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 この世の全てがアリスの思い通りになり、この世界の住民すらもあの男にとっては思い通りの手駒の一つでしかない――そう思っていたが、サイスの存在によってその認識は変わった。  そしてその確証は僕にとっては大きなものだ。  この世界は僕とあいつとチェシャ猫しか話が通じる人間がいないのではないかと思っていた僕からすれば。 「でもどうすりゃいいんすかね」 「それを今探っている最中だ。……前回の時は、僕が自害することによってまた別の世界へ行くことは可能だった」 「って…… 別の世界つったって、『はいそうですか』って王子の自害を見過ごすわけにはいかないっすよ。少なくとも、もし今回失敗したりでもしたら……」 「――失敗か、そうだな」  げえ、と露骨に顔を引き釣らせるサイスの言葉が頭の中に響いた。  今まではなんとか運良く切り抜けてきたが、ここはアリス自身認識していないという不安定な世界だ。何が起きるかわからない。  ――僕たちにはあまりにも情報が少ない。そして、それを調べるための時間も。  ただでさえ帽子屋のせいで体に余計な負荷もかかってる。その上、見たくもないあの男の顔を見なければならないなんて。 「……一先ず、あの男――キングには『体調が悪い』と伝えておいてくれないか。……それと、この件に関しては他言無用だ」 「了解っす。……つっても、誰も信じてもらえねえだろうけど」  軽口を叩くサイスにそれもそうだな、と胸の中で呟いた。それにしても、こいつが良くも悪くもいい加減なやつでよかった。――普段ならば許されないだろうが、その緩さは今となっては救いになってるのがおかしな話だ。  そのまま僕を残して部屋を出て行こうとするサイスだったが、思い出したようにこちらを振り返る。 「……っと、王子一人で大丈夫です?」 「問題ない。……それと、今後も僕の警護はお前に頼みたい、サイス」 「分かりましたよ。その代わり、俺が戻ってくるまでは大人しくしててくださいね」  まるで人がなにかをしでかすような言い方は引っかかったが、前科が出来てしまった分今の僕には「ああ」と頷くことしかできない。  サイスが部屋を出たあと、僕は頭を整理するためエースの頭を抱えたままベッドに横になった。  枕元、開いたままになっていた窓から生温い風が吹き込む。月明かりが注がれるのを眺めながら、思考を整理させる。  サイスのような人間がいるのならば、他の人間もエースの頭を見せれば自我を取り戻せるのではないかと考えた。  けれど、とも思う。これは僕の考え方の問題だ。サイスならまだしも、軽々しくエースの頭を見せたくはないという気持ちも少なからずあった。  サイスのことだって、不本意なものだ。僕を守って首を落とされたこいつを証拠品扱いするなんて、とエースの頭を抱きしめたときだった。  不意に、腕の中でもぞりとエースの頭が動いたような気がした。 「……っ!」  咄嗟にベッドから起き上がり、エースの頭を覗き込む。マネキンのように丹精な顔立ちだが、生前のような健康的な肌色ではない。涙のように滲む体液を僕はさっとハンカチで拭い、暫くエースの首を見詰めていたがとうとうエースの首が動き出すことはなかった。  やはり、気のせいか。そう落胆したときだった。背後の窓で影が揺れた。ちりんと鈴の音を響かせて。  視線だけをそちらへと向ければ、そこには首輪をつけた紫色の毛の猫がいた。月明かりを反射させ、その目は怪しく光っている。  ――チェシャ猫は目が合えば口を三日月型に大きく歪めるのだ。 「アリスが目を覚ましそうだ」 「……覚ませばどうなる」 「さあ、どうなるだろうね。少なからずこの世界を見たアリスはびっくりするだろうね。なんせ、自分の願望と悪夢が混ざり合ってるんだから」  この猫の戯言など聞くに値しないと分かっていたが、アリスへ繋がる手掛かりはこいつしかいないというのも事実だ。  どういう意味だ、と聞き返そうかとした次の瞬間には既にそこに猫の姿はなくなっていた。咄嗟に窓際へと移動して外を見渡すが、既に遠く離れた塔の屋根の上をすたすたと歩いているチェシャ猫を見て舌打ちをした。  毎回毎回、言いたいことだけを言って、あの猫は。  しかし、アリスが目を覚ましたということは――また世界が切り替わるのか?  そうなったところでまたアリスと婚姻関係に当たる世界線に戻らなければならないと考えただけで反吐が出そうだ。  それに、アリスが今この世界に介入するとしたら――どうなるのだ。あいつに少しでも精神的な負荷を掛けることによって弱らせることができるのならば、あいつの悪夢である部分を刺激するという方法もあるのか。  窓を閉め、カーテンを閉じる。薄暗い部屋の中、僕はエースの頭を抱きかかえた。 「……もう少しの辛抱だ、待ってろよ。……エース」  お前をなんとしてでも生き返らせてやる。

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