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09
この世界はアリスの作った世界で、だからこの男も帽子屋の皮を被ったアリスみたいなもので、だから。
「は、なせ……ッ!」
とにかく逃げなければならない、そう無我夢中で帽子屋の腕の中逃げ出そうとすれば藻掻けば、やつの頭からハットが落ちる。それを目もくれず、そのまま帽子屋は右手の手袋を噛んで外した。
そして、そのまま現れた素手で僕の口を塞ぐのだ。
頬を撫でるように這わされた手、一見細くしなやかな指先は存外力が強く、骨っぽい。唇を割り開き、侵入してくる帽子屋の指に舌を摘まれ、犬のように舌を引っ張り出されるのだ。
あまりの屈辱に顔が熱くなる。「はなへ」と歯を立てようとするが、舌の腹を揉まれればじんわりと唾液が滲む。
なにがしたいのかまるで分からなかった。それでも舌を弄ばれれば嫌な感覚に陥る。
「は、ん……ふ……ッ」
「小さい舌だね」
「ほんなことして、なにになるんら……っ」
「何を言っているんだい?」
「ああ、なるほど。そうかいそうかい、そういうことだね。流石、我らがクイーン」一人でなにかを納得したようにうんうんと頷く帽子屋。そして、僕の口から指を引き抜いたやつはそのまま唾液で濡れた指先で僕の顎を掴む。そのまま鼻先が擦れそうな程の至近距離まで詰めてくのだ。
「――今度は生娘のように振る舞って、僕を楽しませようとしているんだね」
何を言っているのだ、この男は。
そしてようやく帽子屋の言葉の意味を理解した瞬間、顔がかっと熱くなる。
こいつはもう駄目だ、話にならない。
振り払おうとするが、「おっと」と軽々と腕へと抱き込まれれば唇を塞がれる。
「む、ッ、う……ッ!」
ここはアリスの世界だから、あのイカれた男の煩悩が入り混じってるのだろう。そうだとしてもだ、下手な悪夢よりも余程悪夢らしい。
唇の柔らかい部分が重ね合わされる、押し付けられるような口付けだった。そしてすぐに唇は離れ、僕はとっさに自分の口を塞いだ。
そして、
「ディー、ダム! 何黙ってみてるんだ……ッ、この男をどうにかしろ! この僕に無体を働いてるんだぞ!」
敵か味方も分からない、突っ立っている使用人に向かって怒鳴ればダムは「どうにかって……どうしてですか?」と戸惑ったように片眉をあげる。
「どうしてって、お前……」
「ああ、もしかして――そういうプレイってことです?」
「ぷ、れい……だと?」
惚けたようなディーの言葉に血管がはち切れそうになる。ふざけるな、と怒りにどうにかなりそうだったが、そこで思い出した。
それは考えたくもない最悪の想像だった。それでも、可能性としてはそれしかない。
――アリスの頭の中での女王像と、僕という存在が混ざって認識されている。
あの男が人の母を、女王をどう思っているのかが全て反映されているのではないか。
そう理解した瞬間、先程までとはまた違う別の恐怖が込み上げてきた。
「っ、また、あの男のせいか……ッ」
「ん? 何か言ったかい?」
「……ッ今すぐ退け! これは命令だ、帽子屋。僕はお前とどうこうするつもりはない……ッ!」
せめてナイフだけでも取り返すことができれば、そう思うのに、覆い被さってくる男の体を押し返すことすらできないのだ。
ジタバタと手足を動かし、エースを抱きかかえたまま僕は必死に抵抗する。傍から見ればさぞ滑稽な姿かもしれないが、それでもそうすることができなかった。
女王命令は絶対だ。この家人であるダムは僕の言葉にびくりと顔色を変えていたが、当の帽子屋はどうだ。怯えるどころかその表情は悦に染まる。
「……ああ、それはいい。とてもいいよ、クイーン! やはり君はいつだって私の理解者だ、僕は君の揺るがない不遜なその態度がとても好ましいと思ってる」
その笑顔は、声色は、まるでお気に入りの玩具を見つけたような子供のような無邪気さすら感じた。
背筋が凍りつく。この男は、と心底うんざりした気分になった矢先だった。そのまま伸びてきた腕に体を抱き締められるのだ。
「っ、な、おい、無礼者……ッ」
「――……本当に、虐め甲斐がある」
「……ぇ」
腕の中、辛うじて顔を上げたその先、影になったその帽子屋の表情に凍りついた。今までに見たことのない目だ。いや、その色はある。あれは母が処刑された日、僕が地下牢の鎖に繋がれていたときだ。警棒を手にしたジャックと同じ目だ――加虐行為を楽しむ者の目。
「お、まえ……ッ、いま、なん……ッ!」
頭の中に警笛が鳴り響く。咄嗟に、エースを抱えたまま必死に抜け出そうとしたところ更に抱き締められ、手首を取られた。強制的に脇を開かれ、小脇に抱えていたエースの頭部が足元に落ちていくのを見て背筋が凍り付く。
「っ、エース……ッ!」
潰れた果実のようにひしゃげたエースの頭に声が震えた。咄嗟に腕を伸ばそうとして、「大丈夫だよ」と悍しいほど優しい声で帽子屋は僕の耳元で囁いた。
「エース君もきっと喜んでいるよ、楽しんでいる君の姿を見て」
帽子屋はこんなことを言う下衆ではない。
分かっていた。だからこそ怒りが溢れ、血管を渡って一気に全身へと回った。
貴様、と目を歯を剥いたとき、再び顎を捕らえられそのまま深く唇を塞がれる。
「ふ……ッ」
僕を、僕のエースまでも愚弄するなんて、と突き飛ばそうとするが、唇を割って入ってくる帽子屋の舌先に気を取られてしまう。
先程の触れるようなものではない、蛇のように咥内に侵入し、人の領域を踏み荒らしてくる男に怒りのあまり頭だけではなく全身までもが熱くなっていく。
「っ、ん、う゛……ッ、む、……ッ」
細められた切れ長の帽子屋の目がこちらの奥まで覗き込んできては逸らされない。
片方の手が腰に回されるのを感じ、必死に腰を引いて身を離そうとすれば更に深く抱き込まれるのだ。
密着した下腹部。腹の辺りに当たる嫌な感触を意識せざるを得なかった。咥内で舌先が掠め、絡まる度にくちゅ、と濡れた音を立てて唾液が混ざり合う。濡れそぼった舌先で舌の根本から先端部まで蛇のように絡みついてくる舌先に執拗に愛撫されればそれだけで下腹部の奥がじんと痺れ始めた。
「ん、ぅ、や……ッ、ぇ、……お……ッ」
もう片方の手で尻を撫でられ、背筋が震える。手袋越しとはいえど、臀部の山なりになった部分を確かめるように柔らかく撫でられるのはひたすら不快でしかない。
「……っ、ふ、……ッ」
舌を噛んでやりたかった。それなのに、ぬるぬると唇の間を行き来する舌が邪魔で顎を閉じることすらもできない。
強制的にこじ開けられた口の中から堪った唾液が溢れ、帽子屋はそれを蜜かなにかのように美味しそうに舌で舐め取り、微笑む。
「ようやく大人しくなったね、君は本当に接吻が好きなようだ」
「……ッ、は……ぁ……お、お前……ッこんなこと、して……」
「女王への奉仕活動は即ち我が国への勤仕であり国民の責務であり歓びである、だろう?」
こんなことが奉仕であるものか、と帽子屋を睨みつけたと同時に背筋までつうっと撫で上げられ、痺れたような、寒気にも似た甘い感覚が走る。
たまらず胸を逸し、這わされる帽子屋の指から逃れようとすれば、今度は突き出すように逸した胸にあの男は片方の手を這わせるのだ。
「……ッ、ゃ、やめろ、どこ触って……ッ」
「慎ましやかで愛らしい、それでいて主張の激しいところは君にそっくりだ」
そう逸した胸元、着ていた衣類越しに微かに尖っていたそこをすうっと周囲をなぞるように指を這わされ、喉の奥が震える。
この男がどこのことを言っているのか理解したくもなかった。
「や、……っ、やめろ……ッ」
「おや、声が甘くなったじゃないか。クイーンは胸を弄られるのがお好みかい?」
「……っ、ち、がう、そんなわけ……ッ」
そんなわけない。そう言いたいのに、帽子屋の腕の中に閉じ込められたまま、わざわざ胸を意識してしまうようなじれったい触れ方をしてくる男に怒りを覚えた。
それと同時に、いつの日かジャックにそこを執拗に甚振られた恐怖が蘇り、自然と全身が固く強ばる。
「は、……ッ」
無駄な抵抗したところで恐らく、体格差的にも状況的にも好転することはないだろう。このままでは心身疲弊するだけだ。
――ならば、どうすればいい。考えろ。
帽子屋に柔らかく胸を撫でられるだけでピクピクと下腹部が震え、思考が乱される。それでも考えるしかない。平常心を保ち、この状況を逆転させる方法を考えた。
そして考えて――ようやっと思いついたのは一歩間違えれば相手の腹の中に入るようなものだ。
無謀と言われれば無謀だ、それでもこの状況が変わるのならばやるしかない。
「……ッ、待て、帽子屋……ッ」
震える体を、声を押し殺して目の前の男をにらみつければ、帽子屋はこちらを見た。まじまじとこの男の顔を見る機会など今までなかった。存外女受けのよさそうな顔をしているのが余計腹立たしかったが、今そんな場合ではない。
「……僕を、こんな場所で抱くつもりなのか」
羞恥と屈辱で震えそうになるのを堪えながら、僕は帽子屋の胸にそっと手を這わせる。誘い方などわからない、手探りでこの男の喜びそうな仕草を確かめようとしたが、どうやら手応えはあった。
表情は変わらない、けれどその喉仏かひくりと上下するのを見て「きた」と思った。
「っ、せめて、柔らかい場所に……ベッドまで運んでくれ」
帽子屋の胸にしなだれかかり、やつにだけ聞こえるように言葉を紡いだ。
我ながら反吐が出そうになりながらも、僕は今まで余計な知識だけは与えてくれたジャックに今この瞬間だけは感謝することにする。
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