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「クイーン、申し訳ございません! この男が言うことを聞かず……!」 「言うことを聞かないのは君たちだろう? ああ、ほらもうすぐ三時だ。早くしないと、せっかく用意した菓子が台無しだ」  言うなり、帽子屋は懐中時計を手にわざとらしく肩を竦める。そして白手袋越し、呆気に取られていた僕の手をそっと取るのだ。 「さあ行こうか、クイーン」 「貴様、クイーンに軽々しく……ッ!」  そう、あまりにも不躾な帽子屋に耐えきれずに衛兵がライフルを手に取ろうとするのを見て、「大丈夫だ」と制する。衛兵は戸惑ったような顔をしてこちらを見る。 「し……しかし……」 「僕が問題ないと言ってる。――彼を友人として招待したのは僕だ」  このままでは埒が明かない。帽子屋が厄介な男であることには変わりないが、悪人ではないということを今の僕は知っている。  咄嗟に庇えば、衛兵達は狼狽えた様子で一歩下がる。そして「失礼しました!」と敬礼をし、立ち去った。  残されたのは僕と帽子屋、そして傍の木陰でこちらを見ていたチェシャ猫だけだ。  帽子屋は衛兵が立ち去ったのを見てやれやれと肩を竦め、そしてタキシードの襟を引っ張って皺を伸ばす。 「相変わらず君のところの兵隊さんたちは優秀だね、クイーン」 「……お褒めに預かり光栄だ。それより、なんの用だ」  帽子屋の手を離し、僕は改めて目の前の男を見上げた。久し振りに会ったはずなのに、久し振りなような気がしない。  帽子屋は不思議そうにこちらを向く。 「おや? さっき君は確か僕を招待してくれたと言ってくれたじゃあないか」 「あれは……あの場はああいうしかなかったから言ったまでだ。それに、もう僕はお茶は済ませた」 「大丈夫だ、まだ間に合う。今度は僕と一緒に三時の茶会を行おうではないか」 「お前、人の話を聞いていたか?」 「君が喜ぶだろうと思って公爵も呼んである。君と彼は親しかっただろう?」  この男、と今更呆れはしないが頭が痛くなってくる。  というかこの男、今さらりと何かとんでもないこと言わなかったか。 「待て、今公爵と言ったのか?」 「ああ、そうだね。ああそういえばクイーン、君が好きだと言っていた茶葉を取り寄せたんだ。君の家の執事君に渡しておくよ」  コロコロと会話が一転二転する帽子屋だったが、思わずその茶葉に釣られてしまいそうになるが今はそんな場合ではない。 「僕は公爵とは親しくはない、そもそもまずは人の話を最後まで聞け……っ!」  そう帽子屋に詰め寄ったときだった。後方でザッ、と地面を踏む音が聞こえた。靴底を叩くような硬質で規則正しい足音は僕達のところまでやってきて、止まる。 「珍しく気が合うな、陛下」  聞こえてきたのは地を這うような低い声。振り返ろうとした瞬間、視界が黒い影に覆われる。  この声を酷く久し振りに聞いた気がする。  記憶の中と変わらない高圧的な声。そして。 「っ、デューク……」  一言で言い表すなら巨大な影だった。  伸びた背筋。きっちりとスーツを着込んだ身体は服の上からでも見て分かるほど鍛え上げられている。貴族として座職仕事を行うよりも、戦場で軍人として戦った方が似合う男だ。  そして、僕が幼い頃から恐ろしく思っていた男でもある。その男は確かに僕の目の前に存在している。記憶の中と変わらぬまま、僕を冷たい目で見下ろすのだ。 「やあデューク、丁度君の話をしていたんだ。これからクイーンとお茶会を開くことになったんだ、君も如何かい?」 「不要だ。それよりも我が家の馬鹿猫を見なかったか」 「猫? 僕は兎しか見ていないけど」  気が付けばチェシャ猫がいたはずの木陰はもぬけの殻になっていた。どうやら公爵の気配を嗅ぎ付けて逃げ出したようだ。あの男、と心の中で舌打ちをする。 「というより、デューク君って猫飼ってたっけ」 「妻が家を出ていく際に赤子の代わりにと私に残した猫だ。私の手に余る猫でな、今朝もコックに作らせた餌も食わずに逃げ出した」 「そりゃあ猫ちゃんも勿体ないことをしたな。ならば私が代わりに君の家の猫になってやっても構わないが」 「断る」 「……」  なんだ、この会話は。この空気は。  この世界が紛い物だと分かっていても、当たり前のように死者と会話が成り立ちそこにはいなかったはずの場所に自分がいるということに脳が理解を拒もうとしていた。 「陛下、今日は随分としおらしいな。今更貞淑な婦人を装うつもりか?」  不意にこちらを見下ろす公爵が近付いてくる。その圧だけについ後退りそうになるのを堪えた。 「てい、しゅく……?」  一瞬言葉の意味が分からず公爵を見上げれば、公爵の目が訝しげに細められる。無学だと思われたくなくて何か言い返す言葉を探すが、そのままぐっと顔を寄せられれば緊張の方が勝り、思考が停止する。 「な、……んだ……っ?」 「…………」  じぃっと真っ直ぐに目を覗き込まれ、目を反らしそうになるのを耐えた。公爵が視線を反らすよりも先に、「君君」と帽子屋が公爵をやんわりと僕から離す。 「……ハッター、今日の陛下は腹でも壊しているのか」 「ふむ、確かに今日はなんだかふわふわしているね、まあこういうクイーンも可愛らしいではないか。僕は普段の凛々しい君もいいと思うけどね」 「貴公の場合は融通が効きすぎるだけではないか」  頭上で交わされる会話に置いてけぼりになりつつも、そもそも何故公爵が僕の立ち振る舞いに違和感を覚えたのかが引っかかったが、この男に深入りすることに及び腰になってしまいとうとう尋ねることはできなかった。

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