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第七話 愁
八月とはいえ、まだ早朝の冷たい澄みきった空気を切り裂くように住宅街から商店街を抜け走る。人の少ない時間帯だからこそ出せる愁の全力に近い速度は、目にも留まらぬと言う表現が相応しい。
“あの日は……今までで一番緊張したし……今までで一番、ふわふわってして……思い返すと、まだ恥ずかしぃ……”
そんな事を思い出しながら愁のランニングコースも終盤に差し掛かると、息が上がりだし、身体に張り付いたTシャツに汗が滲んでいく。
“あと……二分で帰りつけば、新記録更新……
さすがに……ちょっとキツい……でもっ! ”
最早、どういう鍛え方をすれば人間こんな速度を出して、維持出来るのか……兎に角、愁は歯を食い縛り、更に、更に速度を上げる。脳内を満たすエンドルフィンが見せる、周囲が溶けて流れるような、そんな景色を視界で認識しながら……
「ゴールッ! 」
ギャギャギャギャッ……!!!
家の前を通り過ぎ、靴底を磨り減らし減速する音はタイヤを滑らせドリフトする時に生じるスキール音に似て激しい。
「はぁ……三十km…は…二十四分……新記録……」
時計を確認しつつ、ゆっくりと家の前まで歩き呼吸を整える。一つ余談だが、愁の停まる位置は少々の誤差はあるものの決まっていて
、そこだけ何回かアスファルトの舗装され直した跡がある、近所では車が残したにしては小さ過ぎる道路の削り跡の理由が分からず、不思議な都市伝説の一つとなっている。
“ぅあ……びしょびしょ……シャワー浴びて……準備して……凛、まだ寝てるのかな……? ”
両親を起こさないように、ソッと玄関の扉を開けるなり聞こえてくる洗濯機の音、シャワーも使っているのか湯水が流れる音もする。
“シャワーは良いとして、どうしたんだろ? こんな朝から洗濯機回して…………”
気になりながら靴を脱ぎ、脱衣室に向かう。
誰も起こさないように、足音も気配すらも消して廊下を歩きながら汗で肌に張り付いたシャツも脱いだ。
温 めのシャワーが、ついさっきまで致し、昂っていた体温と色情を徐々に鎮めていくのを感じると、凛はキュッと蛇口のレバーを締め、
“また、しちゃった……最近、ほとんど毎日の気がするけど……夏休みなのに、相手してくれない兄さんがいけないんだ。シーツと布団は洗濯中、マットには消臭剤をたくさんシュッシュッしたし、抜かりは無い…………”
浴室から出て、バスタオルで髪を乾かしながら、視線を宙に這わせて考えをめぐらし、
“僕がこんなエッチになっちゃったのも、兄さんのせい……今まででも十分にカッコ良かったのに、バイト変えてから……もっと柔らかいっていうのか、輪を掛けて優しいっていうか……
ますます好きに、兄弟としてじゃなくて…… ”
愁の顔を思い浮かべるだけで、鎮めた筈の熱が再燃しようとする自身の身体を拭きながら気づく。
「ぁ……もう少しで……戻ってきちゃうのに
、でも……もうちょっとくらいなら……」
更に催す色情は理性を薄め、自然と指先で触れようとさせる……その時……
「凛? 」
「ふゎぁっ!!!? に…兄しゃ……!? 」
ランニングから帰ってきた愁が脱衣室の扉を開けた。咄嗟にタオルで隠す事は出来たが、突然の事にドキリとした心臓は口から飛び出しそうで、声が上擦ってしまった。
「ごめんね、驚かせちゃって。どうしたの?
こんな時間にシャワーなんて……あと洗濯機も…… 」
「ぁ…あぁ、ちょっと……汗かいちゃって……
ぇ…えへっ、兄さんのシーツに……その……染み込んでるから……ぁ……」
“くぅ……♡ 惚れ惚れしちゃう……♡♡
水も滴るって……こういう意味だよねっ……♡ もう少しだけ……眺めて……”
無駄な肉は一片もないが痩せぎすとも言えない、ほどよくしなやかに引き締まった淡い
蜂蜜色の肌はもっちり美しく、滴る汗は
煌めき……
「ありがとう、やっぱり優しいね凛は♪ 」
そう言って見せる家族中に愛でられる猫のように誰よりも人懐っこい笑顔、加えて汗ばんだ愁の身体から匂うフェロモンは、凛をどうしようもなく蕩かせ、
「ふゎ……ぁ…兄しゃ……ぁ…ッ!? 」
「ぉ…っと、危ないよ。」
足元からふらつき、倒れそうな凛は愁に抱き支えられドキリとし、見上げて少し背伸びすれば唇が触れそうな距離感にドキリとし、
ドキドキは重なり、心音が高く、高く跳ね上がり……
“兄しゃ……♡ イケメン…美少年…エッチぃ……匂い……お肌もすべすべ……♡ さすがに寝ててくれないと、この距離は恥ずかしぃ……♡♡ ”
「身体、熱いけど……やっぱり体調悪いんじゃない? 」
「う…ううん、兄さっ……大したことじゃないんだけど、もう少し……支えてくれてたら治るかも……」
「だめだよ凛、折角シャワー浴びたのに俺は汗かいてるし……ッ? 」
“汗なんて、擦り付けてくれても……♡♡
なんだったら僕が丁寧に……ッ!? ”
いつの間にか、はらりと落ちていたタオル……
すっかり再燃しきった熱い昂りが、愁の太腿に凄く、凄く自己主張をしている。
見た途端、それから目を逸らした愁はポッ……と頬を桜色にして、
「ぁ…あはっ……凛も男の子だからね、朝だし……その……生理現象だから……ぁ……兄ちゃんは、誰にも言わないから……」
「ッ━━━━!!? 」
しかし、凛は愁どころではなく顔も身体も真っ赤に湯気だって声にならない声を出し、愁から離れるとタオルを拾い上げ、濡れた身体のまま脱衣室を逃げるように駆け出して行った。
“サイテーッ! 最悪ッ!! あんにゃ……一方的に僕から擦りつけちゃうなんて……兄さんに変態って思われちゃう……ァあッ! 最低ッ!! ”
結局、愁が朝の身支度を終え出掛ける間際になっても、凛は二階の自分の部屋から出て来ない。ノックをして、
「入っていいかな……?」
「はぅッ!? ぁ……ぃ、いいよ……」
そう返ってくる返事は小さく、中に入ると床には湿り気を帯びたタオル、そしてベッドの上にはフルフルと震える人一人分盛り上がった掛け布団。
「凛……もう時間無いから行くね……」
「ぅ……うん、ごめん……お見送りしたいけど、恥ずかしくて……兄さんの顔……見れないょ……」
布団に話し掛けると返ってくる声は絹糸のように細い。
「その……なんて言うか……兄ちゃんは気にしてないから……ねっ? 」
「はぅ……キモがったり……嫌いになったりしない……? 」
「心配しなくても大好きだよ凛。兄ちゃんが可愛い弟を嫌いになるなんて、ありえないでしょ? 」
「ふゎっ!? 」
「大好き」の言葉に反応して、驚きの声を上げ布団から顔だけを出した凛。その顔は真っ赤で、視線もどこか落ち着かず定まっていない……それでも何か決意したように愁を
見詰め……
「ぁ…の、僕も兄さんのこと……好きっ……大好きだから……」
掛け替えのない可愛い弟。布団から出た小動物のような愛らし顔で、そんな事を言われると胸の奥底からキュンとさせられ、思わず生乾きの髪をくしゃくしゃと撫でながら、
「ふふっ♪ そう言ってくれて、ほんとに嬉しいよ……」
ベッドの脇にしゃがみ、顔を近づけた。凛は恋人にしか見せてはいけないような蕩けた表情を浮かべ、
「ゃ…やさしくして……」
一言囁き終わると、唇を薄く開いたまま瞳をゆっくりと閉じる。そんな弟の妙に色気のある雰囲気に慣れているのか、クスリと笑い、はだけた布団を肩に掛け直す。
「冗談でもそういうの、大切な恋人が出来た時にしなきゃだーめ。それより服着なきゃ湯冷めしちゃうよ? 」
「ぷ━━っ! いけずーっ!! いい感じだったのにぃ……」
「アハハッ♪ そんな頬っぺた膨らませちゃだめ、せっかく可愛いのに。 」
屈託のない見た者を誰でも惚れさせそうな笑顔を凛の間近で浮かべ、ぷくっと膨れた頬に指先でぷにぷに触れると、
「はッ……ぇっ!? 」
栓が抜けた浮き輪のように頬はしぼんで、残ったのは只々恥じらう可愛い弟だけ。
「うん、可愛い……♪ じゃあ時間無くなりそうだから、いってくるね。」
「ぇ…ぁ……ぃ…いってらっしゃぃ……」
すくっと立ち上がった愁は、放心気味の凛に笑みを向けたまま部屋を後にし、家を出た。
部屋に一人残された凛。階段を下りる足音を聴きながら愁に撫でられた髪に触れ、惚けた顔に、にんまりと明るさがにじむ。
“あんなのぉ……ズルいッ♡ 兄弟だって惚れちゃうぅ……♡ 僕の好きは本気のだからねっ……まだ……意識すらしてもらってないけど……いつか……♡ ”
愁に対する恋慕の炎は兄弟の垣根をとうに焼き払い、今日もより熱く強く凛の心の中で燃え盛るのであった。
朝日が空を橙色から薄紫色のグラデーションに染めていく。見慣れた住宅街をジョギングとは違い、ゆっくりと歩く愁は腕時計を見ながら凛の事を思い出し口元が緩む。時計の針は六時十五分を指している。
“相変わらず素直で甘えたがりの可愛い子だなぁ……最近、ちょっと距離が近すぎる気もするけど……「兄さん嫌いッ!」とか言われるよりは、いいよね……♪ ”
そんな事を思いつつ緩む口元を、すれ違いだす通行人に不審がられないようにグウにした手で隠し歩いていると、待ち合わせ場所の
黒鉄駅が見えてきた。
“いつもながら、ちょっと早いかな……でも、人を待たせるの苦手だし……涼風さんに早く会いたいし……”
開店準備を始める七時に間に合うように、待ち合わせの時刻は六時四十分。駅から日向まで葵の普段通りの運転で十五分以内で到着するので、早く待っている必要もないのだが、いつも早めに着いてしまう。
“初めてだなぁ、こんなに人を好きって思うの
……しかも男の人なのに……でも、涼風さんに知られたら……困らせちゃうだろうし……”
待ち合わせ場所に到着した途端、「はぁ……」と、ため息をつく。
“最初は綺麗とか笑顔が可愛いとか外見だけで好きになっちゃったけど、涼風さんの魅力はそれだけじゃなくて……誰にでも優しいし、少しおっちょこちょいで……でもそこがチャーミングで好き……車の運転は超が付くくらい上手くて運転中のカッコいい涼風さんも……”
三ヶ月、一緒に働き近くで眺めていた葵の姿が尽きる事なく次々に頭によぎり、何ともなしに青くなっていく空を見上げると、微笑みらしいものが浮かぶ。
“こんなに幸せな気持ちにさせてもらえるだけで十分じゃないか……それに全然、影も形も見えないけど彼女さん、いるかもしれないし……
今、こうやって一緒に働けるだけで俺は……”
ブォンッ! フォォォォンッ!! ファァアァン…プシュ……フォォォォンッ! …………
もう聞き慣れたシルビアの音が、遠くから次第に大きくなり、近づいてくるのが分かると
笑みで緩んだ顔を引き締める。
“いつも通り……この気持ちは、心に抑えて……だって……”
立っている場所に横付けされた真紅の
シルビア。昇ってきた朝日に照らされ鮮やかに煌めく車体は生物のように振動し、低い排気音を鳴らす。愁は笑顔に戻り、助手席の
ドアを開け……
「涼風さん、おはようございます。 」
開口一番挨拶をすると運転席に座る初恋の相手は、ほんのりと頬を赤く染め、
「うん、おはよう……河邊君♪ 」
挨拶を返しながら天使の羽がふわりと散るような、屈託のない笑みを見せる。
“素敵な笑顔……ずっと、見ていたいもの……”
愁は自分に言い聞かせるように心の中でそう呟き助手席へ乗り込むと、シルビアはマフラーから排気音を響かせロータリーから発進していく。
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