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 ここの世界ではアリスの精神が影響している。ということは、少なからずこんな形でも現れたエースの存在は大きかった。  ――悪夢のような状況だとしても、この事実だけは今の僕にとっては救いに等しい。 「クイーン……?」 「お茶会は中止だ」  ダムから取り上げたナイフを握り直し、その切っをダムと帽子屋に向ける。  驚いたような顔をするダムとは対照的にハッタ―の表情が変わることはなかった。チェアに腰を掛けたまま、変らない微笑みを浮かべて手にしたカップに口をつける。薄い唇は血の色に染まっていた。 「いいや、却下だ。なにせ待ちに待ったお茶会だからね、中止にはさせないよ」  足を組み直した帽子屋は、向けられたナイフに取り乱すこともなく悠然とした態度で口にするのだ。  何故この男は、この男だけは変わらないのか。アリスの夢だからか?アリスは取り乱した帽子屋を知らないからか?  ――この際、どちらでもいい。最初から悪夢だとわかっていたなら、これ以上もうこの悪夢と付き合う義理はなかった。 「……そうか、なら一人で楽しめばいい」 「ここには薔薇たちもいる、寂しくはないだろう」そう、エースを抱えたまま僕は二人に背を向け、その庭園から脱出しようとした矢先だった。  アーチ型の花垣を潜って抜けようとすれば、いきなり進行を妨げるように薔薇の蔦が伸び、アーチを塞ぐのだ。 「……ッ、な……」 「それはあまりにもつれないんじゃないか、我らがクイーン」  何故、こんなこと今までにはなかったはずだ。蔦を引き剥がそうとするがその蔦たちはまるで針金かなにかのように固く、力を入れれば入れるほど、手のひら、指先の薄い皮膚に無数の棘が食い込む。手が切れてしまったのか、赤い血が手のひらを汚していく。  それでも、背後から近づいてくる足音に振り返らずに逃げようとしたが、とうとうそれは敵わなかった。  伸びてきた手に腕を掴まれる。 「っ、触るな……ッ!」 「ああ、なんてことだ。……クイーン、貴方の美しい手が傷ついてしまっているではないか」 「おい……ッ」  なんとしてでもエースを渡したくなくて、片腕だけで帽子屋を振り払おうとするがあまりにも分が悪かった。覆い被さるようにこちらを見下ろす影。帽子屋は僕の手首を掴み、赤くなった手のひらに唇を寄せる。  一瞬、何をされているのか分からなかった。 「……ッ、な、にを……している……?」  自分よりも一回り以上年嵩の男に、まるで恋人かなにかのように手のひらに唇を押し付けられる。それだけでも悍しいというのに、この男は躊躇することなく切れ、盛り上がり血を滲ませる皮膚に舌を這わせるのだ。  僕の知っている帽子屋は確かに気狂いではあったが、それでもこんな無体を働くような男ではないはずだ。  あまりの出来事に一瞬、脳の処理が追い付かなかった。 「離せ、帽子屋……ッ」 「何故? この傷を放置しては貴方の麗しい肢体に傷が残ってしまう、それが例え指先だけとはいえどだ――我らがクイーンに傷一つあってはならないのだからね」  手のひらに溜り、玉のように落ちていく血をれろ、と舌這わされた瞬間、僕の中のなにかが切れるのがわかった。  片腕でエースの頭とナイフを抱え、もう片腕は帽子屋に掴まれている。自由に使える部分など限られていた。  ならば、と僕は思いっきり帽子屋の腹を蹴った。  仮にもこの世界があべこべだとしてもだ、帽子屋にはお世話になっていたのも事実だ。  助けられたし、感謝もしている。悪夢だとしてもその相手をナイフで刺し殺すことは憚れた。それすらも躊躇うことができなかったら恐らくもう“手遅れ”だと自分でもわかっていたからだ。  だから、僕は帽子屋を蹴った。が。 「……は、はは! あっはっは!」  のめり込んだ靴先にはしっかりと帽子屋に当たった手応えを感じた。そのはずなのに、苦しむどころか笑い出す帽子屋にぞっと背筋が震えた。  そして帽子屋はそのまま僕の足を掴むのだ。 「……ッ、ぅ、な」  ぐっと引っ張られれば、いとも容易く体勢を崩される。傾く重心。エースの頭を落とさないようにしっかりと抱きかかえたが、受け身を取ることまではできなかった。  帽子屋の胸の中へと飛び込むような形で抱き寄せられ、ふわりと血と混ざって甘い香りが鼻腔に染み渡る。  悪夢だというのに何故人の体温をしているのだ。退け、と後退ろうとしたとき、背中に固くちくりとした痛みが走った。茨の壁だ。 「本当に、お転婆なクイーンだ」  するりと、柔らかな手袋越しに腿を撫でられ背筋がぞくりと震えた。膝の上から付け根まで優しくその感触を確かめるような手付きで触れてくる帽子屋に嫌な記憶が蘇る。 「……っ、退け、帽子屋……ッ」 「しかし、お転婆も度を過ぎれば皺寄せがやってくる。……君だってそれくらい理解できていると思ったがね」 「……ッ、く、ぅ……ッ」  この男の指し示すクイーンが誰のことなのか、朦朧とした頭では理解することはできなかった。  これは現実ではない。殺してしまえばいい。わかっていた。矜持だのなんだの言っている場合ではないと、でもそれもできないのならば。  片手でナイフを握り直し、刃を自分に向ける。この世界を終わらせられれば、また次の世界でエースに出会えるかもしれない。そうナイフを首筋に押し付けようとした矢先だった。  帽子屋にそれすらも取り上げられる。 「っ、ぁ……」 「……本当にいけない子だ」  ナイフを手にしたまま帽子屋は、楽しそうに笑ったのだ。

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