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05
――ハート城、自室。
白ウサギは昔からの馴染みでもある。それはこの世界でも変わらないようだ。
使用人たちに事情を説明し、ティーセットを用意してもらった白ウサギは僕に紅茶を用意してくれた。
束の間だが、今この世界に放り出された僕にとってこの時間は憩いのものだった。
「……そういえば、悪夢というのはどういうものだったんだ?」
カップをソーサーへと静かに置き、白ウサギに単刀直入に尋ねる。
『僕』になる以前の記憶がなにかしらの手掛かりに繫がるかもしれない。根拠はない、推測だ。
向かい側のチェアに腰を降ろした白ウサギは困惑したように視線を泳がせる。
「忘れられたのならそのままがよろしいかと」
「……余計な気遣いはいらない。言え」
「ですが……」
まだなにかを隠そうとしている。それが僕のためだとしても、僕からしてみたら不要なものだった。寧ろ、今ほしいのは一つでも多くの情報だ。
「……あのとき、たまたま部屋を覗けば貴方は魘されていたご様子でした。僭越ながら貴方を起こさせていただいたのですが、そのときクイーンは『またあの男に殺される』と……」
「……どうやら、貴方はここ最近何者かによって殺害される夢を見ていたようです。……記憶が混濁して忘れられてしまったんでしょうが、その方が賢明かと」そう静かに続ける白ウサギ。
――あの男。白ウサギは確かにそう言った。
僕の脳裏に浮かんだのは金髪碧眼のあの男だ。だが、僕は“まだ”アリスには殺されたことはないはずだ。
「……その男というのは何か言っていたか?」
「いえ、それ以上到底聞ける雰囲気ではございませんでしたので……」
「そうか。……教えてくれてありがとう」
「あの、これを聞いて貴方はどうするつもりなんですか?」
白ウサギの疑問も当然だ。連日悪夢を見ていて魘されていた人間が今度は悪夢の内容を率先して聞き出そうとしてくる。理由がないわけがない。
けれど、正直に今僕が置かれた訳のわからない状況のことを白ウサギに説明したところで余計混乱させるだけだ。
「……いい加減、その悪夢を克服しようと思ってたな」
そうティーカップに口をつける。中のアップルティーはすっかり冷めきっていた。
「クイーン、貴方は……」
「あと、そのクイーンって呼び方……やめてもらえないか」
「え?」
僕はクイーンではない、なんて言えば今度こそ病人扱いされ兼ねない。なるべく言葉を選び、白ウサギに不信感を抱かせないように慎重になる。
「……二人きりのときくらいは名前でいい。お前にクイーンと呼ばれる度に違和感がある」
「ですが……」
「白ウサギ」
「……畏まりました、ロゼッタ様」
そう、言葉を一つ一つなぞるように大事に口にする白ウサギ。その頬が僅かに赤くなっている。
確かに違和感がないわけではない、幼い頃から王子と僕を呼んできた白ウサギだ。それでも、嫌なものはなかった。
お茶会を終え、ダムに片付けを頼む。
白ウサギも次の検診が入っているようだ。街へと戻るという白ウサギを見送るため、僕は城の前までやってきていた。
「……あの、本当に私の見送りよりもお体を大事にされてくださいね」
「大丈夫だと言ってるだろ。ほら、こんなにピンピンしてるぞ」
そうその場で動いてみるが……思ったよりも身体がついてこなかった。どうやら鈍ってるようだ。はあはあと息切れする僕に、白ウサギは「ああ……っ」と心配そうに駆け寄ってくる。
「誰か兵を呼んできましょう」
「いい、いらない。それよりも仕事があるんだろう、僕のことはいいからさっさと行け」
しっしと白ウサギを追い払えば、白ウサギはしゅんとでかい背を丸める。そして、なんだか妙に生暖かな目でこちらを見るのだ。
「……なんだかお優しくなられましたね、ロゼッタ様」
「……僕がか?」
「あっ、いえ、以前がお優しくないというわけではなく……雰囲気がこう柔らかくなられたというか……」
「……お前にはいつもよくしてもらってるからな、少しは恩返しをしてやろうと思っただけだ」
嘘、ではない。あの世界で白ウサギと離れ離れになってから白ウサギの存在の大きさにも気付いた。白ウサギだけではない、他の使用人たちや兵もだ。……もう二度と会えないと思っていた人間たちがこの世界では当たり前のように存在してる。
まやかしだとわかってても、それでも別れの挨拶すらもできなかったことが僕に大きな変化を齎したのかもしれない。
「……そうですか。その気持ちだけで私は十分ですが……ありがとうございます、ロゼッタ様」
それでは失礼します、と白ウサギが頭を下げたときだった。
白ウサギが向かおうとしていた城壁、その門前。何やら見張りの兵たちが揉めているようだ。
「おや、あれは……」
そう白ウサギが呟く。何事かと騒ぎのする方へと向かえばそこには兵と、兵たちよりも頭一つ分高いシルエットが見えた。
シルクハットに派手なタキシード。
何故、あの男がここに。そう喉元まで出かかったときだった。その男――帽子屋はこちらに気付いたようだ。離れたところから騒ぎを見ていた僕達に満面の笑みを浮かべる。
「やあ親愛なるクイーン! 丁度良かった、君からもこの頭でっかちな彼に伝えてくれないか? 僕と君は友人だってね」
複数の兵たちに羽交い締めにされても尚、以前と変わらない様子で振る舞う帽子屋に僕はただ呆れていた。
――いや、変わったのは僕とこの男の関係性なのかもしれない。でも、前の世界で会ったときもこの男はこうだったな。……もう、なにもかもが分からない。この男が僕には分からない。
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