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07

 床の上、壁に持たれるようにぐでっと項垂れる南波はどこからどう見ても立派な酔っ払いである。  ……というか甘酒で酔えるのか。  見てるだけで甘い匂いがする。散乱した空き瓶を回収していたときだ。 「……酒臭」  部屋の扉が開く。  何気なく目を向ければそこには藤也がいた。  酔い潰れている南波を見るなり、不快そうに眉根を寄せる藤也。  まさか当たり前のように藤也がやってくるとは思わず、内心ぎくりとした。  藤也はいつもと変わらない。  さっきまでの返り血も、死臭もしない。  涼しい顔した藤也がそこにいたのだ。 「と……うや」 「……なんか、用あったんでしょ」 「え?」 「さっき来てたじゃん。……庭」  ……やはり、藤也は鋭い。  わかっていてあの場では俺を追い払い、こうしてわざわざ部屋まで来てくれたのか。  そんな藤也に絆されそうになるが、それでも先程の二人の凶行は払拭できるレベルのものではない。近付いてくる藤也に全身が硬直する。 「……用は、あった」 「……で、何?」 「もういいんだ。……もう」  どんな顔をして藤也と向き合えばいいのかわからない。  俺には優しいのに、何故あんな残虐な真似ができるのか。  暇潰しでももっと他にあるはずではないか。 「……あんた、全部目に出るよね」 「え?」 「さっきのあれ、まだ引き摺ってんの?」 「本当、お人好し」冷たく笑う藤也に背筋が震える。 「藤也……」 「そういうの、考えるだけ無駄だし……幸喜にはそういう話通じないから」 「っ、……」 「いい加減割り切れよ」  忠告、なのだろう。藤也なりの。  それでも藤也の言葉がやけに鋭く、冷たく突き刺さるのだ。  むにゃむにゃと寝言を呟く南波の声なんて耳に入らなかった。 「それでも……俺には、無理だ。あんなこと……」  容認しろ、だなんて。 「別にあんたが嫌ならしなきゃいい。……あんたはな」 「……藤也も、楽しいって思うのか?」  その言葉を発した瞬間、部屋の温度が数度下がったのは気のせいではないだろう。  ゆっくりと向けられるその感情のない目に思わず息を飲む。 「別に。……俺はあいつみたいに興奮するような変態じゃない」 「っ、じゃあ、なんで」 「女が嫌いだから」 「…………ッ!」 「男も嫌いだ。……けど、あんたは特別」  え、と顔を上げたとき、藤也と視線が合った。 「……他人のことなのに自分がやられたみたいに怒るの、変だから。相当」 「っ、藤也……」 「本当、損気だよ……準一さんのそれ」  けど、嫌じゃない。  そう続ける藤也に息を飲む。褒められているのかわからない。 「でも、あんたのためにわざわざ合わせるのは癪だから……今度から死体には近付かないで」 「わ……かった」  仲直り、なんてものではない。  何も解決してないが、恐らく俺たちは根本的から違う。やめてくれと言ったところで藤也は言うこと聞かないだろう。  蟠りがないわけではないが、藤也のいう『特別』という言葉が身に染みた。  ……藤也は興味ない相手にはここまで言わないだろうとわかったから、余計。 「それで、なんの用だったわけ?」  ふと、思い出したように静かに問い掛けてくる藤也。  なんの用、かと言われれば大したことではない。  でも誤魔化すのもおかしな気がして、俺は正直に藤也に伝えることにした。 「……奈都から人が来ているって聞いたから、気になって見に行ったんだ」  そしたら、と言い掛けてその先は言葉にならなかった。  そういうこと、と藤也は藤也は静かに頷く。それからゆっくりと部屋の中、甘酒に囲まれ酔い潰れた南波を見てゴミを見るような目をした。 「それで、これ……なに?」 「えと、それは……甘酒、貰ったんだ。それで南波さんに渡しんだけど……」 「貰った?」  ああ、と頷き返せば藤也は眠りこける南波を思いっきり足蹴して退けるのだ。  いくら意識がないとしても可哀想だ。 「おい」と慌てて藤也を止めようとすれば、南波を無視してそのまま床の上に置いたままになっていた例の胡散臭いオカルト雑誌に手を伸ばす。 「……なにこれ、これも?」  冷めた目でぺらりと雑誌のページを捲る藤也に俺はなんだか居たたまれなくなる。  こんなもの定期購読していたのは仲吉であって俺ではないのに、暗に「あんたってこういうの好きなんだ」みたいに思われてるのではないかと怖くなってくる。 「そ、れは……その、……友達が勝手に持ってきたんだ」 「友達……ああ、あいつ?」  あいつ、というのは仲吉のことなのだろう。藤也には隠す必要もないかと頷きかえせば、藤也興味失せたように雑誌を床へと戻した。それから落ちていたぬいぐるみを拾うのだ。 「……あいつ、準一さんのことなんだと思ってるわけ? それとも、こういうのが趣味なの?」 「…………、断じて違う」 「じゃあ、好きそうって思われてるんだ」  ふ、と藤也が笑う。  十中八九馬鹿にされたのだろうが、藤也の笑顔になんだか気持ちが軽くなっている自分もいた。 「……頼むから、それ以上言わないでくれ」 「……なんで? ……似合ってるのに」 「藤也、お前たまに幸喜に似てるよな」  普段の振る舞いからして対照的だと思っていたが、実際はどうだ。顔の作りから何まで同じなのだから間違っていないのだろうが、それでも意地の悪い笑みなどは幸喜と瓜二つだ。  ちょっとしたジョークのつもりだったが、どうやら藤也の琴線に触れてしまったらしい。その表情からすうっと笑みが消えるのを見て、しまった、と後悔したときには遅い。 「い、いや……今のはちょっとした冗談でだな……」  立ち上がりながらも手にしていたぬいぐるみをそっと置いた藤也。一歩、また一歩とこちらへと歩み寄ってくる藤也に内心ぎくりとし、思わず後退ったときだった。  藤也の手が顔面に伸びてきた。  そんなに怒らせてしまったのかと驚き、殴られる、と咄嗟に目を瞑ったときだ。  想像していた痛みは一向にやってこない。  それどころか。 「――……なにをしてる」  それは俺に向けられた言葉ではなかった。  俺ではない、俺の背後にいる何かに掴みかかった藤也に息を飲む。  咄嗟に振り返ろうとし、足元に何かが落ちるのを見た。板張りの床に突き刺さったそれは見覚えがある、厨房で幸喜が手にしていた包丁だ。  まさか、と背筋に冷たい汗が流れた。背後にいるであろうそいつに、恐怖のあまりその存在を確認することができなかった。  けれど、嫌でも理解させられることになるのだ。 「何って、そう怒んなよ。お前らが二人して楽しそうに乳繰り合ってるから混ぜてもらおーと思っただけだろ?」  なあ?準一――そう耳障りな声で笑うそいつに、俺は文字通り動けなくなるのだ。 「……別に乳繰り合っていない」 「嘘ばっか。藤也のくせに犬みてーに懐いちゃってまあお兄ちゃん心配で心配でなあ、お前みたいなやつに絡まれたら準一も困るだろうって思って助けに来てやったんだよ」 「……ッ、お前……」  どの口で、と言い掛けて言葉を飲む。  俺が答えるよりも先に藤也が俺から幸喜を引き離す方が早かったからだ。  いでで!とわざとらしく痛がってる風なリアクションを取ってみせる幸喜だったが、俺と目が合えばあいつは何事もなかったようにけろりと笑うのだ。 「準一くーん、俺が藤也にイジメられてるよ?助けてくれないの?」 「……っ、……」 「何も感じねー痛くも痒くもねえ死体には同情すんのに、こうして意識もある俺に対しては手も差し伸べてくんないんだもんなー。ほんっと準一って口だけだよな」  偽善者じゃん、と舌を出して笑う幸喜に機能停止したはずの心臓が締め付けられるように苦しくなる。  幸喜に対する罪悪ではない、これは怒りだ。まるで自分は被害者とでもいうかのような態度がただひたすら腹立ったのだ。 「それはお前が……ッ」 「俺が、なに?」 「……ッ、……お前が…………」  藤也の目がこちらを見る。  そうだ、ここは俺と幸喜だけではない。藤也や、気絶している南波もいる。  思い出しただけで顔が焼けるように熱くなる。怒りか、羞恥なのか、それすら判断つかないほどこいつに掻き乱される自分が余計嫌だった。  とうとう何も言い返せない俺を見、幸喜は唇の端を釣り上げ笑う。 「俺が人殺しだから駄目だって?」 「……ッ!」  やっぱりこいつのことは好きになれない。そう思った次の瞬間だった。  いきなり藤也が屈んだかと思えば、床に突き刺さったままになっていた包丁を引っこ抜き躊躇いなく幸喜の首を掻っ切るのだ。  血飛沫すらも出ない。ぱっくりと大きく開いた傷を手で抑えた幸喜はその犬目を更に見開いた。その視線の先にいるのは藤也だ。 「藤也、お前……準一の肩ばっかり持つよなあ。ずるくないか?俺もお前も同じだってのにさあ……お前ばっか準一に愛されてんのずるいよなあ?」  首に開いた一文字の傷口はまるで口のようにパクパクと開閉し、幸喜の言葉を紡ぐのだ。その声には血と空気が混ざり、ごぽりと溢れる。  化物が、という今更な感想すらも覚えない。 「……お前と俺は違う」 「はは、キレるのそこかよ。愛されてるって自負はあんだね?ほんっといい性格してるわそういうところは俺似かな〜?」 「いい加減黙れよ」 「あ、藤也怒った?そんなに俺と一緒なのは嫌なのかよ、悲しいよなあ?俺と藤也は一心同体なのにさ。……なあ、準一?」  先程まで目の前で藤也と対峙していたはずだった幸喜がいつの間にかに背後に立っていた。反応するよりも早く、そのまま肩を抱いてくる幸喜。その手にはいつの間に仲吉からの差し入れである黄菊の落雁が握られており、幸喜はそれを一口で食したのだ。指をしゃぶり、「うわゲロみてーな味」と笑う幸喜に言いようもない恐怖を覚えた。 「準一みたいな甘さだ」 「……っお前……」 「死体のこと、そんなに気になるんなら埋葬でもしてやったらどうだ?俺の後で良かったら使ってもいいし」 「穴は穴だからな」そう耳元で笑う幸喜に下腹部を撫でられ全身の毛がよだった。触れられたこともだが、それ以上にこいつの言葉にだ。 「……っ、お前……」 「場所はさっきの場所。そのまま放置してるよ。ほら教えてやったぞ?優しい優しい準一はどうするんだ?線香でもあげに行ってくれるのか?」 「……ッ」  これは挑発だ。わかっていた。こいつは俺を試そうとしている。いや、オモチャにしてるだけだ。  これ以上ここにいるのも耐えられたかった。咄嗟に念じようとしたとき、南波のリードのことを思い出す。  ……花鶏にはあれほど言われていたが、今は状況が状況だ。この状況の南波を引きずって徒歩で向かっている時間すら惜しかった。 「準一さん」  藤也には注意されたばかりだ。それでもあんなことを言われて、そのままにしておくことはできなかった。見過ごすことも聞かなかったことにするのは俺には無理だったのだ。  目を瞑り、念じる。藤也と幸喜がいたあの場所を。これが一番速い。  ……一番の理由は、幸喜と同じ空間にいるのは耐えられなかったことだろうが。 「――……馬鹿」  空気の流れが変わる直前、幸喜の笑い声に混ざって吐き捨てるような藤也の言葉が耳にこびりついた。  ――ああ、その通りだな。  やがて辺りには虫の鳴き声が響き、全身をむわりとした熱が包み込む。  ゆっくりと目を開けば……すぐに目的のものは見つけることになった。

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