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「まあいい。……うちの馬鹿猫を見掛けたら私に引き渡すよう他の者にも伝えておいてくれ、頼んだぞ」  言いたいことだけを言い、満足したのか公爵はその場を立ち去る。  暫く僕はその背中を呆然と眺めたまま、その場から動くことはできなかった。 「なんなんだ、あの男は……」 「珍しいこともあるもんだ。あのデューク君がああも大人しく立ち去るなんて。きっと今宵は嵐だろうね」 「……」  帽子屋の言葉にも一理あった。  幼い頃僕が見てきたデュークという男はもっと荒々しく、母と掴み合いになりそうなほどの剣幕で言い争っているイメージがあったからだ。  ……そもそも、この世界にいる時点で本物の公爵とは違う。  あまりにも見た目や声までもが似ていたせいでうっかり惑わされそうになる。  そんな僕の横、チェーンの付いた懐中時計を取り出した帽子屋は「おっと、時間だ」と大袈裟な声をあげる。 「このままではいけない。早く茶会の用意をしなければ。さあ参ろうか我がクイーン」 「いけないってなんだ……おっ、おい……帽子屋……!」  視界が揺れ、体が宙へと浮いたかと思えばすぐ目の前には帽子屋の腹立たしいまでに整った顔があった。 「こうした方が女王陛下のおみ足に負担がかからないし早い、一石二鳥だろう?」 「こ、この……ッ」  まるで女性を扱うように丁寧に、人の体を横抱きに抱えた帽子屋。  無礼者が、と言うよりも早く帽子屋は高らかに笑いながら庭園へと向かう。  揺れる視界の中、なんとか降ろさせようと帽子屋の胸を押し返すがこの男、びくともしない。  途中何事かと血相を変えた兵たちに追われる形になりながらも、帽子屋当初の予定である庭園へと辿り着く。 「……酷い仕打ちを受けた」 「乗り心地は悪くなかっただろう」 「どこからその自信が来るんだ……」   一々この男の言動を取り合っていては体力が保たない。分かっていることだが、言わずにはいられなかった。  ようやく帽子屋から降ろされた僕はそのままローズアーチを潜って庭園へと足を踏み込む。  赤い薔薇咲き誇る庭園に広がる芳しい香りに僅かに緊張が緩んだ。  庭園の中央、弦薔薇で覆われたガゼボの屋根の下。向かい合うような形で僕と帽子屋はガーデンチェアに腰を掛ける。  帽子屋が指を慣らせば、どこからともなくディーとダムが現れるのだ。 「はい、いかがなされましたかハッター様」 「茶会の準備だ。それ以外に僕が君達を呼ぶ理由なんてないだろう」 「畏まりました、ハッター様」  帽子屋からの土産を受け取り、あれよあれよとディーとダムは茶会の用意をする。何故人の家の使用人を顎で使ってるのか、引っ掛かったが一々突っ込む気にもなれなかった。  ……それに、帽子屋が用意した茶葉のことも気になった。  間もなくして、ディーがティーセットを運んできた。目の前に置かれたティーカップの中、無色透明の液体を見て息を飲む。  よく見れば帽子屋のティーカップの中にも透明な液体が入っているだけだった。湯気も香りもない。 「……おい、僕を馬鹿にしてるのか?」 「なにを言ってるんだい? クイーン。君も飲んでみるといい」 「お前……」  何故僕が憤ってるのかまるでわからないといった様子のディーとダム。そして、いつもと変わらない様子の帽子屋はそう言いながら透明の液体を口にするのだ。 「ほら、その愛らしい口を開けるんだ」 「……っ、離せ、一人でも飲める」  そうあろうことか飲ませようとしてきた帽子屋からカップをひったくる。  帽子屋は「ああ、これは失敬」と笑った。  ……こんなもの捨ててやろうかと思ったが、もしかしたら異国では流行っているのかもしれない。嫌な予感がしないでもないが、客人から貰ったものを口にせず捨てる無礼者だと思われるのも癪だった。  半ばヤケクソになりながら、カップに口を付ける。先程まで温度も香りすら感じなかったその液体は、僕が口をつけた瞬間熱く、強烈な匂いとともに咥内へと広がる。  この独特の味、匂いには覚えがあった。――血だ。  錆びたようなとろりとした甘みすらある液体の味にぎょっとし、カップを見たときだった。先程まで透明だった液体は赤く染まっていた。 「――ッ、ぉ゛え……ッ!!」  堪らずティーカップを地面へと放り投げ、僕は口の中に入ったそれを唾ごと吐き出した。  立ち上がる僕に、「どうしたんだい?」と帽子屋はおどけたようにこちらを見上げる。  ティーカップはそのまま手に、僕のカップ同様血を注がれたそれに口を付けて恍惚と微笑むのだ。 「ほら、行儀が悪いじゃないか。……せっかく、エース君が用意してくれた特別なものだというのに」 「お、まえ」  一瞬、耳を疑った。信じたくなかった。  何故、このタイミングであいつの名前を出されたのか。血液の匂いを嗅ぎ、それを口にしながら帽子屋は視線をディーとダムの方へと向ける。  咄嗟にその視線の先に目を向け、息を飲んだ。二人の傍のティーワゴンの上に乗った、赤く染まった潰れた肉塊のようなものを見た瞬間、脳が理解することを拒絶した。  世界に、雑音が走る。あれほど晴れ渡っていた空が赤く染まり、夕闇に覆われるのだ。 「……ッ、エース……」  堪えなければならない。駄目だ。これは作られた悪夢なのだ。  そう、そもそもこの世界にエースも本来の女王もいない――そうチェシャ猫は言っていたはずだ。  ということは、なにか明らかに異変が起きてることには違いない。  ――目を背けるな、受け入れろ。 「君にぴったりの手土産だと思ってね。……気に入ってもらえただろうか、我らがクイーン」 「……」 「あーあ、せっかく用意させたのにもったいない。……が、まだおかわりはある。さあディー、ダム。我らがクイーンのために新しいティーの準備を」 「「畏まりました、ハッター様」」  そう、双子の執事が携えていたナイフを取り出す。そして、血濡れたエースの前髪を鷲掴み持ち上げたとき。僕は考えるよりも先に動いていた。  こちらに意識を向けていないダムの手からナイフを取り上げた。 「クイーン、一体何を……ッ!」  驚愕するダムを無視し、僕はティーワゴンに乗ったエースの生首をそのままひったくった。ずしりとした重みとともに、微かな熱を覚えた。滴る血液で服が汚れようが、今の僕にとっては些細な問題だった。  それよりも、重要なのは。 「……ッ、ここにいたんだな、エース」  僕は、一人ではない。例え亡骸でも、髪の毛一本だけでもいい。こんな形でさえこの世界へと介入してきたエースから逃げるわけなんてなかった。

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