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 鼻から血を噴き出し、顔の下半分を真っ赤に染めた南波は見るからに大丈夫そうではない。大事だ。  このままではまずい。主に南波が。  今にも噛みつく勢いの南波を慌てて止めようとしたときだった、いきなり幸喜に「そうだ、準一」と呼び止められる。  なんなんだ、今度は。と振り返ろうとしたすぐ目の前にある二つの目にぎょっとした次の瞬間、幸喜の細い指に顎を捉えられた。 「え」 「な゛」  俺と南波の声がハモったのとほぼ同時だった。  思いっきり幸喜に唇を塞がれたと思った次の瞬間、思わず開きかけていたその口に流し込まれる甘ったるい甘酒にぎょっとする。 「ん゛ん゛うッ!!」  どろりとした舌触りにぎょっとし、咄嗟に幸喜を押し退けようとするがこいつ、相変わらず力だけは強い。顎の骨が砕けるのではないかという力で顔を固定されたまま、幸喜は「ん~~」と舌で更に俺の口の中へと甘酒を流し込んでくるのだ。  なすすべなどなかった。  流し込まれるがまま喉の奥へと甘酒を流し込まれ、喉がごくりと甘酒を更に胃の奥へと落とす。  そして俺の口が空になったのを確認してようやく幸喜は俺から口を離した。 「ほら、お裾分け」 「美味かった?」と幸喜は笑った。  俺は唖然としていた。というか、言葉も出なかった。 「っ、お、まえ……」 「テメェこのクソガキ……ッ!! なにしてんだ!!」 「なにって、言っただろ? お裾分けって。ほら、俺って優しいから!」 「なにがお裾分けだ、準一さんから離れろこのホモ野郎……ッ」 「何言ってんの、南波さんだってこの前準一さんとキスしてたじゃん。しかもベロ挿れるやつ」 「ぐ……ッ!!」  どうやら幸喜の一言で余計なことまで思い出させてしまったようだ。見る見るうちに青褪めていく南波にこの流れはまずいと察知する。  というか、そもそも南波も南波だ。男嫌いなのに何故こうも負けん気が強いのだ。このままではまた間違いなく返り討ちに遭い幸喜の玩具にされるだろう、……それだけは避けなければ。 「な、南波さん、俺のことはいいんで……」  もっと自分を大切にしてください、と南波のリードを止めようと引っ張ろうとするが、手のひらに力が入らない。  まさか甘酒の酔いが回ったのか。そんな馬鹿な。  酒が弱すぎる南波の影響で変な先入観があったからか。  この際理由はどうでもいい、南波を止めなければ。 「ぜってぇ殺す! 死ね! 百万回死に晒せ! てめぇだけは許さねえ、待てや糞餓鬼!!」 「なになに鬼ごっこ? いいよいいよ、捕まえれるもんなら捕まえろよこのノロマー! あはははっ!」  そう、笑いながら幸喜はドタバタと応接室から出ていく。それを「待てやコラァッ!」とかチンピラみたいな怒声を上げながら南波は追い掛けていくのだ。  慌てて「南波さんっ!」と呼び止めようとするが――遅かった。  南波が駆け出した瞬間、ろくな握力が入らないその手からするりとリードが抜け落ちる。  あ、やべ。と思ったときにはもう遅い。  凄まじい速さで応接室から飛び出す南波を引き止めることもできないまま、気付けば一人応接室に取り残されていた。 「南波さん、南波さんっ! 待っ、……ッうぅ」  ――このままではまずい。  花鶏との約束を思い出し、慌てて追いかけようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪む。  頭の奥に白いモヤのようなものが広がっていく、そんな感覚には覚えがあった。  立ちくらみ、なんて言葉が頭を過る。  このままではまた花鶏にどやされる。それだけは避けなければ。そう、壁伝いに扉から出ようとしたときだった。力が抜けそうになり、ぐらりと傾むく体を伸びてきた腕に支えられた。  霞む視界の中、顔をあげればそこには見慣れた顔があった。 「準一さん」 「とうや……」 「……酒臭いよ、準一さん」 「わ、悪い」  そう、藤也は俺の体を引っ張ってソファーへと座らせる。追いかけなければと思うが、思いの外メンタルに影響を受けているようだ。  俺を座らせた藤也はそのまま俺を見下ろし「どうしたの」と静かに口を開いた。 「……なんか、頭がおかしい」 「元からじゃないの」 「…………」 「冗談」  ……冗談には聞こえなかったが。  ショック受ける余裕もなく項垂れる俺に、藤也は「まさか酔ってるの?」と目を細めた。 「……たぶん」 「酒、得意じゃねえんだよ」と続ければ、「確かに、弱そう」と藤也は頷いた。  生きてるときは嗜むくらいなら多少は平気だった。悪酔いするまで呑まなければ、だが。  それでも甘酒一杯で度数の強い酒呑んだときみたいな感覚になるなんて。  けれど、今はここでのんびりしてる場合ではない。  悪い、と藤也にもう一度断ってソファーから立ち上がろうとしたとき、「なにしてんの」と藤也に止められた。 「……南波さん、探さねえと」 「放っとけば」 「駄目だ、花鶏さんに怒られる」  藤也の腕から離れ、再び応接室から出ようと歩いていく。が、足元が覚束ない。再びずるりと傾く体を藤也に掴まれた。 「足、ふらついてる」 「……地面がぐらぐらする」 「少し休んだら、酔っぱらい」 「ぐ……」  今度は藤也に半ば強制的にソファーに転がされた。  何故寝かされたのかよくわからなかったが、体勢的にはこちらの方が楽だ。  頭の中で、今すぐ南波を探しに行きたい俺と、このまま酒でもたもたしてたら見付かるものも見付からないのではないかと考える俺が葛藤する。  けれど、藤也にぽんぽんと赤子かなにかのように腹部を叩かれると不覚ながらも心地よくなってくるのだ。 「と、藤也……」 「なに?」 「それ、やめてくれないか」 「それって、これ?」  心臓の音に合わせるように体を軽く叩かれ、こくりと頷き返す。顔が熱くなってくる。そんな俺に、藤也は「嫌だった?」と小首を傾げる。 「い、嫌とかじゃなくて……なんか、子供扱いされてるみたいで……」 「似たようなものでしょ」  ばっさりと切られた。いくら藤也が見た目よりも年上だとしてもだ、明らかに自分よりも年下の少年にあやされる図というものは心にくるものがある。 「それに、目を瞑れば関係ない。……余計なこと考えてないで」 「……お前な」 「早く」 「わ、わかった……わかったから」  何故藤也に押されてるのか、俺は。  けれど、藤也なりに俺のことを考えてくれてるのだと思うと無碍にすることはできなかった。  言われるがまま、ソファーの上で横這いになった俺は目を瞑る。暗闇の中、頭の上から藤也の声が聞こえてきた。 「準一さん、眉間に皺寄ってる」 「これはもう癖みたいなものだ」 「ふーん」とさして興味なさげに呟きながら、藤也は俺の眉間に触れてきた。そのままむに、と眉間の間を揉まれ、つい目を開けば思いの外覗き込んでくる藤也の顔が近いところにあって息が止まりそうになる。 「……っ、藤也、お前もしかして酔ってるのか?」 「準一さんと一緒にしないで」 「い、いや……でも、変だぞ」 「それは準一さんの方」  そうなのか?……そんな風に言われたら自信がなくなってきた。  俺からぱっと手を離した藤也は、そのままソファーの足元に座り込むのだ。 「それに、大体飲んだのは幸喜だし」 「ああ……だからあんなにべろべろになってたのか」 「あいつのあれはいつものやつ。そもそも、甘酒で酔っ払うなんて馬鹿そんなにいるわけないでしょ」  ぐさ、と藤也の鋭い一言が胸に突き刺さった。  ぐうの音も出ない。 「それに、あいつは酒は好きじゃないから」 「俺も」と小さく付け足す藤也。  だったら何故勝手に呑んだのだと思ったが、双子からしてみればジュース感覚だったということだろうか。なんとなく深く聞かない方がいい気がして「そうか」とだけ答えた。 「じゃあ、なんか好きなものとかあるのか?」  なんとなく気になり、体を起こそうとすれば藤也はこちらを見ていた。 「別にない」 「ないのか?」 「……別に、おかしなことじゃないだろ」 「まあ、人それぞれだしな」 「というか、そんなこと聞いてどうすんの」  まさか逆にそんなことを聞かれるとは思っていなかっただけに言葉に詰まる。 「……今度、仲吉に土産持ってきてもらうとき頼むとか?」 「なんでそうなるの」 「な、なんか羨ましそうに見えたから……?」 「なんで疑問系なわけ」  やはり、藤也は気難しい。けれど、こうして藤也と会話が続くだけでももしかして進歩なのかもしれない。そんなこと考えてると、「その顔、ムカつく」と鼻柱をぎゅっとされる。痛くはないが、つい反射で「あで!」と悲鳴が漏れた。 「準一さんのくせに生意気」 「ま、まだなんにも言ってないだろ……っ!」 「……まだ」 「あ……」  なんてやり取りしてる内にすっかり件の目眩は収まっていた。  藤也も藤也で別に本気で気を害したわけではないらしくあっさりと俺の鼻から手を離した。心なしか鼻が高くなった気がする。  立ち上がろうとすれば、藤也はこちらを見上げてくる。 「もう大丈夫?」 「ああ、お陰様でな。……ありがとな」 「もう少し休んだら」 「いや、もう大丈夫だ。……それに、花鶏さんたちが戻ってきたら面倒だしな」  正直、こちらが本音だった。  また南波まで巻き込んで公開初回みたいな真似をされては堪ったものではない。 「だったら、俺も」 「……いいよ、一人で。気、遣ってくれてありがとな」  ついていく、と言いかけたのだろう。俺は藤也の申し出を先手で断った。  そりゃ、誰かが手伝ってくれた方が見付かりやすいとはわかっていたが、南波と藤也の相性やこれまで藤也に掛けてきた面倒のことを考えればこれ以上甘えることは出来なかった。  そんな俺の言葉に対しなにも言わず、それでもなにか言いたそうなじっと目でこちらを見上げてくる藤也。怒ってるわけではなさそうだが、この目に見られるとなんだか胸の奥まで見透かされてるようで落ち着かなくなる。  いたたまれなくなった末、「じゃあ、ありがとな」とだけ藤也に告げ、俺はそのまま逃げるように応接室を後にした。

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