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義人を連れ出すため、子供部屋へ向かうことにしたまではよかった。
けれど、正直俺自身自分の限界が近いのがわかった。
藤也を安心させたくて、とにかく早くと思うが体が重くて、まるで自分の体じゃないみたいで。
……少しだけ、少しだけ休もう。このままでは幸喜に出会ったとき何もすることが出来ない。
「……」
薄暗い廊下の隅、壁に凭れかかった俺は深く息を吐く。
取り込むだとか、親だとか、産み出すとか、わけの分からないごと尽くしで余計頭が回らなくなっているようだ。
ただ、消えそうになってた藤也を見て酷く不安になったのだけはよく覚えている。
消える。
あのまま自分の姿を取り留めるほどの気力すらなくなっていたらどうなっていたのだろうか。
一度、俺だけの目の前に現れた義人のことを思い出す。
あいつも、存在を認識されることすらなくあのまま消えることになっていたかもしれない。
そう考えると、いても立っても居られなくなった。
「……よし!」
息を吐き、背筋を伸ばす。
この短時間で大分気分が楽になったのは恐らく、義人のことを思う気持ちがあったからか。
我ながら単純だと思ったが、今はこれでいい。
余計なことを考えてる暇、俺にはない。
再び歩き出した俺の足取りは軽い。
とにかく、今は幸喜のことは考えようにした。
◆ ◆ ◆
子供部屋前。
相変わらず扉のないそこは他の部屋より浮いている。
扉があったはずのそこを潜れば、先ほどと変わらない薄暗い子供部屋が広がっていた。
幸喜の姿はないようだ。
静まり返ったそこ、義人の姿を探す。
けれど、ベッドの下も机の上にも義人の姿はなくて。
まさか、と血の気が引いた矢先だ。
ベッドの下、ぴょこんと何かが飛び出してきたと思えば靴の上になにかが張り付いた。
「ぅっ!!」
げこ、と濁った瞳を向けてくるのは間違いない、義人だ。
不意打ちに叫びそうになったが、手で口を抑えなんとか免れた。
やっぱり、どうしてカエルなんかに憑かせるんだよ。もう少し可愛い奴にしてやれよ。
思いながらも、恐る恐る座り込んだ俺は義人に手を伸ばす。
すると、また小さく鳴いた義人は俺の掌に飛び乗ってきた。
ぺたりと爬虫類特有のあの湿った皮膚の感触になんだかもう気が気ではなかったがここにいるのは藤也の父親だ、カエルではないと必死に言い聞かせながら俺は義人を持ち上げる。
だけど、よかった。これで、藤也のやつも少しは安心してくれるだろう。
用もないことだし、幸喜が来る前にさっさとその部屋を後にしようとした。
その時だ。
「なーんだ、こんなところにいたのかよ」
「……ッ!」
背後から聞こえてきたその声に、咄嗟に義人を腕の中に隠す。
瞬間、伸びてきた幸喜の腕がすぐ目の前を横切り、空振る。
「っと、おっしぃ」
「幸喜……っ」
「でも良かった、出てきてくんねーから家具全部ぶっ壊してやろうかと思ったけど手間省けたわ」
そう笑う幸喜の手の中に、あの手斧が握られているのを見て、目を疑った。
腕の中の義人が震えてるのを見て、それを奪われないよう、それでも潰してしまわないように抱き締めた。
「それ俺にちょうだい?」
以前と変わらない、屈託のない笑顔。
けれど、そこから滲み出る殺気は隠せていない。
現れた幸喜に、以前と違うその纏う空気に、皮膚にぴりっとした痛みが走る。
やつを前にし、怖気付く自分に喝を入れる。
とにかく逃げよう。
相手にするだけ無駄だと分かっている今、逃走経路を探るが入口の前に立つ幸喜を避けるしかなくて。
もう少し、体力を回復しておくべきだったか。
無意識の内に舌打ちが出る。
「どうしたんだよ、準一。もしかしてまだ俺と話してくれないわけ?」
「……」
「ふーん、あっそ。ま、いいけど」
何も答えない俺に対し、てっきり怒るかと思えば違う。
今度はいつもと変わらない態度で受け流す。
その代わり、目に見えるように殺気が膨らむのがわかった。
「俺の邪魔するんなら、お前もそれと一緒にぶっ壊してやるよ」
幸喜が引き攣るような笑みを浮かべたとき、その手に握られていた手斧が思いっきり振り被られる。
目の前。顔面目掛けて飛んでくる鈍色の刃を避けるように後退するが、拍子に体勢を崩してしまった。
「……っ、ぶね……ッ」
もろ尻餅をつきそうになり、咄嗟に片膝ついてそれを防いだがどうやらそれがまずかったようだ。
容赦なく、俺の脳天目掛けて振り降ろされる手斧。
ああ、この体勢では避けられない。せめて、と義人を庇い、俺は首を逸らした。
瞬間、真っ直ぐに振り下ろされたその分厚い刃は右肩に直撃する。
「っ、ゔ、ぐァ!」
肩の奥からバキリと不吉な音が聞こえた。
次の瞬間、肩に金属がのめり込んでくる。
意識してはいけない。わかっているのに、肩に叩き込まれた斧を見た瞬間その衝撃が全身に襲いかかってきた。
「ほら、ごめんなさいって言えよ!そのきもちわりーカエルこっちに渡せばいいんだってば!そうしたら許してやるからさあ!」
めきりと、刃が離れたかと思った瞬間二発目が叩き込まれる。同じところに突き刺さる斧に、全身が引き攣る。
痛みはない。だからこそ皮膚を破って骨を折りそこから伝わってくる金属特有の冷たさを意識せずにはいられなくて。
片方の腕で肩を抑え、幸喜の持つ斧を掴もうとする。瞬間、手斧は俺の肩から引き抜かれた。
「っ、ぁぐ……!」
「ったく、もー……そんなに俺に構って欲しいのかよ」
違う、その言葉すら口から出なくて。
ただ、肩を繋ぎ止めることで必死だった。
これ以上ハンデを背負わされるわけにはいかない。少しでも気を許してしまえば自分の体が無くなってしまいそうで、恐ろしかった。
「ならお望み通り構ってやるよ」
「まずは右腕からな」と、幸喜は笑う。
赤黒く変色した手斧が再び自分に向けられた瞬間、腕の中で義人が動くのがわかった。
逃げ出そうと藻掻いている義人に気付く。
ああ、そうだ。別に俺も逃げる必要はないのだ。
なんとか、義人だけでも藤也の元へ……。
「八……ッ」
瞬間、右腕に衝撃が走る。
肺から声が漏れ、一瞬なにが起きたのか理解できなかった。それでも、服を突き破り腕に突き刺さった斧を見て嫌な汗が溢れ出した。
同時に、真っ赤な血が噴き出す。
貫通はしていない、辛うじて繋がっている、けれど、動かない。
俺の思考が右腕の機能を停止してしまった。そのことに気付いた瞬間、益々自由が利かなくなった自分の体にただならぬ恐怖を覚えた。
けれど、同時に安堵した。右腕が機能停止したということは、これ以上気にする必要はないのだ。
「おお、出る出る。大出血サービスってやつ?」
笑う幸喜が柄を動かす。断面で斧が動くのを感じ、俺はまだ使える片手でその柄を掴んだ。
瞬間、幸喜の笑みが僅かに引き攣ったのを俺は見過ごさなかった。
「準一、なに、お前も遊んでくれんの?」
「……っ、冗談じゃ、ねえ……一人で遊んでろッ!」
同時に、血で滑るその柄を掴んだ俺は幸喜の指から手斧を奪い取る。
痛みもない。腕は取れ掛けてる。骨だってどっか砕けているだろう。血だって水溜まりになってる。それでも俺の意識はしっかりあるし、なにより、痛みを感じない。
視覚と感覚が噛み合っていない今、目の前の幸喜に対する恐怖以上に自分が人ではない化物になっているような、そのことに対する不安のほうがでかかった。
だからだろう、人間だった頃の痛覚に対する恐怖を切り捨てることが出来た。
なんとしてでも、義人を渡さない。
斧を取り戻そうとしてくる幸喜の手を振り払う。
今度こそ、その笑顔が崩れた。
玩具を取り上げられたようなそんな目でこちらを睨む幸喜に一瞬、そんなことを思ったがそれも束の間。すぐに笑みが浮かんだ。
「……っ、んだよ、ようやくその気になったわけ?」
「お前と一緒にすんじゃねえよ」
「それじゃあ……」
何をするつもりだ、と幸喜が言い掛けた時。俺は持っていた斧を幸喜に向かって投げ付ける。
それが真っ直ぐに幸喜へと向かった瞬間、幸喜は消えた。
標的を失っても尚、真っ直ぐ飛んだ斧はやがて薄い窓ガラスを突き破る。
落下音は聞こえなかった。
その代わり、
「準一さぁ、どうせやるんならもっと楽しませてくんねえかなぁ!わかりやすすぎんだよ!」
背後から聞こえてくる苛ついたような、それでいて馬鹿にするような笑い声。
瞬間、目の前に伸びてきた腕に羽交い締めにされる。全身を締め付けるようなその圧迫感。滲み出る血は留まることを知らない。
「……っ、ぅ」
斧はもう、手を伸ばしても届かない距離にある。
俺からも、そして幸喜からもだ。
「さぁて、義人ー隠れてないで出てこいよ~っと」
「っ、ぁ゙ッ!ぅ、ぐッ」
「義人くーん?」
右腕、辛うじて繋がっている腕を引っ張られ繋がっている筋が伸び、全身が引っ張られる。
それでも絡み付いてくる幸喜の指は離れない。それどころかより強く引っ張ってくるそれに皮膚が、繊維が、音を立てて引き千切られるのがわかった。
滲む汗、必死に幸喜の手から逃げようとするが背後から抱き着いてくる幸喜の体はちょっとやそっとじゃ引き離されなくて。
後方に腕を持ち上げられた時、最早俺の意識から断裂されたそれはあっけなく体からも引き離されてしまう。
「お前、あれだろ、斧が無かったら俺なんもできねーって思った?」
「っ、は、ッ……く……っ」
「出来るよ、準一の体くらい簡単にバラバラに出来るよ。俺は」
「……っ」
ごとりと音を立て、今まで俺の体についていたそれが床の上でだらりと横たわっていた。軽くなった残された体だけではバランスを保つのは難しくて。
回復する気力も残されていない。
「義人ー?おーい、義人ぉーでーてーこーいーよー」
幸喜の頭には義人を引き摺り出すことしかないのだろう。片腕では、俺の腹部を探る華奢な指を振り払うことができなかった。
というよりも、する必要もないのだけれど。
「……んだよ、おい、準一、どこに隠してんだよ?隠れんぼ?隠れんぼなわけ?ま、いいよ、俺探すの好きだし!」
言いながらも、見当たらない義人に次第に幸喜が苛つき始めているのがわかった。
服を引っ張られ、腹部を掴まれる。
そんなところにいるわけないだろう。本当、こいつが単細胞野郎で良かった。つくづくそう思う。
「ここ?」
晒された腹部、何度も引っ掻かれ皮膚が抉れる。
「こっちかな?」
堪えるため、固めていた拳を無理矢理指を曲げられ開かされる。
「まさか、ここじゃないよな」
ベルトを引き抜かれそうになった時、俺は曲がった腕で幸喜を振り払った。
指の骨が更に変な方向に捩れる。それでも、痛くない。悲しいことに痛くないのだ。
「………………義人は?」
どうやら、幸喜も異変に気付いたようだ。
幸喜の目の色が動揺へと変わる。しかし、もう遅い。
「おい、義人はっ!どこにやったんだよ!」
充満する血の匂い。真っ赤に染まった幸喜の手が掴み掛かってくる。それを避けることすら出来ず、俺はされるがままそれを受け入れる。
「さあな。……つーかどこに行ったのか、俺もわかんねえから」
穴が空いたのか、喋る度に腹で変な音がして、声が掠れる。
そもそも、俺だって何も考えてなかったのだ。幸喜から義人を引き離すこと以外は、何も。
その俺の言葉に、気付いたようだ。
廊下。幸喜が割れた窓を振り返る、その瞬間確かに隙が出来た。
片腕はやはり、慣れない。ちょっとした動きで体の重点がずれ、すぐにバランスが崩れてしまう。
それでも、俺は幸喜の髪を引っ張り、そのまま強く引っ張る。
「……っ、は」
俺の想像では、幸喜ごと巻き込んでそのまま運良くアイツを捕まえることは出来ないだろうかなんて思っていたのだけど、やはりそう甘くはないようだ。髪に指を絡めた瞬間、強い力で手首を取られる。同時に呆気なく骨が折れるのがわかって、口から息が漏れる。
「ああ、そうか、まずは準一からだったよな」
皮膚の中、支えるものを失いだらりと垂れる手首を抑える。
せめて、どうせならもう少し綺麗な姿だったら少しは格好つけれただろうか。
それでも、少しでも時間稼ぎになったのなら、まあよかった。
なんて、目の前に立つ幸喜を眺めた時。窓の外。止んでいたはずの雨がまた振り始めていたことに気付く。
「構ってやりてーけど、今忙しいからな、また今度遊んでやるよ」
「生きてたらな」と笑う幸喜の指の先端が、腹部、臍の上に突き立てられる。
細いそれがぐっと押し込められそうになった瞬間、機能してるかどうかすら怪しい臓器たちがぎゅっと押さえ付けられ、吐き気が込み上げてきて。
その指先から逃れようと後ずさった瞬間、背後に回された幸喜の手に背中を抱き締められる。
「っ、ふ、ぅ、ゔぁ……ッ」
瞬間、冷たい指が、皮膚を突き破りみちみちと体の中へ入ってくるのがわかった。
全身の筋肉が硬直し、動けなくなる。
耳元で幸喜の吐息が聞こえ、感じたことのないその感覚に力が抜けそうになる。
「準一、あんたやっぱ締まりいいな」
そんな笑えない冗談に目を見開いた瞬間、ずんっと腹の奥、耳の奥へとその抉るような衝撃が突き抜ける。
幸喜の細い腕を半分以上飲み込んだ自分の腹の中、異物が突き刺さり背中を突き破っていることに気付いた瞬間理解できない大量の情報量に自分の五感が追い付けず確かに俺はフリーズしていた。
だから、幸喜の腕が引き抜かれた瞬間、腹に空いた穴を見て全身から力が抜け落ちた。立ち上がれない。四肢に力を入れることすら出来なくて、赤くなった部屋の床の上、仰向けに倒れる俺を見下ろしていた幸喜は笑い、手を振り、そのまま部屋を出ていった。
待てよ、と声を出そうとしても声が出なくて。
その代わりにドクドクと止めどなく溢れる生暖かな液体にああ、本当これはやばいと思いながらも俺は目を閉じる。だけど、まだ消えていない。まだ間に合う。
目を閉じ、俺は流れ込んでくる全ての情報を遮断することにした。
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