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03

 エースはすぐに浴室から出てきた。  余程外のことが気になるらしい。もっとゆっくりしてくるといいと言える状況でもない。  いつでも動けるように、動きやすい服に着替えてはしっかりと帯剣するエースを見ていた。  そのとき、部屋の中に時計の鐘が響く。  神経が過敏になっていたようだ、その音に反応したと同時に上の階から物音が聞こえてきた。  ――扉が開く音だ。 「店じまいの時間です。……恐らくビルでしょう」  身構える僕に、エースはそう静かに告げた。  エースの言葉は間違っていなかった。  扉が開き、姿を現したのは店内でカウンターに立っていた胡乱な男だ。  言動は変人だが身なりだけは整えている帽子屋とは対照的に、どこかだらしない印象を覚える男だった。エースが「ビル」とその男の名前を呼べば、扉を施錠した男はなにかを答えるわけでもなくそのままソファーへと腰を掛けた。  そして僕をちらりと一瞥だけし、そして興味なさそうに視線を外した男――ビルは咥えた煙草に火を付けるのだ。  僕に挨拶すらしないビルに、恩人とは言えどエースは難色を示す。 「ビル……貴方は……」 「そこのお坊ちゃんのことはお前からもよく聞いてる。……あんたも聞いてんだろ、王子様」  掠れたような低い声。深く煙を吸ったビルはそう投げやりな視線を向けてくる。  見た目通りの、無作法でだらしない男だ。  それでも、今はそれくらいの距離感の方が有り難いとすら思えるのだからおかしな話だ。 「ああ」と頷き返せば、エースが何か言いたげな目でこちらを見てくる。 「……けど、今の僕は王子ではない。……ロゼッタだ。エースたちが世話になった」 「そういう堅苦しいのは結構。それに、丁度人手不足だったんだ」 「……人手?」 「ここに置かせてもらう代わりに店の雑務等を手伝わせていただいてました」  ああ、そういうことか。  エースならまだしも、三日月ウサギが使い物になったかどうかが怪しいが、ビルの反応からして悪印象は感じられない。 「……帽子屋からアンタを頼るようにと言われたが、これ以上は迷惑を掛けられない。風呂と服は助かった。追手が来る前にここからは立ち去らせてもらう」  それは湯に浸かってる間にも考えていたことだった。  アリスならばこの国の家一軒一軒を虱潰しに探し出してもおかしくない。このまま長期滞在することは不可能だろう。 「王子……」 「ああそうだな。さっき外を覗いたらもう街中軍人さん方が大勢散歩しやがっていた」 「……ッ」 「あんたらはこの先の宛はあんのか?」  短くなった煙草をテーブルで揉み消し、そして新しく二本目の煙草を咥えるビル。  その問い掛けに、思わず言葉に詰まった。  ……やることは決まっていたはずだ。けれど、あまりにも分が悪い。 「……それは」 「今は落ち着くまでここにいた方がまだ安全だ。この地下のことは俺と、お前たちと帽子屋と……あと一匹しか知らない」 「明日の朝には森林まで捜査網を広げるだろう。そうすれば軍人も手薄になり、動けやすくなるはずだ」淡々としたビルの言葉に、喉元に突っかかった小骨が外れたような気持ちになる。  同時に、ビルの方からこうして提案してくれることで荷が降りたような気持ちになる自分を恥じた。 「今晩はここにいろ。日が登ってから出ていくなり残るなり好きにすりゃあいい」 「……あんたは、なんでここまでしてくれるんだ。もし僕たちを匿ってると知られたら、あんただって死刑では済まないかもしれない」 「それがどうした?」 「――……え」 「俺は別にどうなっても構わん。……それに、帽子屋には借りがあるからな」  あの変わり者の帽子屋の知人というのだから覚悟をしていたが、この男も相当な変わり者だ。  ――だからこそ、今はただその言葉に救われる。 「……ありがとう」 「いいっていいって、それにビルとの二人暮らしも飽きてきた頃だったしねえ」  それは突然のことだった。  まるで当たり前のように隣に座っていた青年がへらりと微笑むのだ。  音も立てずに現れた第三者の存在にエースも気付いていなかったようだ。  思わず立ち上がりそうになったとき、ビルは「ディム」と疎ましそうに呟いた。 「でぃ、ディム……?」 「ハーイ、楽しんでる? 皆浮かない顔しちゃってさ、せっかく出会ったんだ。記念にお茶でもしない? あ、ビルドリンクよろしくね~」 「……そいつのことは無視していいぞ」 「俺はディムだよ~。よろしくね」  言いながら、呆気に取られる僕の手を勝手に握って握手する胡散臭い男――ディムに辛うじて「ああ」と答えることが精一杯だった。  そして思い出した。この男、店のバーで呑んでいた男だ。  いや待て、そもそもディムという名前に聞き覚えがある。 「……ディムって、帽子屋のところにいた芋虫か……?」 「え、うそ。あいつまだあの芋虫大事にしてんの? ここまできたら健気すぎて泣けてくるね」 「ディム……お前はまた」 「あれは俺がハッターにプレゼントした俺の分身ちゃんだよ。本物はこっち。あ、ハッターには俺がここで生きてるって秘密だよ」  なんて、いたずらっ子のように微笑む目の前の男に僕はただ言葉を失っていた。  帽子屋ともビルともまた違う変人だ。  ……どうも、こうも軽い相手は苦手だ。

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