6 / 30
第六話 出逢い ③
山道沿いの青々と生い茂る木々に囲まれるようにたたずむ一件のお店、その駐車場に
真紅のシルビアと黒のジープが仲良く駐まっている。
珈琲店 日向と書かれたレトロ風の看板が入口の軒下から提げられている。深い藍色の欧風瓦屋根に漆喰の白壁、特徴の露出したティンバーフレームは近隣の店舗とイメージが違って、まるで童話に出てくるお店のようであった。
「美味しいっ!! ふっくらしてて……
すっごく美味しいです……♪ 」
その店内のカウンターで、芳醇なバターの香るふわふわの卵焼きが挟まれたサンドイッチを頬張る愁の幸せそうな顔を、頬杖をつき
微笑ましく眺める葵。
「大したものじゃないよ、でも……そう言ってくれると嬉しいな……ふふっ♪ 」
吹き抜けの天井を四角くくり貫いた大きな天窓、そこから射し込む柔らかな陽射しはカウンターを中心に店内を明るく照らしてくれている。それが舞台のスポットライトのように葵を照らし……
“はぁ……神様はどうやって……いったい何と何を組み合わせればこんなに綺麗な生命が……”
心憧れ、ただ氷の入ったグラスに珈琲を注ぐ姿さえ演劇のように美しく、
“父さん……母さん……凛……俺は……恋に堕ちました……”
「あはっ♪ 河邊君、そんなに口の周り
お弁当つけちゃって……かわいいね。」
見惚れ、浮かれ食べ進め、結果、口の周りにぺったり張り付く卵達、
「はッ……すいませ……!? 」
“美味しい……美味しいはずなんだけど……それよりどうしても……”
残ったサンドイッチを、慌てて口に頬張る。おかげで喉に詰まり咳き込む様は滑稽に見えたのか、クスクスと抑え気味に笑う葵に
紙ナプキンを渡されたりもした。
「ゴホッ……ぁ、ありがとうございます……ごちそうさまでした、本当に美味しかったです……」
“笑われちゃったけど……笑った顔も……
素敵だ……ずっと見ていれたら幸せだろうな……”
「ありがとっ♪ まだ口の周り残ってるよ?
ふふふっ、しょうがないなぁ……」
「ん……!? 」
指に挟んだまま使わずの紙ナプキンを、
あっさりと抜き取られた。子供の世話を焼く母親のように葵は惚ける愁の口元を拭いてくれ、
「はい……綺麗になったところで、こちら食後のアイスコーヒーでーす♪ 」
カランッ……と氷と氷があたる涼しげな音を鳴らし置かれたグラスは持つと、ひんやりと冷たかった。葵のやさしさにぴったりな澄んだ声にうっとりとして、グラスに注がれた
コーヒーさえ沸騰させることが出来そうだと、本気でそう思った。
「ぅあ !? すいませっ……お手数ばっかり……」
「気にしないのっ♪ あっ、シロップとミルクいる? 」
“ダメダメなところばっかり見られちゃってる……子供っぽいって思われそう……ほんとは、苦いの苦手なんだけど……”
「いえ、ありがとうございます。 ブラックで大丈夫です……」
シロップもミルクも入っていない真っ黒な
珈琲を一口がぶりと飲むと、じわじわ酸っぱそうな顔になっていった。
「ぅん……美味しぃ……です……ぁの、良かったら……ちょっと味変したいので、シロップも
ミルクもください……たくさん……お願いします……」
「ふふっ……はいはい♪ 」
カウンターに置かれた二つの小さな銀色のピッチャー、すっかり甘く、白く生まれ変わったアイスコーヒーを半分飲んだところで、
葵はちらと大きな窓に映る外を見た。
「お父さん、ほんとに車好きなんだね……
全然戻ってこないや。 」
「はい、昔からああいう車が好き過ぎて、
仕事にしちゃったくらいですから……」
少し前、父 涼介は出された朝食をバクバクと食べ終わるなり席から勢いよく立ち上がり、「ごちそうさまっ! 旨かったっ!! 」と葵をまた怯えさせ、「君の車っ! 見させてもらっていいかなっ!? 」と、葵の返事も待たず嵐のように駐車場へと駆けていった。
「カッコいいっ!! 」「最高だっ! 」と
時折店内の静かな空間に響いてくる大きな声で、涼介が駐車場でシルビアを興奮しながら眺めていることがイヤでもわかった。
「ぁは……は……」
父の声が聞こえる度、恋とは別の恥ずかしい気持ちが沸き起こり顔が熱くなる。空いた皿を厨房へ下げ、戻ってきた葵は隣の椅子に座り、
「でも、悪いお父さんじゃないよね、なんかさ……」
赤らんだ顔を隠すように伏し眼になる愁に、朗らかな笑みを浮かべ接してくれて、
「すばらしぃぃ……ぃぃ……ぃ……」
「っ…………!? 」
喋りかける葵の声を遠くからでも遮る父の
山彦に困ったように頬をぽりぽりと人差し指で掻き、苦笑い、
「はは……うん……ちょっぴり、変わってるけど……ぅん……」
それ以上、父に対しては何も語ってくれなかったが、そんな葵を見てなにか吹っ切れた愁はクスッ……と、つい笑みがこぼれ、
「まぁ、あの父さんの水汲みに付き合ったおかげで……こんなに美味しいサンドイッチが食べれたんだから、感謝しないと……」
「あははっ♪ いいってそんなお世辞……」
本音を伝えると、葵は少し照れくさそうに
自分の髪を撫でている……そんな仕草も可憐と思い、
「その……涼風さんと、お知り合いになれたのも……最高に嬉しかったですし……」
「はぇっ……!? 」
更に本音を伝えると、驚いて仰け反ったかと思えば急激に手足を身体の中心に引き寄せ、
もじもじと身体全部で恥ずかしいを表現していて、
「僕なんかと、ぁははっ……それは、僕も
嬉しいかな………最高にって……ぁ……」
ふと眼が合うと、はにかみ俯いた。
“うわ……ぁ……”
仕草の全てが可愛いで埋め尽くされていて、
今の自分では耐えきらない、初対面でなにか
とんでもない事を言ってしまう、
「す、すいませ……初対面なのに、なに言ってるんでしょうね……はは……それにしても……」
そう確信し、話題を逸らした。
「ぃ、いつも一人で水汲みに行ってるんですか? 」
「ぁ、うんん、初めて……実は常連のおじさんがね、あそこのお水でコーヒー淹れたら美味しいって言ってたから……」
“その常連さんにも……感謝しなきゃ……”
「今日は、お店お休みだからちょっと試しに
ね、でも重たくて……僕、力弱いから……
君には、ほんとに感謝してるんだ。」
「そんな大したことじゃ……あぁ、でももし
次に行くんだったら他の店員さんと一緒に行った方がいいかもしれないですね。 」
葵と話していると心をくすぐられたみたいに楽しくなって、同時に底知れぬ寂しさが段々と胸に近づいて来る。
“ほんとに……ずーっと話していたいな……
でも、涼風さんにも予定があるだろうし……
何より父さんもさすがにそろそろ戻ってきて
「帰るぞッ! 」って……言われたら、俺は……帰らなきゃだし……帰りたくない……ってこれも子供っぽいかな……”
「あー、うちのお店……僕一人しか居ないから……」
なすすべなく色々な思考が頭脳の中に走馬灯のように流れる最中、葵がポツリと呟き、
「えっ? 」
店内を改めて見回してみる。街中にある
テナントカフェよりも広い客室、カウンターの後ろの壁には配膳用らしき横に長い窓枠があって、その奥には広めの厨房が見え、
「こんな広いとこを、一人で……」
カウンター席の他に、壁際にテーブル席が
八卓ほど、おまけに暖炉を囲むゆったりとしたソファ席、更に外のテラスにもテーブルが用意されている。
「今は居ないけど、ここオーナーの親戚の
別荘だったらしくて、使われてないからって改装したらこんな広くなっちゃったらしいんだ……」
「お客さんが多い時とか、大変じゃ……」
「あはっ……昼間とか地元のおじさんとか、
おばさん達が、お喋りの場所に使うくらいで、そういうのは無いかな……」
楽しげだった葵の表情からフッ……と力が抜け椅子に背もたれ、高い吹き抜けの天井を見上げ、「はぁ……」とため息をついた。
「ちょっと疲れちゃった……この屋根も雨漏りとかあると大変なんだよ、自分で修理しようとして、落っこちそうになったりさ……」
「そんなっ……」
愁は、葵のそんな悲しげな表情を見ているとナイフで胸を貫かれたような苦しさを感じ……
“さっきの笑顔が嘘みたい……この人に、
こんな寂しい顔してほしくない……何か……”
痛みにも似た心配が、分かりやすく顔に出ていたようで、それに気付いた葵は、はっとして笑顔に戻り……
「アハハッ……ごめんね急に変なこと言っちゃた……初めて会った君に……なんで僕……あっ、飲み物……」
「いえっ……お構いなくっ……あの、」
「そうだっ、今度は甘いカフェラテに……」
カラン……と氷だけになったグラスを下げようと伸ばした葵の腕を、愁は反射的にキュッと掴んで、
「それよりっ……」
「へッ!? 」
突然の事に驚く葵、それよりも大胆に腕を掴んでしまった事、将来の夢も希望も何も無く、願いすら無かった己の胸に今、明確に
願望が出来たことに愁自身が驚きで心臓が
激しく動悸している。
「な……ッ、なにっ!? どうしたの……
やっぱオレンジジュースが良かっ………」
「いえッ! 甘過ぎるくらいのカフェラテ
お願い……ッ……じゃなくてっ……」
父でも、師匠でもない己の願望、叶うかどうかも分からない……
「もし、一人で大変なら……ここで俺を、働かせてもらえないでしょうか……? 」
「っ……!!? 」
恋の初風に吹かれ浮かんだ、ただ一つの願いであった。
「はぅ……嬉しいけど……突然、困るょ……
うち、繁盛してないから……お給料なんて、
そんなに出せないし……」
「お願いしますっ! 俺、好きになってしまって……」
その言葉を聞くや否や、葵は雷に打たれたように瞳を大きく開き、
「ぁえッ!? す、好きって……そんな……
困る……初対面だし……確かに、君を初めて見てから胸がドキドキしてるんだけど……」
とても小さな声で問わず語り。愁の方は畏まり、握った片手の平では汗が滲み、声を聞き取る余裕も無い程度には緊張していて、
「このお店の雰囲気も、この場所も……それに……っ」
わずかに残った理性だけが、ギリギリで気持ちを塞き止め、生まれたばかりの内に秘めた心だけは告げずに呑み込む。
“初対面でどこまで晒すつもりなんだ俺は……
でも……迷惑かな、俺みたいなの……
突然だし……”
金魚みたいにパクパクさせている口を閉じた葵は、カァァァッと燃えるように頬を紅く染め……
「ぁ……あっ! ここ、ここがねっ……ぅん……そ、そうだと思った……ぁ、はは……」
妙に落胆したような……クラスの席替えで好きな子の隣になれなかった少女のような表情を浮かべ、
「は……はぃ……あの、なんでもしますから……お願いしますっ……」
「んーッ、ちょっと待って……考える……考えるから、一分だけ待って……」
愁の声は真剣で、その気持ちだけは伝わっているのか眼を閉じ考えている。
静かな客室、愁は息が出来ないほど身体が固くなって、
“接客とか……わからないけど……俺は給料なんて……ぁ…いや、逆に気を遣わせ……”
罪を犯しているような気さえして、一分が
永遠にすら感じ始めた頃、頭の中で考えがまとまったらしい葵は眼を開き「うん……」と発し、花が咲くように次第に唇をほころばす。
「お願いしようかな……力仕事とか出来なかったこと、君がいたら出来そうだし……」
「ほんとですかっ!? あぁ、良かった……
ありがとうございますっ! 」
その笑みに、愁は心底ホッとして顔一杯に嬉しさを現わして喜んだ。
「君の真剣さも……その、伝わってるから……シャツに汗が染みるくらいには……さ。」
「ッ……!!!? ごめんなさい……」
腕は掴んだままだった。気付いて離すと、
そこの布地だけがしっとりとしていたが、
「フフッ♪ いいよ別に、新手の握手だと
思えば……これからよろしくね、河邊君。」
葵は気にもせず、気遣うようなやさしい笑みを浮かべてくれた。しかしその無意識に美しさを振り撒いてしまう笑みは、安堵と共に
うぶな愁の緊張を呼んでしまい、
「こちらこそ……ふ、不束者ですが、よろしく
お願いします……です……」
「ぁうっ、それってなんか……」
風変わりな挨拶をさせてしまう。二人の間には、ほんのりと甘い空気が……
「話はまとまったかッ!! 愁っ!! 」
「ひっ!!? 」
「ッッ!? と、と、父さんッ……」
漂いかけてに客室に響くような大きな声に
吹き飛ばされた。二人して声のする方に振り向くと、愁の隣に堂々と座り腕組みしている
父がいて、
「ぃ……いつから……そこにっ!? 」
「お前が、ここで働きたいと言ったあたりだっ!! 」
殆どの会話を聞かれていた。二人は涼介が
居ても気付かないくらいには、互いに集中しあっていたようで、愁は余りの恥ずかしさにバッと俯き、涼介を見れないでいる。
「ぃ……居るなら居るって……言ってよっ! 」
「はっはっはっ! お前が誰かに一生懸命に願い事してるのが珍しくてなッ! つい嬉しくて声をかけられなかったっ!! んッ!? 」
涼介は満足そうに笑いながら、その隣で
小動物のように気配を消して縮こまっている葵を見つけ、
「涼風君っ!! 」
「ひっ!? にゃッ……なっ……なんでしょうか……お父様ッ……」
まだ大声に慣れず怯える葵に、にっかりと白い歯を見せ笑ってみせ、
「親の俺が言うのもなんだが、こいつは要領もいいし、よく働くっ! きっと役に立つ筈だッ!! 」
自分の息子を褒めるような、涼介なりに気を遣った父親らしい言葉。その声に迫力だけではない……普段とは違う優しさ、親子の絆を
感じ、俯いている場合ではない……と、涼介の方を見上げ、
「と……父さん……」
“そこまで……普段あんなに訳わかんないのに……その落差で……ちょっと涙が……”
感極まりそうな愁。涼介はそんな息子の肩を
バンッ! と叩き、
「それに、こいつは君に……惚ぐッ!!? 」
「父さんッ!! もう大丈夫だからッ!?
子供じゃないんだから後は俺が話すよッ! 」
言いかけたところで、稲妻を超えた速度で口をピッチリと塞がれ言葉を強制的に終了させられた。愁は少々の間、もがく涼介を取り抑えながら、「ぁははっ……」と、まだ少し震えている葵に愛想笑いをする。
「父さん、先に車に戻ってて……俺も、少ししたら戻るから……ねッ? 」
「ぶはっ!? ……今のはッ……本気で危なかったぞっ……ふはっ! それだけ本ッ……」
手を離され、懲りずに言葉を続けようとした涼介に念を押すように、
「ねっ!!? 」
鋭い語気で放ち、黙らせた。それでも涼介の笑顔だけは変わらず椅子から立ち上がり、愁の耳元で……
「ククッ……♪ お前が恋をするなんてなぁ……相手が誰であれ、母さんや凛がなんと言っても、父さんは応援してるから……」
ボソリと囁く。久しく聞いていなかった涼介の素の口調、猫の手のように柔らかく甘い声に背筋がゾクリとして……
「ぁ……もぉ……ぃ、いいから……早く、
行って……本気で怒るから……」
照れたみたいに顔を背ける息子を見て、涼介は満足そうにぽんぽんと撫でるような手つきで頭を叩き……
「じゃっ、待ってるよっ……それと涼風君っ ……」
「は……はいっ! 」
「コホン……重ね重ねっ、息子を頼んだっ
!! 」
故意か無意識かさっきまでの口調に戻った
涼介は葵に一言告げ、ニカッと明るい笑顔で客室を後にした。
「はぁぁぁぁ……」
と、しばしの静寂のあと長いため息を吐き、葵の張り詰めていた表情がみるみる弛んでいく。
「すいません……父さん、驚かせてばっかりで……」
「平気、僕が気弱なだけで……いいお父さん
だよ……ちょっとこわ……元気があって不思議な人だけど、思い出すと笑っちゃうし♪ 」
「そう言ってもらえると助かります……
ははっ……♪ 」
「ふふっ……それじゃ、出勤の方法とか色々
相談しよっか? 」
「はいっ! 」
これから二人で営むことになる珈琲店 日向
珈琲豆の香ばしい香りが、ほのかに漂う広く静かな客室に、ほんわかと楽しそうな愁と葵の声がはずむ。
ともだちにシェアしよう!