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第二話 葵
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………
「っ……うわアぁぁっ!? はぁ…はぁ…ッ……」
悲鳴にも似た自らの声に起こされる、首筋や身体を触り最低の夢である事を認識し、「はぁ…」と安堵のため息。
“くそ…また…あの夢……”
目の前にはいつもと変わらない薄く黄ばんだ寝室の天井、八月の熱帯夜と悪い夢も手伝って、べっとりと寝汗の染み込んだシャツとパンツの気色悪さが彼の上体をベッドから不機嫌そうに起こさせる。
“病院の次の日は……ほんとに…嫌気が差す……
これだけ薄着で寝ても……うぅ…張り付く…ぅ…”
五時八分……
目覚まし時計を見て、「ふゎ…」と欠伸をして、腰まで届く長さの黒髪を手櫛でほぐしながら、ベッド横の小さな丸テーブルの上に置かれた赤いマルボロの箱からタバコを取り、火を着ける。
「ふぅ…………」
紫煙が漂い瞳を細める、別に好きで吸ってる訳ではない、だが、どうしようもなく吸わなきゃ、やってられない気分に陥るのだろう。
口にタバコを咥えたまま、何気なく天井に登っていく紫煙を見送り、半分吸い終わったタバコを灰皿に押し付ける。
“シャワー……あっ…と、その前に朝ご飯……なんかあったかな……? 甘いの……”
ベッドから気だるげに立ち上がると、シャツも、ショートパンツも脱ぎ捨て全裸となる。
“はぁ…さっぱり♪ 一人暮らしの特権だよね……部屋の中、全裸で生きてても……誰にも…
何も言われない。 ”
滑らかなボディライン、臀部と太腿の肉付きもよく、肩幅が少々広いのと胸が薄い事を除けば女性らしくも見え、カーテンの隙間から入る早朝の優しい朝日に照らされた美白肌には、無数の傷痕が残っている。
“あっ…そういえば、ドーナッツ買ってたんだ……”
脱ぎ捨てた服を片手に寝室から出て、リビングとキッチンを横切り、脱衣場の洗濯機に服を投げ入れる。 フローリングを裸足でペタペタと歩く度に揺れる臀部が気になるのか、指先で臀部の肉を摘まむ。
むにゅ……
“気のせい……元々、こんなんだし……甘いの食べ過ぎとかじゃ……うん、違う……はず”
キッチンまで戻り冷蔵庫を開く、扉の棚から牛乳のパックを取り出し、コップに牛乳を注ぎ、食器棚の下段の引き出しを開ける。
“たくさん買っといて良かったー♪ うーん、
チョコパイも捨てがたいなぁ……でも……”
引き出しの中は、ドーナッツの他、たくさんの甘いお菓子にスナック菓子の袋がこれでもかと詰め込まれていて、そこから目的の
ドーナッツの包みを引っ張り出し、コップを持ち、リビングのソファに腰掛ける。
「いただきます。」
そう言って包みを開け、ドーナッツを口に頬張る。
“美味しっっっ!! 満たされる……すぐ無くなっちゃうから、また買い足しとかないと……”
一口サイズのドーナッツをパクパクと口に放る度に口に拡がる甘味を、ゴクゴクと牛乳で流し込む。十個あったドーナッツは、あっと言う間に無くなり、コップの中の牛乳も空となった。
「プハァッ……」
“美味しかったぁ…♪ ぁ…もうこんな時間、シャワー浴びなきゃ……”
五時二十分……
リビングの時計を確認しコップと空いた包みを持って立ち上がる。キッチンのゴミ箱に包みを捨てコップはシンクに置き、ペタペタと脱衣室へ行く。素通りしようと思った洗面台の鏡に映る自分の身体がチラッと視界に入り脚が止まる。
“また…お尻大きくなったかな…? いやいや、胸は…大丈夫だし…お腹は変わらない…二の腕、ふにふに…鍛えなきゃかな…太もも、最近スラックスがきつい気がする…下着、仕事中とか食い込んじゃうのは……”
洗面台の足下に置かれた体重計……無意識に足先で隅っこに追いやる。
“今、食べたばっかりだから、きっと性格な数字なんか出ないよ……うん、時間もないし……
また今度。 ”
熱いシャワーを浴びながら泡を洗い流す。
身体が徐々に起きていくのを感じた辺りでシャワーを止め、扉の取っ手に引っかけていた
タオルで身体に滴る水分を拭き取る。
“気持ちっっっ♪ さっきまで気にしてた事、
全部吹っ飛んだ感じがする…… ”
洗面台の横の棚から取り出した下着を履く……
「ん……? 」太腿付近で引っ掛かる下着。
“まだ…身体湿ってるせい……それしかない……
きっとそのせい……”
キュッと少し無理矢理に下着を履き、タオルドライの長い黒髪をドライヤーで乾かす。
熱めの風は黒髪をなびかせ、脱衣室をコンディショナーの甘く爽やかな香りで満たし彼はその匂いに微笑む。
“河邊君、気づいてくれるかな……良い匂いのコンディショナーにしたの……でも、女の子でもないし、一々そんなの言ってくれないよね……”
ブラシでとかしながら乾かした髪は艶を帯びる。鏡に映る美白の顔は、人形のように整って美しい。
「河邊君が……髪、綺麗とか褒めてくれたりするから……気になっちゃうんだよ? ……気付いてくれないと、悲しくなっちゃ……っ」
鏡の中の自分の頬が、言ってるうちに、みるみる赤くなっていく。
“なんて馬鹿なんだろ……男同士で、しかもこんな年上の僕が……身体だって……”
首から下、鏡に映る身体を見る、白い肌に残った傷痕は彼の視線を鏡から逸れさせる。
“体型なんか、気にしたって……こんな……
相手してくれないよね……好き……なんて思ったら……迷惑だよ、一緒に働いてくれてるだけで……感謝しなきゃ……”
髪を後頭部で掴み結う、鏡に写る自分に少し寂しげな笑みを向け、脱衣室の廊下向かい側の部屋へ入っていく。
“うーん……スラックス…ちょっぴり……ほんの
少しだけキツいような……”
ワイシャツを着て、履いたスラックスが、どうも臀部辺りがキツいようだ。
彼の衣装部屋として使われている部屋、
一人で暮らすには広すぎる間取りの住居ならではの使い方、クローゼットの中に少々の衣装棚がある以外、部屋に家具や荷物は置かれていない。
“腰周りは、そんななのに……お尻だけ、すくすく成長してる……変なの……”
黒いネクタイを絞め、ハンガー掛けからベストを取り、着る。ベストのポケットに入れられた懐中時計を取り出し、六時十二分である事を確認して、
“ちょっぴり、遅れてる……”
カバンにスマホと財布とタバコを入れ、戸締り確認、火の元確認をして玄関を開ける。
“待たせちゃ悪いし、少し急がなきゃ……”
夏とはいえ、この時間の陽射しは心地良く、
朝を認識させてくれる。
“鍵……鍵……ぁ…靴箱の上……? ”
玄関をもう一度開けると靴箱の上に置き忘れた、キーホルダーの類は付いていない家と車と店の鍵を一つのリングにまとめた簡素な鍵を掴み、再度外に出る。
カチャリ……
“閉めた……閉めた、こういうの運転中とか
不安になるんだよね……”
駐車場まで歩く最中も、癖になってるのか
一度振り向き、手に持った鍵を確認する。
“さぁ、今日も頑張ろうね……シルヴィ……”
駐車しているシルヴィと呼ばれた車、
日産のシルビア S15 は真紅の車体を朝日に照らされ輝きを放ち、彼を微笑ませる。
“相変わらずイケメン♪ 君以上にカッコいい
車なんて存在するのかな……ふふっ♪ ”
ドアノブに指を掛け、ガチャリと開いた運転席に乗り込む……キーを回し……
キュルキュルキュ……ボォボォボォボォ……
始動するエンジン、震える車体、マフラーも交換され、ノーマルとは違う排気音を奏でる。
“今日も調子良いね…そろそろ行こうか…… ”
タコメーターの下にある時計は六時二十分を表示している。二分程のアイドリングを終え、サイドを下ろし、クラッチペダルを踏み、一速に入れ、アクセルペダルを少し踏み込んでクラッチペダルを踏む足先から徐々に力を抜くとシルビアは前へゆっくり走り出す。
ギャ……ギャ……ギャ……
“毎回駐車場のアスファルトが後輪で削れてるなぁ…白くなってるの、ちょっと罪悪感……”
そんな事を思いつつ、駐車場から飛び出す。カーオディオの再生ボタンを押し、流れる
お気に入りの曲のテンポに合わせ、鼻歌まじりに彼は一速から二速……三速にギアを上げ、
シルビアを加速させ、待ち合わせ場所を目指す。
ギャァアアッ! プシュ……ギャアアアアァア!! プシュ……
「きーみは誰とキースをすーる~♪ ……」
マフラー音、ブローオフバルブの作動音に
彼の歌声も混じる。
昨日は休日で病院の受付以外では誰とも話していない、自宅でもあまり声を出していないので、いきなり人と話すと声が出なかった経験がある彼は移動中の車内で、お気に入りの曲を歌って発生練習を兼ねた時間を楽しんでいる。
「わーたし、それともーあのー娘ー♪ ……」
“好きだなぁ…この曲…テンポ良いし、ちょっぴり古いけど……そして最後まで見てないけど……結局どっち選んだんだろ……? ”
そんな事を考え車を走らせていると、待ち合わせ場所の駅が見えてくる。
“あっ!…いた…相変わらず早い…僕を待たせたくないのかな…ふふっ♪ …そういう紳士的なとこも……っと、いけない……もっと年上らしく……先輩らしくしなきゃ……”
自然と口元から溢れる笑みをこらえ口元を引き締める。
駅のロータリーの真ん中にあるモニュメント時計は六時三十二分を指している。
車をロータリーに入れ、彼の前で停車すると、助手席のドアが開く。
ガチャ……
「涼風さん、おはようございます。 」
ゆったりと優しい笑顔に、胸が温かくなるのを感じた。
“あっ…やっぱ…無理これ……”
涼風さん、と呼ばれた瞬間、彼は花が咲くみたいにパッと笑顔になり……
「うん、おはよう……河邊君♪ 」
挨拶を返した。
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