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第5話
エアコンの作動音が調子よく聞こえている。
送風口から冷気を孕んだ風が部屋全体を心地良く冷やしてくれていた。
新品のエアコンにはなんの問題もない。
奥さんの淹れてくれた冷たい麦茶を飲み干して、花隈は工具バッグを手に立ち上がった。
「なにか困ったことがあればまたいつでも呼んでくださいね!」
玄関まで見送りに出てくれた奥さんへとそう声を掛けると、奥さんが恥じらうような色っぽい顔でほんのりと笑って、
「そのときは、是非よろしくお願いしますね」
と答えてくれた。
花隈は名刺の裏に己のプライベートな携帯電話のナンバーを記し、奥さんへと手渡す。
奥さんは両手でそれを受け取り、ありがとうございましたと頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございましたっ」
来たとき以上にハキハキとした声で挨拶を返して、花隈は玄関のドアを押し開けた。
一歩外に出ると、真夏の日差しと熱波が襲い掛かってくる。が、しかしいまの花隈は気にならなかった。
鼻歌でも歌いたい気分でエレベーターに乗り、一階へと降りる。
エントランスから燦燦と日差しの降り注ぐ外へ足を踏み出そうとした、そのとき。
「こんにちは、花隈さん」
と声を掛けられた。
にやけ顔のままでそちらを見た花隈は……そのまま氷像のように固まった。
なんと、さっきまで花隈が抱いていた奥さんの亭主……芦屋がこちらへ歩み寄ってきていたのである。
「ああああ芦屋さんっ」
どもりまくった花隈に構わず、スマホを持った手を軽く上げて挨拶を寄越した芦屋が、ハンサムな顔に笑みを浮かべた。
「仕事で近くまで来たので寄ってみたんだが……もう修理は終わってしまったかな?」
「あ、いえ、その」
「ご足労をかけたね。きみが来てくれて、妻も喜んでいただろう?」
ドキリとするようなことを言われて、花隈は更にしどろもどろなってしまう。
どう答えれば、この場を平穏に乗り切れるのだろうか……。頭が真っ白になって上手く働いてくれない。
花隈の挙動不審に気づいているだろうに、芦屋は笑顔のままで花隈の肩をポンと一度叩いてきた。
「やっぱりきみに頼んで良かったよ。エアコンの調子も良いようだし。またなにかあったら、エアコンと、妻をよろしく」
ひらり、と芦屋が左手のスマホを花隈へ見せつけるように振って、スマートな足取りで団地の中へと入っていった。
花隈は軽やかな革靴の音が遠ざかってゆくのを聞きながら、芦屋の言葉を脳内でリフレインした。
(エアコンと、妻をよろしく)
エアコンはともかく、なぜ奥さんまでわざわざ付け足したのか……。
すべてお見通しと言わんばかりのセリフと……ひらりと動いたスマホ。
……ん? スマホ??
花隈はそのとき、衝撃のあまりバッグを取り落とした。
どさり、と落ちた拍子に、開いたままのそこからエアコンのカタログがチラリと覗いた。
このカタログは、芦屋にも見せたものだ。
これを広げながらいろいろなエアコンの説明をして……その中から芦屋が選んだエアコンが……。
雷に打たれたように、花隈は大きく震えて硬直した。
そうだ。
なぜ忘れていたのだろう。
芦屋が選び、花隈自身が設置したエアコン。
それに、カメラ機能がついていたことを……。
最近は多機能エアコンが人気だ。
空気清浄機がついているもの、加湿器代わりになるもの、スマホで外から操作できるもの。
そして、一人暮らし高齢者やペットの見守りが、離れた場所に居てもできるカメラ付きのもの……。
ペットを飼っているわけでもなく、要介護高齢者が在宅しているわけでもない芦屋家に、カメラ付きエアコンが必要なのか、そんな疑問を抱くこともなく言われるがままに設置した花隈だったが、まさか芦屋は、エアコンを選んだときから花隈が奥さんに手を出すことを想定していたとでもいうのだろうか。
どうしよう、と花隈は青くなった。
いまごろ奥さんは、不貞を責められているかもしれない。
庇いに行ったほうがいいのではないか。
しかし。
芦屋は、「エアコンと、妻をよろしく」と言っていた。
これは、夫公認の浮気なのか。
眩暈がしそうなほどの暑さの中で立ち尽くすうちに、困惑と混乱を極めて、花隈は、汗を滴らせながらカバンを拾い上げ、とりあえず社に戻ろうと炎天下の中駐車場へと退散したのだった。
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