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第57話

 すーっと全身から血の気が引くような恐怖に襲われる。果たして自分が正常な意識を保っているのか、それとも感情が麻痺しているだけなのかよくわからなかった。意識していないと、叫び出しそうになる。  雨粒が窓ガラスに当たった。いつの間にか、窓の外は暗く重たい雲が垂れ下がり、空一面を厚く覆っている。 「どうしよう……」  徹に何かあったらどうしよう。  表情をなくした顔で呟いた日下の言葉に、運転手が「え、何ですか?」と顔を向けた。  ――衛さん。  聡明さの滲む、徹の瞳が好きだった。話をするときに、少しも躊躇うことなく相手の顔をまっすぐに見るところも。他人と自分を比べることなく、たとえ自分とは異なる相手でも、決して貶めたりしないことも。  いつだって自分が本気で徹を拒否しようと思えばできたのに、それをしなかったのはなぜだ? それは自分のためだ。僕が徹と一緒にいることを望んだからだ。  午前中までの快晴が嘘のように、突然降り出した大粒の雨は車のルーフに当たり、大きな音を立てた。バケツをひっくり返したような雨に、人々が蜘蛛の子を散らすように駆け出す。視界を保とうと、車のワイパーが左右に激しく振れた。だが、雨の勢いが激しすぎて、街はぼんやりと白く霞んで見える。  もっと早くに徹を追い出せばよかった。彼が自分のことを好きだと言ったとき、強く撥ねつければよかった。そしたらきっとこんなことにはなっていなかったという後悔が、日下の胸を苛む。  もし徹の気持ちに応えたらと、一度も考えたことがないといったら嘘になる。けれど、日下はどうしてもその勇気が持てなかった。  いまはいい。しばらくは持つかもしれない。でもそれはいつまで続く? 一年後? 二年後? ひょっとしたら五年は持つかもしれない。でもその先は?  いつか徹はきっと気づく。あのときの選択は間違っていたのだと。そのとき、自分はどうしたらいい? 心を許してしまったら、いったいどうやって生きていける?

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