない笑顔を浮かべるのだ。 「……ありがとうございました。準一さんが手伝ってくださったおかげでなんとか片付きましたよ」 「いえ、元はといえば俺たちのせいですから。……そういや、ここも誰かの部屋だったんすか」 「気になりますか?」  そりゃあ、斧がぶっ刺さっていた部屋だしな。  寧ろこの場所、この状況で気にならないという人間の方が少ないだろう。頷けば、「わかりました」と花鶏は頷く。  そして。 「ここは、私の部屋です」 「え、そうなんですか?」 「意外ですか?」 「……ま、まあ」 「ええ、冗談なんですけどね」 「……」  そのジョークはなんの必要があったんだ。 「本当、貴方は純粋な方ですね」とくすくす笑う花鶏を見てると怒る気にもなれなかった。  悪意は感じない。  ……とどのつまり言うつもりがないのだろう、この部屋の持ち主が誰だったのかを。 「さて、私もそろそろ戻りましょうか。……付き合っていただきありがとうございました」 「それでは」と、花鶏は部屋を後にした。  一人ここに留まっているのも変な気がして、その部屋の窓を閉めた俺はそのまま自室へ戻ることにした。  ◆ ◆ ◆  幽霊屋敷、恐らく自室であろう扉の前。  まだ完全に自室の場所を把握しきれたわけではない俺は、自分の記憶を頼りにらしき部屋の前には来てみたけれどそこが本当に俺の部屋なのかどうかわからず、立ち往生していた。  今朝扉に貼られていた幸喜作ルームプレートを剥がしてしまったことを後悔するなんて。  もう自棄になった俺は恐らくここであろう扉を開こうとしたときだ。  そして、中を見てすぐにわかった。ここが自分の部屋ではないと。  薄暗い室内、俺の部屋と同じく殺風景ではあるもののベッドと椅子と机が置かれたその部屋に、間違えて誰かの部屋に入ったのだと気づいた。  誰かが戻ってくる前に部屋を出よう。そう扉を閉めようとしたときだ。 「あの、なにか用ですか?」  不意に、部屋の奥から遠慮がちな声が聞こえてきた。  薄暗い部屋の中、よく見るとベッドの上に座っていた奈都がいた。相変わらずの青白い顔が余計幽霊に見えて、というか幽霊なのだけど、俺は口から心臓が飛び出そうになるほど驚いた。  ……どうやら、ここは奈都の部屋だったらしい。 「っ……ああ、悪い。……部屋間違えた」 「……準一さんの部屋なら、僕の部屋の隣ですよ」 「そ、そうか……ありがとう」 「いえ……仕方ないですよ。ここ、似たような扉多いから……僕も、ここに来て何度も道に迷いましたよ」  気にしないでください、と奈都は笑った。  ……少しだけ、驚いた。思ったよりも喋るやつなんだな。皆といるときはあまり喋らないのでなんとなく暗そうなイメージを持っていたが、笑う奈都を見てこんな顔もするのかと意外に感じた。 「……ああ、ごめんなさい。部屋に戻るところだったんですよね」 「いや、大丈夫だ。こっちこそ悪かった、いきなり部屋に入って」 「いえ……準一さんなら、別に構いませんよ」  それから奈都と他愛ない話をし、俺は奈都の部屋を後にする。  そして、気づいた。肝心なことを聞いていないと。  隣って……右隣と左隣、どっちだ。こんな些細なことで再び奈都の部屋の扉を叩くのも申し訳ないし、だからと言って奈都同様他人の部屋に無断で入るのも申し訳ない。  どっちに行くか?適当に賭けるか?  なんて思いながら似たような構造の木製の扉を眺めていたときだ。 「右」  不意に、背後から物静かな声が聞こえてきた。 「……右が準一さんの部屋」 「藤也」  いつからそこにいたのか、とか、お前さっきはよくも花鶏さんから逃げてくれたな、とか。色々言いたいことあったが、それよりもなんで俺の部屋をお前が知ってるんだ。 「なに?」 「いや、なんで知ってんだよ。俺の部屋が奈都の右隣だって」 「……幸喜から聞いた」  どうせそんなことだろうと思ったが、まあ藤也になら部屋を知られても……まあ、多分大丈夫だろう。  そして奈都の部屋の右隣の扉を開けば……大当たりだ、藤也の言うとおりそこには見覚えのある殺風景な空き部屋が広がった。 「何もないね」 「まあ、昨日の今日だしな」 「……この部屋で何するの」 「考え事、とか……?」 「暗」  ……なんだろう、藤也に言われると普通に言われるよりも倍くらい傷つくんだが。  そしてしれっと部屋の中に入る藤也。  もしかして、ただ遊びに来たってことなのだろうか。  口数の少ない上表情も乏しい藤也だ。それでも、藤也の方からこうして歩み寄ってこられるのは……なんだ、わりと普通に嬉しい。 「あ、そういえば……藤也さっき逃げただろ」 「逃げてない。……準一さんがいたから」 「あのあと怒られたんだからな」 「……ふーん」  全く悪びれていない。それどころか興味すらなさそうだ。  マイペースというか……このときの藤也には何言っても無駄そうだ。自分でしておいてなんだが、この空気に耐えられなくなった俺は話題を変えることにした。 「……そういや、いつもいきなり消えたりいきなり現れたりしてるけど、あれって俺にもできるのか?」 「したい?」 「まあ、そりゃあな」  また誰かさんに置いていかれたときのためにな、というのは黙っておいた。藤也は少しだけ俺を見て、そして、壁に目を向けた。 「行きたい場所が、知ってる場所なら簡単。そこに行きたいって想像すればいい」 「簡単に言うよな」 「……準一さんみたいなのは迷子になるからやらない方がいい」 「迷子って……そんなに素質ないのかよ、俺」 「石頭には難しい」 「う……少し、少し試すだけだよ」 「……どうなっても知らないから」  藤也なりに心配してくれてるようだが、やはり好奇心には勝てなかった。  もしかしたら。……もしかしたら、家に帰ることができるかもしれない。  ぎゅっと瞼を瞑り、俺は脳裏にマンションの一角にある自宅寝室を思い浮かべた。間取りから家具まで完璧に。  ――帰りたい。  そう、強く頭の中で念じる。  暗転。硬く瞑った瞼の向こう、明らかに周囲の空気が変わった。もしかして、と目を開こうとした矢先のことだった。全身に激痛が走る。 「……っ、ぐぁッ!」  肉を裂くようなこの痛みには覚えがあった。何事かと目を開いた俺は目の前に広がる光景に息を飲んだ。  薄暗い森の奥。目の前には怪しげな木彫りが施された太い木と注連縄。  ――やはり、これがあるうちはこの樹海から出ることはできないようだ。  わかっていたが、それでも、芽生えた僅かな希望まで粉々に砕かれたようだった。  期待なんてするものではないとわかっていたが……それでも、幽霊らしい便利な能力を手に入れられただけでも大きい。  ……屋敷に戻ろう。そう、自分の自室を思い浮かべようとした瞬間だった。 「……準一さん」  不意に、背後から聞き覚えのある声が聞こえてくる。  藤也だというのはすぐにわかった。でもまさか、俺の後を追ってきてくれたというのか。 「とう……」  藤也、と振り返った瞬間だった。  太陽に反射してキラキラと光る明るい茶髪に、犬のような大きな目。そして、不気味なまでの笑顔。 「ざぁんねーん、幸喜君でーす! ……どう? 似てた? 藤也だと思ったろ?」 「こ、うき」 「なに、もしかして藤也の方がよかった? いやそれはないかー、ないよね?そんなこと言ったら俺確実に凹んじゃうから」  場所が場所だからか、それともタイミングだからだろうか。よりによって、またこんな場所でこいつに会うなんて。 「お前、なんでこんな所に……」 「なんでって、花鶏さんもいないし藤也もいねーし……暇になって外散歩してたらいきなり変な声聞こえてきてさ……なんだろうって思って近付いたらなんと、そこには準一がいたってわけ!」 「寧ろ、俺的にはなんで準一がこんな所にって感じなんだけど」いつの間にかに空は日が落ち始めていた。赤く染まった空の下、赤く照らされる幸喜の笑顔は余計不気味に映る。いつもと変わらない笑顔に饒舌さ、それなのになぜだろうか、なんとなく嫌な気がした。 「俺は……別に……」 「当ててやろうか。準一さ、家に帰りたいとか思ったんだろ?……じゃないと普通引っ掛かんないもんなぁ、こんなところに」  そう、俺の横を通り抜け、例の神木に手を伸ばす幸喜。瞬間、幸喜の顔が更に引き攣ったように歪んだ。消える指先。 「お前、なにを……」 「っ、は……やっぱ痛いよなぁ、これ。すげー、懐かしい感じ」  削れた指先を神木から離した幸喜。瞬間、またたく間に新たな指が生えてきた。なにを考えているのか、何が言いたいのかわからない幸喜を前に固まる俺に、やつはこちらを見て確かに微笑んだ。 「……来たばっかなのに帰りたいとかダメじゃん。約束したよな、俺、仲吉殺さない代わりに来いって」 「……違う、俺はただ、試そうとしただけで……」 「だからそれが駄目だって言ってんのよ、準一」  同じ笑顔に同じ声音、それなのに、何故こうも目の前の幸喜が恐ろしく思えるのか。その原因はすぐに分かった。 「せっかくお前を殺してやったのに、逃げちゃだめだろ。……俺から」  ――目が笑っていない。  幸喜が怒ってる。それがわかっただけに余計、ぞくりと背筋が凍り付いた。なんでそんなに怒るんだ。違うと言ってるのに。言い返そうと思うのに、声が出ない。  言葉に詰まる俺に、幸喜はにっこりと目を細めた。  そして、打って変わって弾けたように「そういえば」と声を上げるのだ。 「準一ってあれできるようなったんだな! おめでとう!」  機嫌を悪くしていたと思いきや、今度は人が変わったようにニコニコと笑い出す幸喜に困惑する。 「あれって、なんだよ」 「あれだよあれ、瞬間移動ってのかな。今もそれでここまでやってきたんだよね? いやぁ、準一頭硬そうだから絶対無理って思ってたんだけどさ、まあおめでとう! 俺から逃げようとしたのはすげえ腹立つしムカつくんだけどそれはそれとしてその頭もだいぶ柔らかくなったってわけだ」 「……そりゃ、どうも」  なんだ、何が言いたい。なんとなく嫌な気がしてじりじりと後退るが、後退すればするほどやつは俺に距離を詰めてくるのだ。そして、やがて背中に何かが当たる。恐らく、生えっぱなしの木が邪魔してるのだろう。すぐ目の前にまでやってきた幸喜は、ずい、と背伸びするように俺に顔を寄せるのだ。鼻先がぶつかりそうなほどの至近距離。大きなその瞳が俺を捉える。 「な……っ」 「これでようやく一緒に遊べるようになるんだもん」  伸びてきた白い手が、首に触れる。細い、骨張った指先が頸動脈を潰すように触れた瞬間、咄嗟に目の前の幸喜を突き飛ばそうとするが、遅かった。  木に押し付けられるように、首を締められる。木の幹の硬い肌が背中に食い込み、堪らず息を飲んだ。 「な、に……やめろ……っ」 「は、くく……まじで準一ってかわいいよな、死んじゃってんのに首締められて苦しんでるんだもん! 本当最高!」 「……っ、お……まえ……っ」  どこに力が入ってるんだ。片腕だけにも関わらず、化物じみた腕力に首をぎりぎりと締め上げられ、徐々に肺に残っていた酸素が失せていくのがわかった。  わかっていた、全部思い込みだと。俺は死んでる。苦しいはずがない、わかっていたのに。視界が赤く染まっていく。幸喜の笑みが深くなり、頭に血が登り始めたとき、ようやく幸喜は手を離した。 「……っ、か、ひゅ……ッ」  酸素を取り入れようと器官を確保したときだった。  幸喜が何かを拾い上げるのを見た。手のひら大の大きめのその塊は岩のようだ。何故そんなものを手にし、そして振り上げるのか。  石を高く持ち上げ、そのままそれを俺の頭部目掛けて振り下ろす幸喜のシルエットが視界に映る。  そして次の瞬間、激しく脳味噌が揺さぶられた。痛みはない。けれど、頭蓋骨に響く鈍い衝撃は本物だ。  だからこそ俺は、一瞬自分の身になにが起こったか理解できなかった。  殴り殺される。こいつに。  肉が潰れたような音が耳元で聞こえて、視界が片方潰れる。やばい、やばい。やばい。死ぬ。いや、もう死んでるけど、殺される。なんで、なんて聞く暇もない。恐らく聞いたところで理解できないだろう。 「そーそーその顔。俺、準一のその顔すっげー好きだよ。なにが起こったかわかんなくてさ、目ぇ丸くして不安そうな顔になんの。いつも睨んで警戒心丸出ししてるくせに、実際死にそうになるとちょー無防備でさ……そういうのすっげー興奮するんだよ、俺」  なにをされてるのか、自分でも理解できなかった。地面へと引きずり落とされ、俺の上へと馬乗りになる幸喜はいいながらもその石で俺の頭を叩き潰すのだ。その都度頭蓋全体を揺さぶる振動に、衝撃に、口からは濁った悲鳴が漏れた。  ――昼間と同じだ。  藤也には考えるなと言われた。けれど、無理じゃないか、こんなの。頭の奥、骨を殴られ、肉が潰れ、無事でいられるわけがない。想像しては駄目だ、わかっていても、抗えない。大量に滲む血に、視界が潰れる。血が目に入ったのか、やつの石が眼球を潰したのかわからない、考えたくもない。逃げようとした体を押さえ付けられ、「準一」とやつは俺を殴るのだ。「逃げるなよ」と、強張る体を地面に押さえ付けられ、殴られる。  考えるな。考えるな。俺は死んでるから、血も出ないし骨も凹まないし石で殴られても平気だ。そう、自分に言い聞かせるように口の中で呟く。考えるな、と、藤也の顔を思い出しながら。  そのときだ、その意思に反応するかのように、凹んだ額の肉が僅かに蠢いた。 「……へえ、準一、戻り方まで知ってんだ」  どうやら、ちゃんとできていたらしい。傷口を塞ごうと蠢き始める額の感触はとても気持ちいいものとは言えないが、それでもまたこいつに殺されるのだけは避けたかった。  けれど、幸喜はそんな俺を見てつまらなさそうにするどころか寧ろ嬉しそうに笑うのだ。 「自分で知った……ってわけでもなさそうだな。藤也、あいつだろ。わざわざ律儀にこんなことまで教えてくれるいい子なんて藤也しかいねーもんな」  頭上から降り注いでくる幸喜の言葉に、全身の筋肉が強張った。塞がりかけていたそこを思いっきり殴りつけられ、全身が跳ね上がる。声が漏れる。死なない体がこれほどまでに恨めしく思ったことがあっただろうか。  いっそのこと気絶することができた方がまだましだ。無抵抗の俺を殴って笑っていたあいつだったが、やがて、やつは飽きたように赤く汚れた石を捨てる。  その振動に驚いて顔を上げれば、月明かりを背にした幸喜と視線がぶつかった。猫のように細められたその目は確かに俺を見て笑った。 「は、……ふふ、準一、やっと終わったって思ったでしょ。今。……すげーキョトンとしてて可愛かったよ」 「……ッ」 「終わるわけないでしょ、馬鹿だよなぁ、本当」 「これからが本番だってのに」と、傷もまだ塞がっていない俺の頭部、その髪を思いっきり掴み引き上げたやつは血濡れた人の顔面に愛おしそうに唇を這わせる。

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