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世界が歪んだ日

 悪夢だったら、夢だったら。何度も思ってきた。  いつものように幕が落ち、そして今までと変わらない日常が戻ってくる。そう思っていた。  ――だから、今回も。  いつ気を失ったのか覚えていない。  目を覚ませば僕は自室のベッドの上にいた。硬い板の様なマットではない、ふかふかの体が沈むマットだ。  意識と体が噛み合わないような、まだ夢を見ているようなこの感覚には覚えがあった。  いつかの夜、アリスに毒を盛り――失敗したあの夜。自害し、目を覚ましたときと同じ感覚だ。  首の怪我はない。体の痛みも、ない。気怠さもなく、まるで自分が自分ではないような異物感だけが常に纏わりついてきていた。  三日月ウサギとサイスのお陰で酷い有様だった自室も破損も損傷も見当たらない。――もしも、もしも僕が思い描いていた通りならば。いや違う、そうでなければならない。誰もいない部屋を出ようとしたとき、部屋の前にはよく知った人物が立っていた。 「っ、白ウサギ……」 「おはようございます。……随分と顔色が悪いようですが体調が優れないのですか?」  のんきに挨拶をしてくる白ウサギ。思わずその肩を掴み、僕は「エースは」と声を上げた。 「っ、エースは……どこだ」  今はただ、知りたかった。あいつが無事かどうかだけ、それ以外はどうでもよかった。食い掛かる僕に白ウサギは「落ち着いてください」と慌てて僕の手をそっと取る。 「あの、その方はお客人でしょうか……?」  ――は?  思わず素っ頓狂な声を上げてしまいそうになった。冗談のつもりなのか、だとしたらあまりにも悪趣味で詰まらない冗談だ。不快感を通り越し、怒りすらも込み上げてくる。  僕が幼い頃からこの城に専属医師として仕えていた白ウサギがエースのことを知らないはずがない。そもそも、二人が面識あることは知っていた。  なのに。 「……お力になれず申し訳ございません」 「………………」  僕は白ウサギから離れる。あまりの虚脱感に手足が冷たくなっていくのを感じた。  それでも、確かめなければならないことが他にもある。 「じゃあ、アリスは……あいつはどうなった?」  そう声が震えそうになるのを堪え、尋ねれば白ウサギは小首を傾げた。 「そのような御方、私は存じ上げませんね」  僕は白ウサギの前から駆け出した。誰でも良かった、手当たり次第出会った使用人たちにエースとアリスのことを尋ねた。けれど、誰一人二人のことを知る者は現れなかった。それどころか僕が指名手配されていたことも、脱走したこともなにも咎められることはなかった。  異様。なにもかもがあべこべになった世界。使用人の一人が僕を見て口にしたのだ。――クイーンと。 「クイーン、そういえば先程キングがお探しでしたよ」 「っ、……今、僕のことをクイーンと呼んだか?」  思わず目の前の使用人に掴みかかれば、やつは狼狽え、そして戸惑いながらもはい、と頷くのだ。  僕をクイーンにしたのはアリス、あの男の仕業だだった。アリスがいないのに、何故僕がクイーンと呼ばれているのか。  そもそも、キングというのは――……。  考えれば考えるほど自分が存在してるこの世界自体が夢なのではないかと思えた。 「夢じゃないよ、クイーン」 「……ッ!!」  背筋が凍りつく。キングが待っているというバルコニーへと向かう途中、本館と別館を繋ぐ渡り廊下。そこには存在すべきではない存在がいた。  ちりんと鈴が鳴る。顔を上げれば、壁を背にして座り込んでいたその男は僕を口を大きく歪めて笑った。紫色の髪に、猫のような大きな目。  ――チェシャ猫。 「夢みたいだけど、夢じゃない。ここも君の現実なんだ、クイーン」 「……ッ、貴様……エースはどこだ!!」  掴み掛かろうとすれば、チェシャ猫は軽々とそれを避ける。そしてそのまま詰め寄ってくるのだ。  またちりんと鈴の音が響いた。 「エース……トランプの彼がどうなったか、君は特等席で見たじゃないか。僕は私用があってね、残念ながら結末しかしらない」  これも、僕が見ている幻覚なのか。チェシャ猫の言葉の意味を理解したくなかった、けれど、やつが言わんとしてることは理解できてしまうのだ。  ――エースの首が転がり、辺り一面が赤く染まった。喧騒。そして歓声。動かなくなったエース。  そして、僕を庇ったアリス。  今でもまだ瞼の裏にこびりついている。あの地の匂いも、生暖かな熱も、なにもかも体に残っていた。吐き気がこみ上げそうになるのを堪えた。惑わされるな。  まだ僕は信じていない。――この猫の言葉を鵜呑みにするな。僕は。そうしなければ。 「……ッ」 「良い顔をするようになったじゃないか、それでこそこの国のクイーン、僕らのアリスが選んだクイーンだ」 「……ッ、アリスはどこにいる」 「ああ、アリス。おいたわしや、僕らのアリス。あの子は君のせいで苦しんでる。……そのおかげで、このザマだ」  瞬きをした次の瞬間、目の前のチェシャ猫の姿が消えた。その代わりに、足元には毛の長い紫色の猫がいた。首には黒革の首輪と小さな鈴がぶら下がっており、目を見開く僕を見てやつはにゃあと嘲笑うのだ。 「でも仕方ない、神も間違えて世界を作ったんだ。誰だって間違いくらいはするさ」 「僕の質問に答えろ」 「……彼は頑張ってる。頑張って世界を修正しようとしてる……けど、限界がきたらしい。君が目覚めてしまった、彼が意識を失ってしまった」 「ここは、僕らのアリスの失敗作の世界だよ」とチェシャ猫は嘲笑う。鋭い無数の歯を覗かせ、しっぽを撓らせて僕を嘲笑うのだ。 「なにもかもがあべこべ、継ぎ接ぎだらけの作りかけの世界。……アリスにも休みを与えなきゃいけない、少しの間旅行も悪くないんじゃないかな?」  頭一つ分高い柵の上へと軽々と飛び乗ったチェシャ猫はそのままその手足を折り込むように丸くなる。この異質さに気付いているのは恐らく、僕とこの猫だけなのだ。 「お前は……何者なんだ」 「僕はチェシャ猫。今はしがない飼い猫だ、こうやって君を癒やすことしかできない」 「目的はなんだ」 「君はなんて答えてほしいんだ?僕の言葉なんてどうせ信じられないんだ、好きなように想像してみたらいい」 「おい……――」  ふざけるな、と手を伸ばしたとき、むくりと立ち上がったチェシャ猫はそのまま僕の指先をかいくぐりそのまま歩き出す。 「この世界のキングが待っている。――君にはまだやらなければならないことがあるだろう、役者はそれを全うするんだ。アリスもそれを願っている」  一言一言、全てが癪に障る。のらりくらりと避けられる。チェシャ猫の言っていた通りだ、僕はこの猫の言葉を信じるつもりは鼻からなかった。  ――けど、本当にこの世界のどこにもアリスがいないのなら。まだここが未完成だというのなら。  まだ可能性はある。アリスの秘密を暴くことができれば、エースもまた戻ってくる可能性もあるのだ。自分の目で確かめるまで、諦めるつもりはなかった。  まだ夢は覚めていない。

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