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 自分の父親と夫婦になる――そんなこと有り得ない。あるはずない。目の前の男の言っている意味が分からなかった。  けれど周囲の様子や、父が母のことを覚えていないのは明らかに異質だ。現に何度も理解不能な出来事が立て続けに起きている。 「試してみるといい。……とはいえ、キスの意味が変わるくらいだろうが」  軽薄な声に、思わず頭に血が昇る。その胸倉を掴もうとするが、「おっと」とチェシャ猫は一歩下がって避けるのだ。そして変わらないニヤニヤ顔で僕を見ていた。  不愉快だった。この状況もだが、この男の存在そのものが。 「……アリスのやつがそれを良しとしてるのか」 「言ってるだろう、この世界は僕らのアリスにとって予期せぬものだった。勿論、ここにアリスがいたらすぐに書き替えている頃だろう」 「あいつはどこにいる」 「少なくともこの世界にはいないよ、僕と君の二人だけだ」 「お前はアリスの味方じゃないのか、どうしてあいつの意思に反することをしてる」 「質問責めは退屈だ。その足はなんのために付いてるのかな。自分で確かめてみたらいい……といいたいところだけど、僕がアリスの味方?」  きょとんとし、それからチェシャ猫は喉を鳴らすように笑った。思わず吹き出してしまったような、そんな笑い方だ。 「……っ、何がおかしい」 「いやはや失礼、なるほど。クイーンの目には僕たちはそう映って見えるのか」  まどろっこしい喋り方に腹立った。それでも、チェシャ猫はこの状況を楽しんでるようだ。 「僕はただ、この世界に飽きていただけさ。けど安心して。アリスのことは少し困ったところもあるけど好きだよ」 「伯爵婦人が作るフィッシュパイの次にね」そう小さく付け足し、チェシャ猫は笑った。  煙に巻くような言葉だ。本当のことは話すつもりはないということか、それとも本当に何も考えていないのか。なにもかもが読めない、掴めない。  分かることは、今この状況でチェシャ猫ははっきりとした敵意を見せてこない。  けれど、言われてみればこの男の言動行動がアリスのためではない。  思い出したくもないが、この男は僕がジャックに抱かれたのを知ってるはずだ。見ていたのだから。アリスが知れば、ジャックを許さないだろう。それでも、チェシャ猫はジャックと僕のことをアリスにも言っていない。  アリスに対する忠誠心やそういったものをこの男からは感じないのだ。 「ああ、クイーン。こんなところにいらっしゃったのですね」  そんなときだった。目の前のチェシャ猫の表情から一瞬笑みが消えた。そして、その目は僕の背後へと向けられる。  つられて顔を上げれば通路の奥、そこには白衣に白髪の男がいた。――白ウサギだ。 「良かった、部屋に誰もいなかったので探しましたよ。……と、チェシャ猫、貴方こんなところで何をしてるんですか? 城下町で公爵が貴方のことを探してましたよ」 「おや、お医者様じゃないか。……他人の家庭に口を出すのは野暮だと思わないかい? それに、旦那はただでさえ全部人任せにしてるんだ。運動させた方がいい、もう少し探させよう」  白ウサギがチェシャ猫と面識あったことにも驚いたが、公爵という言葉に引っ掛かった。  公爵のことは知っている。無愛想で威圧的、なにかと母に突っ掛かるような男だった。  ――けれど、あの男は僕が物心付いたときには処刑されていたはずだ。  そもそもあの男がこんな猫を飼っていたことも知らなかったが、そもそも何故あの男が生きてることになってるのか――ここがアリスが間違えて作ってしまった世界だとしてもだ、何故公爵が生き返ってるのかが理解できなかった。  あの男が処刑されたのはアリスがやってくるよりも昔だ。アリスが公爵を知ってるとは思わないが、そもそもそれもあべこべの世界だからと言われれば納得せざるを得ないのだけれども。  芽吹いた違和感は確かに僕の中で育っていっていた。

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