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第46話

 胸の中に仄かに灯った感情に揺さぶられるように、日下は自分の身体を抱きしめる。そのとき、父親の葬儀で自分の手をぎゅっと握りしめる幼い徹の姿が思い浮かんだ。  自分が泣いたら母親が悲しむからと、大きな目に涙をためて、泣かないよう懸命に堪えていたその姿。冷たい雨が降る中、氷のような小さな手が少しずつ温もってゆき、日下の凍っていた心までを溶かしたこと。――だめだ、そんなことがあっていいはずがない。 「衛、大丈夫か……?」  自分を気遣うような緒方の瞳に、日下は愕然となる。自分はこれまで何もわかっていなかったのだと、いまさらながらに知る。物事の表面ばかりを見て、何も見ようとはしていなかった。  日下はきつく瞼を閉じると、何かを堪えるように、自分の中に灯ったばかりの感情を消した。大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。目を開け、再び緒方を見たとき、先ほどまでの動揺は微塵もなかった。 「緒方先生」  日下の顔に何を見たのか、緒方が微かに警戒するような表情を浮かべた。 「誤解をさせたのなら申し訳ありません。私はあなたのことを何もわかってはいなかったようです」  日下の言葉にこれから何を言われるのか予想がついたのか、緒方の瞳からすっと感情の色が消えた。ちくりと胸に痛みが走りながら、日下はそれを冷静に眺める。 「あなたのことは尊敬しています。あなたがつくる作品も素晴らしいと思う。だけどそれだけです。私があなたを好きになることはありません。それはこの先も変わることはありません」  あなたの気持ちには応えられないと告げる日下を緒方はじっと見ると、やがて諦めたように静かに息を吐いた。 「衛。彼に本当の気持ちを伝えてみたらどうだ? 彼はきみが自分を好きなことを知らないんだろう? きみが気にしているのは世間体か? 彼が甥だからか? そんなものはきみには似合わない」  自分は振られたくせに、その相手を気遣うような緒方の言葉に、日下の口元につくりものではない、本物の笑みが浮かんだ。  緒方ははっと息を飲むと、次の瞬間、その瞳に切ない色を浮かべた。 「私が徹に気持ちを伝えることは一生ありません。徹には自分なんかではない、もっと彼に相応しい相手がいます。私はその邪魔をしたくはありません」  日下の言葉に、緒方は心底理解できないといった顔をした。 「……正直、きみの言っている意味がよくわからない。敵に塩を送るような真似はしたくないが、彼はきみの気持ちを邪魔だとは思わないんじゃないのか? むしろきみが気持ちを伝えたら、喜ぶんじゃないのか?」

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