60 / 73

第60話

 引き抜いた手でこぶしをつくると、その手を振り上げ、徹の胸を叩く。  怖かった。徹に何かあったらと考えると、自分でもどうにかなってしまうと思うくらい、怖くてたまらなかった。 「ばかやろうっ、……ってに、死んだら許さない……っ!」  何度も徹の胸を叩きながら、日下は泣いていた。いつの間にか叩いていたこぶしをほどき、彼の胸に縋り付く。  どうして徹なしでも大丈夫だなんて思えたのだろう。そんなこと、始めから無理だと、心のどこかではわかっていたのに。  まるで自分の身体が自分のものではなくなったみたいに、感情のコントロールができない。徹が無事でいてくれてうれしいのに、事故に遭ったと知ったときのショックと不安が、安堵になって日下の胸を襲う。  ふわりと包み込むように、徹の腕の中に抱きしめられた。とっさに逃げようとした身体を、徹が宥めるようにやさしく触れた。 「心配をかけてごめん。俺は大丈夫だよ。衛さんを残して死んだりしない。衛さんの前から黙って消えたりしない」  まるで小さな子どもに話しかけるように、頭上から聞こえてくる言葉に、ささくれ立っていた日下の神経が少しずつ落ち着いてゆく。その手を振り払うこともできたのに、日下はしなかった。ただ自分を包み込む温もりを感じていた。 「佐野さんは事故に遭ったとき、頭を強く打ったようで、一時的に意識を失いました。頭部CT検査には異常は見られませんでしたが、念のため一晩入院してようすを見たいと思います。足の怪我はすぐに治るでしょう。それから事故のことで警察が話を聞きたいそうですが、……もう少し後でも問題ないでしょう」  担当の医師が手元のファイルを見ながら状況を説明する。日下はようやくこの場にいるのが自分たちだけでないことに気がついた。同室の入院患者やその見舞い客が日下たちを気遣うように、微笑ましそうな、そして何とも気まずそうな顔でこちらを見ないようにしてくれているのがわかる。とたんにぶわりと羞恥が戻り、いまのこの状況が耐え難いものになった。 「ありがとうございます。よろしくお願いします」  病室を出ていく医師に、徹が頭を下げる。 「衛さん?」  徹の腕をどかし、何事もなかった振りをして離れる日下に、徹が不思議そうな顔をする。先ほどまでの自分の取り乱しぶりが恥ずかしくて、できることならばすべてを忘れてこの場から消えてしまいたい。衛さん、どうかした? という徹の問いにも、日下は答えることができなかった。 「あのお兄さん、泣いていたね。お顔真っ赤だよ。恥ずかしいの?」  幼い女の子が母親らしき女性に訊ねる声が聞こえてきた。しっ、と母親が窘める声も。  日下はつんと澄ました顔で表情を取り繕うと、いったい何のことを言われているのかわからないといった振りをした。

ともだちにシェアしよう!