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少しだけ休もう。
そう目を閉じて、どれくらい経っただろうか。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
するとそこには見たことのない景色が広がっていて。
「こ、こ……は……?」
黒く、深く濁った空。風もなく、薄暗いそこは一言で現すなら荒野のようだった。
建物も、何も見当たらない。ただ、ここが先程までいたあの子供部屋ではないというのはすぐにわかった。
だとしたら、ここはどこだというのか。
「……仲吉?」
前方数メートル先、見覚えのある後ろ姿はぼんやりと佇んでいて。
けれど、名前を呼んでもあいつは気付かない。
これは、夢なのだろうか。おどろおどろしい、どことなく不吉な目の前の映像にただ困惑している時だった。
『……さん……っ』
頭の中に、声が響く。そして、その声は次第にハッキリしたものになっていった。
「準一さん!」
「……っ!」
鼓膜を突き破るくらいの大きな声にビックリして目を開けば、そこには奈都がいた。
不安そうだった奈都の表情は、俺と目が合えば僅かに和らいで。
「……良かった、準一さん、大丈夫ですか?」
「……な、つ?」
なんで、ここに。
そう辺りを見渡せば、そこに先ほどまでの荒野はない。
勿論、仲吉の姿もだ。
「俺は……」
「藤也君に聞いて、準一さんを探しに来たんです。……そうしたら、ここで倒れてたから」
「…………」
倒れていた、ということは俺の意識はここにあったということだ。
だというと、なんだったんだ、いまのは。
本当に夢だったのか?
でも、思念体になったいま夢は見ないはずだ。
いくら考えたところで先程身体に纏わり付いてきた生暖かな風の感触は確かに今でも残っている。
なんだか酷く薄気味悪くなって、不意に腹部に手を伸ばす。そこに幸喜に突き破られた穴も、傷もなかった。
「……準一さん?」
「そうだ、義人は。あいつはどうした?」
「ヨシト?」
「あの、カエルだよ。ちゃんとあいつのところに行ったのか?」
どこまでが夢なのか、最早俺にも判断つかない。
けれど、あいつらのことは夢ではないはずだ。
思い切って尋ねれば、奈都は思い出したように頷いた。
「ああ、カエルでしたらなにか藤也君が捕まえていたみたいです」
「……」
ということは、無事だったようだ。
一か八かだった。もし、落ちた時点でダメージを受ければ、と心配していただけに安堵する。
「準一さん?」
「いや……良かった」
本当に、良かった。けれど、これで全てが落ち着いたということではないのだろう。
「あっ、あの、準一さん……どこへ……」
「藤也は……あいつはどこにいる?」
「藤也君なら、外に出ていきましたけど」
「外?!」
予想してなかったその奈都の返答につい声をあげてしまう。
藤也はまだ本調子ではないはずだ。
どういうつもりなんだ、あいつ。
「あ……はい、こんな天気だから一応止めたんですけどいつの間にかにいなくなっていて……」
そんな俺同様、戸惑いを露わにする奈都。
その言葉に釣られて通路側、取り付けられた窓の外へ目を向ければ真っ黒の空が目に付いた。
そしてすぐ、建物へと叩き付ける激しい雨音に気付く。
時折聞こえてくる雷鳴。
「……」
あんな弱っていたくせに、と小さく舌打ちが出てしまう。
「準一さん、」
「ありがとな、奈都」
「あ……いえ、ってあの、準一さんっ!」
奈都と別れた俺は、土砂降り注ぐ外へと向かった。
◆ ◆ ◆
藤也から話を聞かなければならない。けれど、それよりも、藤也の状態が心配だった。
大分気力を取り戻した今ならさっきよりも力を分けることも出来る。
タライをひっくり返したように降り注いでくる雨の中、森の中、藤也を探す。
雨のせいで見通しが悪い。それでも、藤也の姿を見付けることは出来た。
「藤也っ!」
屋敷から離れた場所にある墓場の前。
生い茂った大木の下、雨宿りをしていたのだろうか。ぼんやりと佇む藤也はゆっくりと俺を振り返る。
「……なんで来たの?」
「義人のことが、気になったから」
本当は色々言いたいことがあったが、今は、それが一番だった。
そんな俺の声に反応するかのように、藤也の手から顔を出した義人はそのまま藤也の肩へと飛び乗る。
心なしか、先程よりも生き生きしているように見えた。
「お前、ちゃんと藤也んとこ行けたんだな」
「……」
やはりカエルの死骸だと思うと受け付けられないものがあるが、それでもちゃんと意思を持って動いていると思うと愛着が……沸かない。けれど、元気そうでよかった。
義人の無事を確認し、俺は押し黙る藤也に目を向けた。
義人のこともあったが、それだけでこんな雨の中を駆け回っていたわけではない。
「……藤也」
ゆっくりと、その名前を呼ぶ。藤也は俺と目を回さない。
何も、答えない。
「藤也、お前は……お前らはなんなんだよ」
「……」
「どうしてあいつは、義人に拘るんだよ」
どうして義人はあいつに狙われるんだよ。
三人の事情と言われればそこまでだが、やはり、腑に落ちなかった。
「…………」
「藤也……」
「義人は……俺と幸喜の親だ」
ゆっくりと重い口を開いた藤也。
「それは」さっきも聞いた、それで理解が出来なかった。
口籠る俺に構わず、藤也は目を伏せる。
「義人は、俺達を作った。自分を削って……盾にするために」
その口から紡がれる言葉は、俄信じ難いものだった。
義人の中に生まれた防衛本能と攻撃本能。それぞれの人格は義人の身体が息絶えたその時から一つの意思として活動するようになった。
それが、藤也と幸喜だと言う。
「義人を守るのが俺の存在理由だから」
「なら、なんであいつは」
主人格である義人を消そうとするのか。
幸喜も藤也も元は一人の人間だったなんて、簡単に納得出来るような話ではないが、もしそうだとすれば幸喜の言動に矛盾を感じずに入られなかった。
幸喜は、仮にも外的攻撃に対抗するための人格だというのに、何故その矛先が自分に向かっているのか。
「自己確立」
藤也の口から出たその言葉に、目を見張る。
「そのためには完全に切り離さなければならない」
「だからあいつは義人を消そうとしてる」まるで他人ごとのような口振りだった。
叩き付けるような雨音が、先程よりも激しさが増す。
「……義人が消えたら本当に確立するのか?」
ざわつく胸の奥、嫌なものを感じながらもそう恐る恐る尋ねた時だった。
「それは無理ですね」
「っ!」
「藤也も幸喜も正反対とは言え彼の一部なわけですから本体である義人さんが消えればあとは自然消滅を待つしかありません」
「義人さんを消したら一つの人格として生きていけると思っている時点で依存具合は明らかですしね」そう、音もなく現れた花鶏は淡々と続ける。
その断言的な物言いにも気になったが、それ以上にいきなり現れた花鶏に戸惑いを隠せない。
それは、藤也も同じのようだ。
「アンタが……吹き込んだんだろ、義人のこと、あいつに」
ただ真っ直ぐ花鶏を見据える藤也は静かに続ける。
その言葉に、ハッとする。
そうだ、それだ。今まで感じていた違和感は。あそこに子供の部屋がある時点でおかしかったのだ。
この屋敷の主である花鶏が知らないはずがないのだから。
「何を仰るんですか、吹き込むだなんて人聞きの悪い」
「ならどうして義人のことを隠していたんだ」
「隠していたわけではありません。弱っていた彼を匿っていただけですよ。それまで、あなた方が一つの人格として動けるように育ててあげたのですからいいじゃありませんか、丁度」
その口振りからして、藤也と幸喜が何者かも知っているのは確実だろう。
それでも、妙に含みのある言い方をする花鶏に「育てる?」と眉を潜めれば、花鶏は柔らかく微笑んだ。
「そうですね、他人の生気で永らえることが出来るように一から教えて差し上げました。子供だった彼らに」
「共食いなんかせずとも自己確立は可能です。持て余した生きた方々から奪えばよいのですから」薄い唇から吐き出されるその言葉に、一瞬耳を疑った。
「な……っ何言ってるんだ、あんた……っ」
「何、少しだけですよ。別に死には至りません。それに無尽蔵のほんの少し、それを頂いたところで彼らには然程支障はないでしょう」
花鶏の言葉が理解出来なかったわけではない。言いたいことは分かる。先程藤也が俺にしたように、奪う。それだけのことだろうが、しかし奪われた方はどうなる。
そう考えると、それを容易く要求する花鶏の神経を疑わずにはいられなかった。
「準一さん、貴方も用心深い方ですね」
「用心とか、そういう問題じゃないだろ……っそんなことされたら、誰だって無事で済むわけ……っ」
「心配はご無用です」
「どうしてそう言い切れるんだよ」
睨むように花鶏に目を向ければ、やつはそれを笑って受け流す。
そして、
「現に、仲吉さんも元気だったじゃないですか」
「……ッは……?」
その言葉を理解するのに数秒、花鶏に掴みかかるのに然程時間は掛からなかった。
着物の襟を掴もうとするが、手応えはするりと掌を抜ける。
目の前にいたはずの花鶏は俺と一定の距離を開け、変わらずの涼しげな笑みを浮かべたまま佇んでいて。
「てめぇ、あいつに何をしたッ」
「私は何もしてませんよ」
私はね、と花鶏は藤也に目を向ける。
藤也は何も言わずに、俺に背中を向けたままで。否定も肯定もせずじっと全てを聞き流す藤也に、息が詰まりそうになった。
「……」
「……藤也、お前……ッ」
「準一さん、藤也達はこうすることでしか生きていくことが出来ないんですよ。貴方とは違って、無機物なのですから」
無機物、という言葉に頭を殴られるようなショックを受ける。
俺とは違う。守るために作られた人格。
不安そうな目でこちらを見上げてくる義人に、胸の奥がキリキリと痛み始める。
無機物なわけがない、作られたとは言え自意識を持った人間だ。少なくとも、俺にとって藤也は藤也であり、それの代用は利かないはずだ。
言い返したかった、けれど、だからといって自我を保つために他人から奪うということを、認めたくなかった。
俺はいい。けれど、あいつに手を出したことは許せなくて。
「……そう、だったな……っあんたらはそういう連中だったな……ッ!」
「……」
「……クソ……ッ」
具合が悪そうにしていた仲吉を見ていたはずなのに、気付かなかった。
一番、自分に腹が立った。
藤也にも消えてほしくない、けれど誰にでも手を出してほしくない。
そう思うのは我儘なのだろう。
居ても立ってもいられなくて、混乱する頭の中、俺は突き付けられた藤也たちの事情を前に、その場を立ち去った。
土砂降りの中。頭から降り注ぐ雨をかぶりながら俺は藤也のことを思い出した。
あいつは、最後の最後まで否定も肯定もしなかった。
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