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全てを失った日
何故、帽子屋の屋敷はあんな廃墟のようなことになっているのか。
三日月ウサギと眠りネズミは何者なのか。
まだまだ聞きたいことはあったが、「少し休んだ方がいい」という帽子屋とエースに促され、僕は帽子屋の用意してくれた部屋に通された。
地上の屋敷とは違い、地下通路を抜けた先にある部屋はどれも片付けられていた。
多少家具やインテリアの主張が激しすぎるというのが気になったが、表の屋敷に比べればかなりましだろう。
部屋には寝具に鏡台、一人用のテーブルと椅子が置かれている。
寝具の上には着替えも用意してくれたらしい。
幾分大きいが、小さいよりはましだ。
エースから借りっぱなしだった上着を脱ぎ、それに着替えることにした。
エースは隣の部屋にいるという。
他の者と別れを告げ、僕は寝具で一眠りすることにした。
どれほど経ったのだろうか。
窓も時計もない部屋の中、寝具に横になった途端泥のように眠りに落ちていた。
そして目を覚ませばそこが見慣れない部屋の中だということに気付き、絶望する。
そうだ、あれは……悪い夢ではなかったのだ。
全て現実で起きたことだ。
体の痛みは悪化してるような気がしてならない。
無理に昨日森を抜けたせいかもしれない、体の節々が熱を持ったように熱い。
けれど、ずっと寝てるわけには行かない。
それに、外の様子も気になる。
体を引き摺り起こして身支度を整え、部屋を出た。
「王子、体の加減は如何ですか」
扉を開けたすぐ側、そこにはエースがいた。
もしかして一睡もしていないのだろうか、疲れを感じさせないようにはしてるようだが、目の周りが窪んでるのを見過ごさなかった。
「僕は大丈夫だ。それよりもエース、お前……まさかずっとここにいたのか」
「この非常時、何があるやも知れません。何時もすぐに対処できるように備えておく必要があるかと」
「だからといって肝心なときに体を壊されては困る。いい、寝ろ。お前も休め」
「ですが」
「ですがもあるか、僕の命令が聞けないのか?」
「う……わ、わかりました……」
ようやく折れたらしい。
エースはすごすごと自室に戻ろうとして、そしてこちらを振り返る。
「何かあればすぐに声を上げてください、向かいます」
「わかった、わかったから早く休め」
「それと、帽子屋殿は恐らく先程の客室にいるはずです。帽子屋殿はともかく、あの例の二人はまだ素性がわからない。……なるべく、二人きりにならないように」
「……ああ」
「それから……」
「わかったと言ってる、僕はもう子供ではないんだぞ。いい加減に子供扱いはよせ」
「わ、わかりだした……」
今度こそエースは部屋に引っ込んだ。
それからまた顔を出しては「離れていても声が聞こえるように念の為扉は開けておきますね」とか言い出したがもう何をいう気にもなれなかった。
僕はエースの部屋の前を後にし、帽子屋の姿を探す。
あの男には聞きたいことはたくさんあった。
そしてエースの言うとおり、客室の方から芳しい紅茶の薫りが漂ってくる。
ふらふらと客室を覗けば、ここにはあの三人がテーブルを囲んでケーキを食べているではないか。
美味しそうなクリームといちごのショートケーキに、空腹であることも忘れていた腹の虫が悲鳴を上げる。
思いの外大きな腹音に顔が熱くなる。
しまった、と慌てて隠れようとしたが帽子屋と目があった。
「やあ、王子。お目覚めかい。ちょうどいい、焼き立てのケーキがある。君もこちらにおいで、一緒に食べよう」
「……あ、あぁ……邪魔する」
ずっとエースが隣にいてくれたからか、エースがいないと途端に心細くなる。
ほぼ初対面である人間と話すのは苦手だった。
というよりも、何をどう話せばいいのかわからなくなるのだ。
周りに理解者と身内ばかりしかいなかったことによる弊害だろう。
三日月ウサギと眠りネズミの視線が突き刺さる中、僕は帽子屋の用意してくれた椅子に腰を下ろした。
「王子様も腹減るんだな。あ、元王子様だっけ? こんなひもじい生活したの生まれて初めてなんじゃないか?」
「……当たり前だ、母はいつだって僕が空腹にならないようにお菓子やケーキを用意してくれたからな」
「ふーん……なんか、帽子屋さんみたいだねぇ。あんなに怖そうなのにちょっと意外だ」
女王――母の話題が出ることは覚悟していた。
けれど、こうやって母との思い出を思い返してみると酷く胸が痛くなって、ツンと目頭が熱くなる。
じわりと歪む視界に、ぎょっとした三月ウサギの顔が写った。
「げ、おいおい、泣くな泣くな! 俺たちが俺たちが泣かせたなんて思われたらあの軍人が殺しにかかってくるだろ!」
「な、泣いてなど……」
「あーあ、ミカちゃん泣かした~」
「俺かよっ!」
青褪める三日月ウサギは、「ほら、甘いもん食って泣きやめ!」と山盛りのクッキーから一枚摘んだそれを僕の口に押し込んできた。
やめろ! と振り払うことを忘れ、つい一齧りしてしまい、はっとする。
「お、美味しい……」
「だろ?取り敢えずなんか腹に詰め込めよ、じゃねえと頭に栄養回んなくて余計不安になるだろ」
ニッと歯を剥き出しにして笑う三日月ウサギ。
僕は思わずそのままポリポリとクッキーを咀嚼した。
正直、驚いた。
もっと嫌なやつだと思っていただけに、粗暴ではあるが悪いやつではないのかもしれない。
そんな風に感じた自分にも、驚いた。
「彼の言う通りですよ、幸いここには飲み物もデザートもある。好きなだけ食べるといい、無論、口に合わなければと別のものも用意してある」
「……」
「長い間眠っていたようだ、喉も乾いているだろう。まずはこれでも飲むといい。気休めくらいにはなるだろう」
そう、目の前にそっと置かれるティーカップの中には真っ赤な液体が注がれていた。
広がる芳しいその匂いは。
「ローズヒップティーだ。君には刺激が強すぎるかもしれないからはちみつを調合させてもらったよ」
「あり……がとう……」
帽子屋はシルクハットを深くかぶり、そして口元だけで笑んで見せた。
母が大好きだったローズヒップティー。
小さい頃少しだけもらったとき、あまりの酸味に堪らず噎せたときのことを思い出す。
けれど帽子屋の注いだローズヒップティーは甘すぎず酸味も程よく抑えられ、よく口に馴染んだ。
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