48 / 73

第48話

 カフェで緒方と別れた後、日下は画廊に戻ると、いつも通り仕事をこなした。何事もなかった顔をして筧と言葉を交わし、日々の雑務を片付ける。時折ふと我に返るように自分が空っぽになった気がしたが、こんなこと何でもない。  これまでずっと何も見ない振りをしてきた。この先だって同じようにできる。徹への思いに気づかない振りをして、何もなかったようにいままで通り過ごせる。徹にとって本当に大切だと思える相手と出会えるまで、ただの叔父と甥としてやっていけばいい。そうだ、きっとできる。  夕暮れの中、どこかの家から夕飯を作る匂いが漂ってくる。今夜のメニューはカレーらしい。徹が作るカレーは牛肉がとろけるほどに柔らかくて、この時期は夏野菜がふんだんに入っていておいしい。  久しぶりに徹の作ったカレーが食べたいと思いながら、明かりの灯る家の鍵を開け、三和土で靴を脱ぐ。 「衛さん、お帰り」  キッチンでサラダを作っていた徹が廊下に佇む日下に気がつき、振り向いた。知性あふれるその瞳が日下を見て、ふっと微笑んだ。 「今夜は衛さんの好きなカレーだよ。あともう少しでできるから待っていて」  タイマーが鳴る。徹は圧力鍋の蓋を開けると、中身をかき混ぜた。ふわりとスパイスのいい香りがした。さっき、日下が食べたいと思った徹の作ったカレーの匂いだ。  ――徹が好きだ。  ふいに、胸を突かれるような強さで、気持ちがあふれる。これまで見ていた世界が180度変化したみたいに、徹のまわりだけがきらきらして見える。もう自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。徹への思いに気づかない振りをして、これまで通り何もなかった顔をして過ごすことなど不可能だ。 「夏野菜ももう終わりだね。スーパーの野菜売場に、少しずつ秋のものが入ってきたよ」 「徹。お前、この家を出ろ」

ともだちにシェアしよう!