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第四話 出逢い ①
ピピピ……ピピピ……ピピピ……
「ぅ……ん……」
暗い部屋、朝日も昇っていない時間帯になる目覚ましの音にベッドの上の布団が、
モゾモゾと動き出す。
“ぁ………起きなきゃ…んー腕…重た…… ”
意識がハッキリとしてくる。腕の上に乗っかる何かに触れるとフニフニと柔らかく、温かい空気が小刻みに首筋に当たる。
「おはよ……愁兄さん……」
「うん…凛……おはょ…ちょっと息……くすぐったぃよ…」
重たい腕の方に身体を向けると、愁の弟の凛が腕を枕にして寝そべっている。
「んっ…ごめん……」
「いいよ…どうしたの……最近…毎日じゃない…?」
「だって……兄さん……最近、朝も早いし……
ちっとも遊びに連れてってくれないじゃないか……」
「そっかぁ…それで…… 」
凛は胸に顔を寄せ、こちらを見上げてくる。布団の中でもしょんぼりと悲しげな表情が分かるくらいに距離は近い。
「ごめんな…気付けなくて…ふふっ♪ 」
甘えん坊な弟……そう思うと笑みが湧き、胸がキュンとして、凛を抱き寄せ、さらさらの髪をあやすように優しく撫で……
「お詫びに今度のお休み、凛の好きなメロンパンのお店に連れて行くから……それで許してくれる? 好きなの何でも兄ちゃんが買ってあげるから……ねっ? 」
柔らかな声で囁き、微笑む。
「兄さん、僕の好きなお店……覚えてたの?
一度だけしか行ってないのに……」
「うん、凛が美味しそうに食べてる顔が、
あんまりにも可愛いかったから……ちょっと
子供っぽいかな? 」
しょんぼりとしていた表情が、みるみると明るい笑顔に変わっていく凛は、首をふるふると横に振り、
「そんなことないっ! とっても嬉しいよ…
…兄さんっ……大好きッ!!♡ 」
ギュゥウ……ッ♡ っと手加減無しに抱きついてきた。
「ぁは…は、ちょっと……首、苦しい……抱きつくの……いいけど……兄ちゃん……ちょっと死んじゃいそう……」
「うぁ…っ!? ごめん……だっ…大丈夫? 」
「けほっ…大丈夫……いい目覚ましになったよ……じゃあ、」
ギシ……
首に絡みつく腕を丁寧にほどき、ベッドから身体を起こし、
「兄ちゃん、ちょっと外行ってくるけど……
凛はここで寝てていいよ。」
「えっ? まだ四時だよ、もう少し一緒に…
お話して……寝てようよ…」
ベッドに一人、寝そべる凛に布団を掛けなおす。まだ薄暗い部屋の中、見える凛の顔は
少し寂しそうにも見える。
「ふふっ♪ ほんとに可愛いな……凛は…」
しゃがんで、凛の頬に触れ……
「ふぁ…兄さっ……!? 」
「ちょっとランニングに行ってくるだけだから……帰って来て起きてたら、バイトに行くまでだけど、凛の話を聞かせてもらってもいいかな? 」
そう言って、にっこり笑うと指先に感じる熱が、ぐんぐん上がっていく。
「は……ぅ…うん…待ってる……」
「ん? ちょっと熱っぽいけど……」
「大丈夫ッ!! 早く行って……! 」
ガバッ……と布団を頭から被り悶える凛、見ていると何だか面白い。思わず「ふふっ♪」と笑いが溢れ、悶える布団を一撫でし、
「わかった、でもちゃんと布団被ってなよ……兄ちゃん心配になっちゃうから…じゃ…行ってくるね。」
その布団の耳元らしき部分にそう囁き、部屋を後にする。
トントンと階段を下りる足音、凛はそれを
聴きつつ布団を被ったまま愁の枕に顔を埋めている、
“優しい兄さん……好き…ぃ…兄さんが帰ってくるまでに……熱いの……冷まさなきゃ……ぁう……兄さんの良い匂い……♡ ”
自らの火照る身体に指先を這わせ……布団は、暫くの間モゾモゾと悶え続ける。
夏でも涼しく空気の澄んだ時間帯、僅かに聞こえだす雀の囀ずりと、新聞配達のバイクの音を追い抜きながら、まだ朝日も昇らない薄闇色の住宅街を、愁は走る。
“あんまり……疲れない……もう少し、ペースを上げてみようかな…… ”
呼吸は乱さず、駆ける足音だけがグングンと
音量を上げ速度を増していく。
“前は……夕方に走ってたけど……朝の方が、気持ちが良い……ふふっ♪ ……あの日、日向で働かせてもらう事になった日から……色々と変わったなぁ……”
愁は走りながら、日向と真紅のシルビア、
そして葵との出逢いを思い出す………
七歳の頃、突然自我が芽生えたかのように父 涼介に言われた言葉を愁は覚えている。
「愁……強くなれ!! 男と言うのは大切な
人、大事なモノが危険な時、何も出来ないではいけないッ! お前が護れッッ!! 」
力強く語られた。何も考えず「うん。」と
応えた愁は、その日のうちに父の知り合いなのか友達なのかよく分からない男のもとへと連れられ、
「よろしゅうな、少年っ♪ うちのことは……まぁ、師匠とでも……」
「はい……師匠。」
預けられた。笑顔を絶やさぬ軽薄な、若しくは飄々とした……それが師匠と自ら名乗った男の愁から見た第一印象であった。
しかし、柔らかな表面からは想像も出来ない実力に驚かされた。誰かの動きを眼で追えないという事を初めて体験させられ、気がついたら誰かに組み伏される等という事も初めてであった。
そんな師匠に従って、愁は身体はやれと言われた事をやり、こなしてみせろと言われた事は全てこなし会得した、主に加減にまつわる事だったが男の言う事には不思議となんの疑問も感じず、
「ほんとうに、あんた要領がええねぇ、
うちなんかすーぐ追い抜かれそうやわっ♪ 」
「ぁ、ありがと……ござ……います……」
「んふっ♪ やっと素直んなとこ見れたわ……そっちのが、可愛ぇから……うちは好きやけどなぁ。」
「すきっ……て……」
鍛練の途中、男にとっては何気ない会話だったかもしれない……だが美しい顔立ちで嬌然と笑うその姿に、愁は幼いながらも頬を桜色にしてうっとりと見惚れ……
「隙ありッ♪ 」
腑抜けている身体を強烈にぶん投げられたりもした。二週間もたった頃には鍛練のようなものは終わり、師匠と自ら名乗った男は愁を遊園地や動物園、色々な所へ連れまわし、
遊んでくれる遊び相手となっていた。
「ねぇ、シショー……ぼく、あそんでて良いの? シュギョーとか……父さんにつよくなれって言われたんだけど……」
「ええんよ、あんたは十分に強いんやから……子供は子供らしく遊んどったら。」
「そーなんだ……変なの、アハハッ……♪ 」
「ンフフッ……♪ それでええ……ほら、次はどこ行こ……」
手首を軽く振り、けたけたと軽薄な笑み、
光った絹糸のような真っ黒な長髪を綺麗だと思い、見惚れていた事を覚えている。
そんな初めてだらけの一ヵ月が経過した
ある日の朝、目を覚ますと寝床として泊まっていたホテルから、師匠と名乗った男は居なくなっていて、代わりに朝早くにも関わらず父が迎えに来ていた。
「久しぶりだな愁、早速だが帰るぞ。」
「ぅ……ん、父さん……シショーは……? 」
「なにか用事が出来たらしい、あいつらしいというか……まったく……それよりッ、これからは俺がお前を鍛えてやるからなッ! 」
「うん……」
ほんの僅かのあいだ、一緒に過ごしただけの男が居なくなっただけで胸にぽっかりと穴が開いたような……生まれて初めて寂しいと
思った事、父の前で込み上げてくる涙を我慢した事も愁は覚えている。
それから十年、言葉通り父に鍛え上げられ、己の技術を磨く事に明け暮れた。鍛えれば
師匠といわれた男とまた会えるかもしれない、それだけが淡い望みとなり厳しい鍛練に牛のように忍耐強く辛抱しぬく事が出来た。
そこから月日は経ち、淡い希望も忘れかけ、すっかり明るく、優しく、まるで昔に師匠と慕った男のように穏やかになった愁は、高校三年の卒業間近……
「俺……これから先……どうすればいいのか……」
未来は何も思い浮かばなかった。同級生達は将来の夢の為進学したり、希望の就職先を見つけ決めていく中、愁には何故かなにも思い浮かばなかった。
「そうだっ……父さんに……」
そんな悩みを時に厳しく、時にさらに厳しく、鍛えしごいてくれた父に相談すると……
「ぐっ………すまんッ……」
父は頭を下げた。おそらくは鍛練のみに時間を費やさせ他に何もさせなかったり、将来を考えさせなかった事へ対する謝罪であろう。
愁は、今まで見た事もこれから先見る事もないであろう程の脂汗を流す人間を見た、でもそれがまさか自分の父だとは思わなかった……
「あいつの言うとお……いや、もしお前が嫌でなければ俺の会社で……」
「いや……それは大丈夫……」
だから父の助け船に乗りたくなかった、思えばこれが愁の最初の反抗期だったかもしれない。こんな時、師匠がいてくれればきっと解決策を示してくれると思ったが、師匠はいない。父に連絡先を知らないのかと聞いても繋がらないとだけ告げられた。
愁は極めた技術と引き換えに得た無力感で気持ちがいっぱいだった。自分をこうした状況に陥らせた父に対しては怒りという感情は無かったが、不信に似た感情によってしばし父と話せなくなった。
そして無力感と不信感がしっかりと混じりあって虚無感になった頃、将来も夢も見つからず進学する訳でもなく高校を卒業した。
無職はいけない事とだけは思い、フリーターになってしばらくしたある日、弟の凛が満面の笑みで、
「エヘヘ~ッ♪ 兄さん、兄さん、褒めて褒めてー♪ 」
「んー? どうしたの、なにか……」
「僕、ワイヤーを上手に扱えるようになったよ……だから褒めてっ♪ 」
上機嫌にそう言った瞬間、目の前が真っ暗になりそうだった。その日の夜、暫く話していなかった父に問い詰めると、
「あいつは結構前から自発的に……ぁ…
お前みたいになりたいって言ってたぞ!!
こないだ一緒にスパ〇ダーマンのシリーズ
全ぶっ……!? 」
愁はその日、生まれて初めて父にアッパーカットした。父の部屋から去る時、倒れこんだ父は親指を立て、さすが俺の息子と言わんばかりの満足そうな笑みを見せた。そんな父を放置して、凛の部屋へ向かう足取りは重く、
「凛、ちょっと話が……」
焦ってもいたのだろう、ノックして返事も待たず扉を開けた。部屋の四方に張られた鉄製のワイヤーロープ、その上で器用に身体を安定させ遊んでいた凛を思わず抱きしめ……
「ゃ……兄さ……こんな……ぁ……僕……まだ心の準備が……」
「凛、まだ時間はある……今からでも自分の好きな事、やりたい事を見つけるんだよ……
兄ちゃんみたいになっちゃ……」
愁の真剣な眼差しに凛はほんのり頬を赤くして微笑み、ギュゥウ……♡ と抱き返しながら……
「やだなぁ兄さん、僕の将来の夢はもう決まってるよ……」
「えっ……? 」
「これはその障害が出来た時の為の……ぁ、
ちなみに、その夢はねぇ……兄さんのお……」
殆んどの言葉は聞き取れなかった。目には
涙が溜まっていた。しっかりした弟に安心したせいか、自身の体たらくぶりに落胆したのか理由は未だに分からない。
そんな事もあって、バイト先と家の往復の日々はしばらく続き、父に対する不信も薄れてきた、ある日……
「愁ッ! 今日はバイト休みだろ、ちょっと
ドライブに付き合わないか? 」
「ぅ…う……ん……おはよ、父さん……いいけど……こんな朝早く……? 」
スマホの光る画面が眩しく、時間を確認すると朝の五時だった。
「そうかっ! じゃあ車で待ってるからな、
顔洗って着替えて下りてこいッ! 」
「うん……わかった……」
休日の早朝、父が一緒に出掛けようと誘ってくれた。愁は二人だけでの外出など鍛練の時、しかも父の経営する自動車整備工場の裏に作られた鍛練の為だけの施設にしか連れていってもらった事しかなかったので、
「また……何か思い付いたかな……? 」
そんな一抹の不安を抱えつつも久しぶりに父との親子水入らず、内心喜び、眠たい眼を擦りながら着替え一階の脱衣室へ向かう。洗面台で顔を洗い、台所でコップ一杯の牛乳を一気に飲み干した辺りで玄関の方から、
「おーいっ、まだかぁっ? 」
元気の良い父の声。
「はーい、今行くから……」
返事をしながら声に導かれるように玄関を開けると、まだあまり起きている家もない住宅街に底力のあるエンジン音を鳴らし、黒いジープが待っていて、助手席に乗り込み後部座席を見ると、たくさんのポリ缶が載っていた。
「あぁ……お水か……」
河邊家の飲料水は母の拘りで観光地の近くにある水汲み場まで汲みに行っていて、どうやら今日がその日らしかった。
「そうだっ! たまには……こういうのも良いだろッ? 」
「ふふっ……♪ いいよ……新手の鍛練とかだったら……車……粉々にしようと思ったけど……
こういうのなら……」
「はっはっはっ……怖いな、お前はっ!!
よし善は急げだ、出発しようッ。」
ジープはタイヤがアスファルトを蹴飛ばして、猛スピードで発車、
「ねぇ、父さん……もう少しスピード緩めたら? 」
住宅街を出たところで、少しでも父と仲直り……と、言うほどではないが、会話したいと思った愁は間接的にそう言ってみた。
「どうしたッ、怖くなったかっ? 」
「そういうんじゃなくて、折角の景色……
もう少しゆっくり見たいというか……」
若かった頃走り屋だったらしい父の運転は極めて上手かったが、少々荒くもあった。
「ふむ……」
普段ならそんな事を言わない愁の意外な発言に、父もなにか感じるものがあったのか、
素直に従ってくれ、アクセルペダルを踏む力を弱め、
「こんなものか? 」
「うん、法定速度はこんなもの。」
車窓を通り過ぎていく見慣れた町の風景が、細部まで生きいきと際立って見える。
「ねぇ、父さん? 」
「今度はなんだっ、トイレかッ? 」
「違うよ……なんで、こんなに朝早いのかなって……今日は父さんもお休みでしょ? 」
「ああっ! そんな事か、渋滞しないからな
、それに……」
「それに? 」
「用事が済んだら近くの、どこと決めちゃいないが店に寄って朝飯を食うっ! 食い終わったら景色眺めながら味わうコーヒーが、最近の楽しみだッ! 」
映画鑑賞とトレーニングとドライブだけが、父の楽しみだと思っていたが、父は父で日々新しい事を発見しているようで仕事をしているところと、厳しく鍛えようとする姿しか知らない愁には、父のそんな一面が新鮮にも思えた。
川の流れのように車の途切れない渋滞がちの道路も、早朝のこの時間帯はすいすい流れ、ジープは早々と山道に入っていく。
「そうなんだ……」
久しぶりの父との他愛ない言葉のキャッチボール。ふと気恥ずかしさを感じ、まともに顔を見て話せなくなった愁は、頬杖をつき車窓を眺めている。
「そうだ愁っ! お前、好きな人は出来たかッ!? 」
「はっ!!? 」
父の突然の恋愛話、あまりのギャップに驚きを隠せない愁は窓にうっすら映る自身の顔の赤さにも驚いた。
「バイト先とか、元同級生とかいないのかっ!? 」
「ぃ…いないよッ! 恋人どころか女の子の
友達も……言わせないでよ……恥ずかしい……」
「そうなのかっ! 親の俺が言うのもなんだが、お前は良い顔をしている! きっとお前を好いてくれる子が、これから沢山見つかる筈だッ! 」
こういう話題に慣れていないのだろう、父の方をちらと見ると父も顔を赤くしていた。
愁自身、父の口から恋人なんて言葉が出てくるなど想定外で、かなり動揺していた。
「も……もぉ、いいからっ!……恥ずかし……
父親に褒められても、嬉しくないよ……」
「ふっはっはっ……! 心配しなくとも凛も
モテてるからお前も大丈夫だ。しかし愁、
お前最近喋り方が母さんに似てきたな! 」
「あの子は、やさしいし……俺の喋り方
なんて……母さんとばかり話してるからじゃないの……」
山道を風のように駆けのぼるジープ。冷静にハンドルをさばきながら父は首を傾げた。
「むっ!? 俺とも話してるじゃないかッ、
何故俺の喋り方には似ないんだ? 」
「古くさいから? 父さん、昔から好きな
映画を見返した時とか、頻繁に影響受けてそういう変な喋り方になるよね? 普通の時は、もう少し……その……」
カッコいい、子が父親に対してはなかなか
言えない言葉。愁も例外ではない、実際に
父 涼介はとても四十代には思えない程若く、
高身長であり、引き締まった身体も手伝って
今から俳優にでもなれそうな二枚目である。
「むぅ、そうだったか……無意識だな……
だが、変じゃな……むっ? 」
言い掛けて、父はバックミラーに視線を向けた。後ろから聞こえてくるマフラー音に
愁も気付き、
「後ろの車、気になるの……? 」
「懐かしい車だっ! それに運転手は中々に腕が良いっ!! 」
興奮気味に話す父、そう言われると愁も気になり、サイドミラー越しに後ろを見る。
ブォォォン! プシュ…ブォォッ……!
派手なマフラー音と軽快なエンジン音を山に響かせながら、朝日に照らされ輝く真紅の
スポーツカーが後ろからグングンと迫ってきていた。
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