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 今この樹海に仲吉がいると決まったわけではない。けれど、あの封筒を拾った正しい場所は花鶏にしか分からない。  そこに封筒を置いて仲吉に渡すというつもりなのだろう。  それだけは、それだけは阻止しなくてはならない。  ――屋敷の外、樹海にて。  四方を埋め尽くす木々に方向感覚が無くなり、花鶏たちを追うどころか自分がどこを歩いているのかさえ解らなくなっていた。  先程まで赤みがかっていた空はあっという間に黒く淀み、薄気味悪さを増す森の中に益々道に迷ってしまいそうだった。  ……というか、迷っていた。 「……っ、くそ……」  早くしなければ、そう思えば思うほどどんどん道に迷ってる気がして、一旦俺は冷静になるために足を止めた。  ……そうだ、あの二人を闇雲に探すよりも仲吉がお供え物を置きそうな場所を訪ねた方が早い。  俺はすぐに崖の方へと向かう。そう、幸喜に突き落とされたあの崖だ。  それに、崖上ならば今は恐らく奈都もいるはずだ。念の為に先に崖下を覗いてみるか。  ここまで道に迷ってしまった今、テレポートを使った方がまだ早い。  あまり力を消耗したくなかったが、時間は有限だ。  目を細め、脳裏にあの崖を思い浮かべる。  いつもならこれだけの動作で移動できていた。  ……しかし、今はいつまで経っても風景は変わらない。  なんでだ。もしかしかして、うまく集中出来てなかったのか。  今度はちゃんと目を閉じて思い浮かべてみるが、頭の中にはノイズが混じり上手く集中出来ない。  なにかがおかしい。  何度やってもなかなか変わらない景色に焦れる。思わず樹木を蹴りそうになり、耐えた。  瞬間移動が使えないのならば歩いて向かえばいい話だ。分かっていた。それなのに、同時にこみ上げてくるのは虚脱感。何故自分がこんなに必死にならなければならないのか、なんて当たり前の感情に疑問が込み上げる。  ――仲吉のためだ、あいつが平穏な人生を送れるようにするために動いている。そう自問自答を繰り返す。  目にわかるような自分の精神の不安定さに、ふと花鶏の言葉を思い出す。  ――精神の死。  いくら言われてもそれがどんなものか想像付かなかったが、今の自分が異常だということはわかった。  この場合はどうしたらいいのか。  どうもしなくてもいいのか?  俺には無理して幸喜たちを止める必要もない。それに、俺だって仲吉に会いたい。  抑えていた本音に頭の中が埋め尽くされている。  理性の損失。恐らく、負担を掛けすぎたあまりに感情の制御が利かない状態になっているのだろう。今まで蓋をし続けていた仲吉に会いたいという気持ちが溢れ出す。これがお前の本音だと、目を逸してきたそれを目先に突き付けられるようだった。  そんなの駄目だ。冷静になれ。  そう、なけなしの理性で落ち着きを取り戻そうとするが、無理をすればするほど体の奥底から胸を締め付けるような息苦しさは込み上げてきた。 「……っ、ぉ、れは……」  見えない何かに首を締められてるような気分だった。全身を這う恐怖感に頭を掻きむしり紛らそうとするが、心を塗り潰そうとするそれらは一層濃さを増すばかりで。――自分が自分でなくなりそうになる。  我慢はよくない。仲吉だって俺に会いたがっていたはずだ。  そう囁くように頭の中に響く本能の声。それらは俺を心配してくるようにそう言い聞かせてくる。  そうだ、我慢はよくない。自分のやりたいことをすればいい。  ……でも、もし自分の我が儘で取り返しのつかないことになったらどうする?  爪先からじわじわとなにかに侵食してくるのがわかった。  底のない沼にずぶすぶと全身が沈んでいくような恐怖感。実際自分の足はちゃんと地についてるはずなのに、堪らなく不安になってくる。  この不安感から逃げ出したい。だけどどうしたらいいのかわからない。もがけばもがくほど深く嵌まっていく。  急に虚空へと放り出されたような孤独感。目的を見失いそうになる。息苦しさを解消しようと喉を掻き毟るがなにも起きない。ただ、ゆっくりと真綿に首を締められていくのだ。  そのときだった。  風のない森の中、後方からがさりと草を掻き分けるような音が聞こえてきた。 「準一さん」  静かな暗闇の中、背後から響く今や聞き慣れたその声に現実に引き戻される。  恐る恐る振り返れば暗闇の中、ぼんやりと人影が浮かび上がる。青白い肌、濡れたような黒髪、能面のような無表情を貼り付けたその青年の姿をみた瞬間、ひくりと喉が震えた。 「と……うや……」  自分の声とは思えないほど酷い声だった。渇いた喉からガサついた声が漏れる。  これは、もしかしたらこの樹海の中一人でいるという孤独感で“こう”なってるのかもしれない。  ならば誰かがいれば――そう思っていたが、実際はどうだ。藤也の姿を見てもそれらが払拭されることはなかった。 「……」  藤也は俺の顔を見ると、僅かにその双眸を細める。余程酷い顔になっていたのかもしれない。  藤也、ともう一度、縋るように声を振り絞ったときだった。大股歩きで目の前までやってきた藤也はそのまま力づくで俺の腕を掴むのだ。 「準一さん」  細っこいのに力強い手に掴まれ、そのまま身体を揺すられる。そんなに呼ばずとも聞こえている。そう笑って答えてやりたいのに、そうすることもできない。全身が石みたいに硬直していたのだ。 「俺の声聞こえる?」  それは静かな声だった。  こくりと頷き返せば、藤也は「喋れる?」とだけ続けて聞いてくる。 「と……うや……」 「うん」 「藤也……っ」  一度目は酷く掠れ、震えてしまったが二度目ははっきりと発音することができた。  瞬間、一人で抱え込もうとしていた袋の中身をぶちまけてしまったように薄暗い感情が溢れ出すのだ。 「……っ藤也、藤也……さっきからなんか体がおかしいんだ……っ」  身体も、心も。思い通りにいかず焦っていた。  とにかくこの際誰でもよかった。  「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて」 「落ち着くって……」  それが分かったら最初からしている。  そう言いかけたときだった。伸びてきた腕に背中を撫でられ、思わず硬直した。  まるで幼い子供かなにかをあやすように、肩甲骨あたりから背骨になぞって撫でられると。 「……っ、と、うや」  自分よりも見た目年下の男相手に慰められてる図は傍から見れば滑稽な図なのかもしれない。それでも俺は形振り構ってる余裕もなかった。相手が藤也だから尚更縋ってしまうのだ。  そんな俺を笑うわけでも、馬鹿にするわけでもなく藤也は「準一さん、落ち着いて聞いて」と静かに続ける。 「……このままだと、準一さんは駄目になる」  それはいつもと変わらない静かな声だった。  藤也の口からでたその言葉に、思わず俺は藤也を見上げた。 「……駄目、って……」 「精神の崩壊」  今まで生活してる中であまり聞くことのない言葉だった。それでもその意味は理解できる。 「準一さんも気付いてるでしょ。既に理性がなくなりかけている」  心当たりはあった。――いくらでも。  それでも自認することと、こうして第三者である藤也に指摘されるのとはまた違う。ショック、ではない。理解もできる。  それよりも、不安だったそれは一気に恐怖へと姿を変えるのだ。 「……俺、死ぬのか?」  ……また。  藤也が言っているのは恐らく花鶏に忠告された精神の死のことなのだろう。肉体的に死ぬこととはまた違う。考えたこともない、俺の理解の範疇を越えたその後の世界にただ恐ろしくなる。  藤也は「違う」と小さく呟いた。 「死にはしない。ただ、自我がなくなる」 「自我……?」 「俺たちがなにで出来ているか――準一さんは知ってるだろ。意識の塊である俺たちから自我がなくなったら……そのときはもう、なにも残らない」  無――即ち、精神の死。  そう口にした藤也の声が、酷く冷たく鼓膜の奥に広がった。  

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