9 / 73

第9話

 日下が初めて徹と会ったのは、彼がまだ赤ん坊のときだ。ふくふくとした手足に、赤ん坊にしてはしっかりとした顔立ち、ふわふわの産毛。子どもが苦手でどうしていいかわからない日下を、澄んだ瞳が瞬きもせずにじっと見ていた。 「この子、きっとあなたのことが好きなのよ」  姉の言葉に、家族が微笑む。あのころはまだ裕介さんも生きていた。誰にも言ったことはないが、日下の初恋の相手は裕介さんだった。はじめから叶わない恋だとわかっていた。幸せそうな姉夫婦の姿。穏やかな昼下がりを覚えている。  裕介さんが亡くなったとき、日下は大学生だった。未亡人となった姉は若く、徹もまだ五歳だった。そのころ、日下はひどい恋愛を終えたばかりで、ぼろぼろの状態だった。  相手は同じ大学の教授だった。男からの強引なアプローチで始まった恋は、始めは日下のほうは乗り気ではなかったが、いつしかほだされるように本気になっていった。日下も若かったのだと思う。相手に妻がいるなんて知らなかった。後はお決まりのコースだ。しかし、日下の場合はその後が最悪だった。  この恋が不倫であることを知り、別れようとした日下に、男は妻との離婚を決めた。精神的に追いつめられた妻は自殺未遂を図り、男は結局妻の元へと戻った。裕介さんが亡くなったと姉から連絡があったのは、ちょうどそのころのことだ。

ともだちにシェアしよう!