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08

 森の奥、木陰の中。  広がる血溜まりの上横たわる元女性だった死体は酷い有様だった。鼻を摘みたくなるような異臭は鼻を塞いでも指の隙間から縫う様にして鼻孔へ流れ込む。嗚咽と同時に、胃液のようなものが込み上げその場に嘔吐した。  まるで生きていた頃のような胃酸の酸っぱさは感じない。それでも腹の中、胃が痙攣してるような気持ち悪さは嘔吐しても収まらない。 「……ッ」  耐えられなかった。  着ていた上着を脱ぎ、一糸纏わぬ死体に被せる。  その表情を確認することはできなかった。  ――本当にただの死体だったのか。本当は殺したのではないか。  何度考えたところで無駄だとわかっていた。藤也の言葉を疑うわけではないが、忘れてはいけない。あいつらに俺の常識は通じない。藤也だって最近こそは優しくしてくれるが、こちらが本性のなのだろう。現に、幸喜の首を掻っ切ることにもまるで躊躇いがなかった。  ……目を閉じ、手を合わせる。こんなこと無意味だろう。気休めだとしても、せめてあるかも分からない天国へと逝ってくれていたらいいと思う。幸喜がいう偽善者的思考だと自覚はしていた。  先ほどよりも日が落ち、相変わらず虫の鳴き声が響く林の中。  不意に、後方からがさりと音が聞こえてきた。そして、続いて聞こえてきたのは呻き声。  慌てて立ち上がり、声のする方へと叢を掻き分けて覗き込めば、そこには倒れた男がいた。  地面の上に横たわった男の周りは赤黒い染みが滲んでいた。不自然な方向に折れ曲がった膝下、鼻をつく異臭。  ……けれど、生きてる。  あいつ、と思わずこの場にはいない双子の片割れが思い浮かぶ。来客が仲吉ではなかったことに安堵するよりも先に、この人をどうにかしなければという思考が働く。  身なりからして遭難者のようだ、尚更この遺体に近付けたくなかった。  こちらは気付かれていないが、意識はまだ残っているようだ。  地面の上、必死に起き上がろうとする男。折れた足を浮かせ、地面を這いずるように木の根本まで移動し、そのまま幹を手摺代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとする。動く度に音もなく滲む血液。  男は苦しそうに呻きながらも、自力で立ち上がろうとするが、限界がきたようだ。そのままずるりと木の根本にもたれかかるように力尽きる。  咄嗟に「大丈夫ですか」と駆け寄るが、俺の声が届くはずもない。まだ死んではいない。呼吸の度に胸が上下してるのを見て安堵するが、この様子では長く保たないだろう。  この場合は、どうしたらいいのだろうか。  怪我を直すことは出来なくても、食料にはなるだろう。でも、どうにか怪我の応急措置だけでもしなければ藤也の言った通り長くはもたないはずだ。  どうしよう、どうすればいい。サバイバル知識なんて欠片もない。肝心なときにこの頭は役に立たないのだ。  先に食料か。でもそれによって動物が誘き寄せられたらどうしよう。  取り敢えず、幸喜たちが食べないように食料を確保して、この人に渡す。  口の中で呟きながら目を閉じた俺は先ほどまでいた自室を思い浮かべた。  その後は……。  そこまで考えて、ふと先ほどまで聞こえていた虫の鳴き声が消えた。  同時に俺は先日訪問者が訪れたとき、率先して元の場所へ帰そうとしていた人間を思い出す。  ……花鶏だ。花鶏なら、まともなアドバイスをくれるかもしれない。  どちらにせよ花鶏とは話す必要があるようだ。  ゆっくりと目を開き、視界に現れた先ほどまでと大して変わらない自室内を見渡す。  既に双子の姿はなく、そこには心配していた食料もろもろが放置されたままだった。  南波は相変わらず放置されたままで、双子に嬲り殺しにされていないだろうかと心配していただけに床の上ででろんでろんになっている南波の姿を確認し、ほっと息を吐いた。  南波のことも気掛かりだが、今はあの男だ。  床の上に散らかったお供えものを紙袋に詰め込み、藤也が置きっぱなしにしていた男の荷物を抱える。そして気を集中させ、再び旅行者を見つけた外庭近隣の林に移動すした。  そして周囲の空気が変わったのを感じたとき、俺は移動する前に比べて自分の腕の中が軽くなっていることに気付いた。先ほど瞬間移動をする直前まで確かに抱えて荷物が無くなっているのだ。  俺は自分の手を見て慌てて自室に戻ることにする。  もしかして、瞬間移動って荷物まではついてこないのか。肝心なところで役に立たないな。  一先ず男がまだ気失ってるのを確認し、俺は再び瞬間移動を使い部屋へと戻った。  そして荷物を抱え直し、俺は足で扉を開いてそのまま一階の玄関へ向かって駆け出した。  瞬間移動を何度も使ったせいだろうか、酷い疲労感が全身を襲う。それに構わずひたすら廊下を走った。  ――応接室前。  そのまま玄関ロビーに繋がるY字階段を降りようとしたときだった。ふと目の前の応接室の扉が開く。 「どうしたんですか、そんなに慌てて」  扉の向こう、現れたのは花鶏だった。  なんというタイミングだろうか。不幸中の幸いとはこのことだろうか。 「花鶏さん、相談したいことがあるんですがちょっと良いですか」 「私にですか?」 「まあ……。あの、急ぎなんで取り敢えずついて来てもらっても」  そう尋ねれば花鶏は俺の手元を一瞥し、「構いませんよ」と微笑んだ。  花鶏が話の早い人で助かった。俺は「こっちです」と花鶏を引き連れて樹海へと向かう。  ――屋敷外、樹海。  走る俺に対し、花鶏はというとゆったりとした歩調を崩さない。それなのに俺について来ているというのはどういうことなのだろうか。気になったが、今はそんな場合ではない。  そしてやってきたのは先程の遺体傍。確かそう遠くない場所にあの男が気失っていたはずだった。  ――しかし、見当たらない。  血溜まりが残ったまま、関心の男がいないのだ。  不安になり、引きずったようなその血痕を追いかければ――見つけた。  一歩踏み出そうとして力尽きたようだ。腹這いに倒れてる男を見て血の気が引いた。駆け寄れば、まだ呼吸はしている。それでも無理して動いたからだろう先程よりも、出血量は明らかに増えていた。肌の色も最早真っ青だ。 「……なるほど、幸喜たちの仕業ですか」 「花鶏さん、どうしたらいいでしょう……っ、このままじゃこの人……」 「ええ、長くは保たないでしょう」 「せめて、どうにかして応急措置だけでもしたいんですけど……」 「処置したところで焼け石に水でしょう。この方を助けたければ、外と連絡を取って助けを呼ぶことでしょうね。少なくとも私どもではどうにもできない」 「でも……連絡なんて……」  携帯も使えない。電波も届かない山の中。しかもここは樹海の奥も奥だ。  焦れて「花鶏さん」と呼べば、花鶏はいつもと変わらない笑顔を浮かべるのだ。 「あるではありませんか、……貴方にしかできない方法が」  そう目を細める花鶏の言葉に、思わず息を飲んだ。 「貴方が仲吉さんと連絡を取り、救急車を呼んでもらう」 「……っ、あいつは……」 「貴方がそれを嫌だと言うなら、この山を燃やしてみますか。そうすれば救急隊の一人や二人来てくれるかもしれませんね。その間までにこの方の体が保つかは保証できませんが」  花鶏はあくまでも冷静だった。この山を燃やせば確実にこの男にも被害は出るだろう。  ――本当ならば、仲吉には関わらせたくなった。  けれどこうしてる間にも時間は迫っている。  選択肢など意味がない、実質一択のようなものだった。  またあのときのように都合よく以心伝心が発生するとは思わない。一か八か、大きな賭けだ。  目を閉じて、念じる。そのときだった。 「準一さん、一つだけご忠告させていただいてもいいでしょうか」  不意に、花鶏に肩を掴まれる。咄嗟に思考を止め、俺は花鶏を振り返った。  花鶏には先程までの笑みはなかった。 「精神力は体力同様底がないわけではありません。精神力しか持ち合わせていない我々にとってその力が尽きたとき、即ち心身の死を意味します」  何故よりによってこのタイミングになってそんなことを言い出すのだ。  ……このタイミングだからなのか。 「準一さん、あなたはここ数日で大分精神力を消耗しているようです」 「それは……」 「なにをするにも消耗は付き物ですが、以心伝心には通常よりも多くの力を使います。これ以上の負担となれば、あなたの身が持つかどうかがわかりません」  体が死んで、心のみになった俺たちの死――心の死。  まさか幽霊になってまで死云々を心配されるとは思わなかった。考えてもなかった。  言われてみれば、瞬間移動を繰り返した後からの疲労感が酷い。恐らくあれが原因だったのかもしれない。  花鶏の言葉を聞いて一瞬躊躇ったが、俺はすかさず「大丈夫です」と答えた。  既に体が死んでいる俺か、まだ両方生きているこの男のどちらが大切かと言われても答えは決まっている。食糧が入った荷物を花鶏に預けた俺は、そのまま目を瞑った。 「……あまり無理はなさらないようお願いします」  暗闇の中、溜め息混ざりの花鶏の声が聞こえる。それは諦めたような――どこか悲しそうな声。それに重なるように蝉の鳴き声が一層煩くなった。  目を閉じ、強く念じる。唯一の友人に会いたいと――そうすれば、会える。  一秒一秒が酷く長く、自然と緊張する。  ……変わらない。その事実に内心焦り始めたときだった。先程まで耳元で煩いくらい鳴いていた蝉の鳴き声が遠くなった。  じめじめと湿った周りの空気ががらりと変わる。以心伝心が成功したのだ。  どうやら焦らされれば焦らされる程思いが強くなるということか。  冷や汗を滲ませ、全身の緊張を弛めながら俺は目を開いた。

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