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第八話 日向 ①

塗料の剥げかけた白線に仕切られ、八台程停められる広さがある日向の駐車場は道に沿って設けられている。一番端にシルビアを駐め、降りる二人の話はまだ終わっていない。 「ねぇ……教えてよ~♪ 」 「なんでもないですって……勘弁してくださいよ……もぉ……ふふっ……」 駐車場からテラスへ伸びる木製の階段を上りながら、からかうように愁と顔を向かい合わせ、後ろ向きに階段を上る葵は残り数段という所でピタリと足を止め、 「ほらっ、今笑った。ねぇ……いじわるしないで、気になっちゃうじゃん。」 「そんな大した事じゃ……それに、今のは涼風さん……可愛い人だなぁ……って思っただけで……」 「ッ…………!? な……なんだよ……年上の僕に可愛ぃって……」 「ごめんなさい……つい……本音が……ぁ……」 言われた葵の頬は赤く染まり、のぼせたようにボーッとしたかと思うと前を向き、スタスタと階段を早足で上りきった。 「な……なんか、さっきの話……どうでもよくなっちゃった。ぼっ……僕……サンドイッチ作ってくる……出来たら呼ぶから……」 愁の方に見返る葵。浮き上がる喜びを無理矢理抑えたような火照り顔は、見ているだけで、恍惚とさせられてしまう。 「は……はぃ……じゃあ、俺はこの辺の掃除を……」 こくりと無言で頷く葵。恥ずかしいのかプイッ……と顔を背けたと思うと、パタパタと店の扉の方へ駆けていき急いで鍵を開け、中へと入っていった。 「可愛ぃ……」 心の声が漏れ、階段に一人あの横顔に魅了され呆然と立ち尽くす愁。葵に負けないくらい熱くなった顔を冷ますように首を振り、惚けた顔をパンッと叩く。 “涼風さんを見てると……ほわほわしてしまう… …最近は、特に……さっきだって好きだって言ってしまいそうだったっ……気を引き締めないと…… ” 毎朝、駅前で葵に挨拶する前に心の中で自分に言い聞かせる、おまじないのようなものの効果は日々薄れていく。自分の気持ちが抑えられず葵に知られ、もし拒絶されたら……想像するだけで身震いする。 「はぁ……考えてもしょうがない……今は仕事をしなきゃ……」 自分に言い聞かせるように一人言を呟く。 階段を上り、掃除用具入れのある裏口の方へと歩いて行く。 一方、日向の厨房。食材の仕込み等を手際よく終わらせた葵は、黄色い卵液ののったフライパンを揺すりながら菜箸で素早くかき回す。液は段々とふわふわに、ガス台の周りは香ばしいバターの香りに満ちていく。 “可愛いって……言ってくれたっ……♡ って…… 喜んじゃいけないんだ……でも……お世辞だとしても嬉しっ……じゃなぃ……注意しなきゃ…… さっきは、思わず抱き着いちゃいそうだった……” そう思いながらも喜びの気持ちが鼻歌となり、そのリズムに合わせふわふわを畳んでいく。それを調理台にあらかじめ用意していたマヨネーズとマスタードを塗ったパンの上に重ね…… “うん……上出来♪ お客様に出すのより美味しそう。” パンの厚みより分厚い卵を挟んだ、ふわふわの玉子サンドが完成した。愁の喜んで食べる姿を想像するだけで、葵の口元には笑みが浮かぶ。 “えへへっ……♪ あとは……ツナサラダと…… いつものミルクとシロップ多めのアイスコーヒー……” テキパキと皿を出しサラダをよそい、氷の入った透明のグラスには挽きたてのコーヒー、続けてたっぷりのミルクとシロップも注がれる。 「すぅ━━っ、はぁ━っ……よしっ! 」 深呼吸、愁を前にしても先程のような動揺を表に出さないように、 「ね……念のため、もう一回……すぅ━━っ… …はぁ━━━っ……うん、大丈夫っ! 」 念入りな深呼吸で完璧に取り戻した平常心。 瞳は自信に満ち溢れ、綺麗な顔には、いつも通りの整った笑みが浮かぶ。朝食をのせたトレイをカウンターへと運び、軽快な足取りでテラスへ向かう。 日向を囲むように生えた樹木は、長い間枝切りをしていないおかげで気の向くままに枝を広げており、テラスからの景観を損ねている。愁はそれが休みの前日から気になっており、今手元には枝切り鋏を持っている。 “朝食の前に少し、お手入れしなきゃ……” そう思うと同時に、タンッ……! と床板を 一蹴り、木に跳び移ったと思えば映画に出てくる忍者のような跳躍力で、木々を蹴りながら上へ上へと昇っていく。 “上の方……まだまだっ……” 昇るたび細くなる木の幹のしなりをバネ代わりに高々と跳びきる。木々の身長を遥かに超え、一瞬宙に浮いた愁は片手に持った鋏を両手に持ち替えると重力に従い、一気に落下する。 スパンッ! スパンッ!! ズパパッ!! …… 落下しながら一定の線からはみ出した枝を切り落とし、時折、幹を蹴り凄まじい速度で 落下方向を変えながら常軌を逸する剪定を続け、その軌道は縦横無尽に駆け抜ける稲妻のようにも見える。 “あと、一本……” スパンッ……!! 最後の一本を切り終え、スタッ……と華麗な着地を極める。余分にはみ出た枝のせいで少々不気味な印象すら持たれそうだった木々達は剪定を終え、すっきり気持ち良さそうに風に靡き、テラスには地面に落ち損ねた葉が舞い落ちる。 “さて、次は……ぁ……ダメだ、ほんの少し顔を思い浮かべるだけで……熱ぃ……落ち着かないと……いつも通り……” 油断すると、葵の事を考えてしまう自身に強く言い聞かせる。軽く深呼吸をして鋏を置き、箒に持ち替えた愁はシャッ……シャッ……とリズミカルに、テラスに落ちた葉や小枝を掃き始めた。 “足音まで、魅力に感じるなんて……俺は、 どれだけ涼風さんが好きなんだろ……” テラス全体を掃き終えた頃、愁の耳に葵の軽快な足音が聴こえ、そうして間もなく、店の扉は勢いよく開かれた。 「お待たせーっ! 出来たよっ! 」 「ありがとうございます。あと少し、落ち葉を集めておしまいですから……」 「わぁ……」 扉を開けると葵風景が変わって見えた。 テーブル、椅子は勿論、周囲の手摺まで綺麗に掃除されたテラス。樹木達はいつもより軽やかで、隙間から吹く風も心地よく、葵からは自然と晴れやかな笑声がもれる。 「あはっ……やっぱり丁寧にお掃除してくれると、お店も明るく見えるねっ♪ 」 「そう言ってもらえると……」 愁のお腹がかすかに、クゥーッと情けない音を発する。 「ぁう……嬉しいです。でも……ちょっと、お腹空きました……ぁははっ」 「はぅッ!? 」 恥ずかしそうに見せる笑顔は無邪気な子供のようだった。その余りの愛らしさに、葵の完璧だった平常心は早速揺らぎだした。 “もぉ━━っ、可愛ぃっ……!!♡ ♡ 格好いいのに……可愛いって……もう反則ッ! せっかく……ドキドキが治まってたのにっ…… ” 見惚れてしまい、ポーッとして頬も知らず知らずに赤く染まっていく。 「ぁ……あの、涼風さん? 」 「はッ!? あっ……早く食べてッ! サッ……サラダが冷めるッ! あっ、あと開店時間になっちゃうからっ!! 」 「えっ、サラダは最初から……それにッ、まだ時間……そんなグイグイ押さなくてもっ……」 我に返った拍子に羞恥心が強まり、どうしようもなく身体が火照る。まともに愁の顔も見れず、「ぃ……いいからっ! 」と裏返った声を漏らしながら、愁の背中を押し店内に押し込んだ。 カウンターでサラダを食べ終え、サンドイッチを頬張る愁。葵は店の裏側にある休憩所兼喫煙所で、深呼吸と喫煙の身体に悪そうな合わせ技を使ってどうにか落ち着きを取り戻した。今は愁の隣に座り、そう……出会ったあの日のように頬杖をついて、愁が美味しそうにサンドイッチを頬張る横顔を眺めている。 「もぐもぐっ……ごく……はぁ……美味しいですっ♪ 全然飽きないっていうか……なんていうか……」 “最初の頃のまんま……河邊君と初めて会った日……お水運んでくれた時の優しい笑顔も素敵だった……こうやって、サンドイッチ頬張ってる可愛い顔も可愛いかった……突然、働かせてって言われた時の……真剣な表情も格好良くて好きになっちゃった……手をギュッて……握られた時のことも……” 思い出が止まらない。そして愁の事を考えていると、表情が緩まり心音が高鳴る。二人きり、静かな店内で過ごす朝の一時が、今の葵の最高に幸せな時間である。 「でも……ほんとに好きなんだね、玉子サンド 。こんなの何処で食べても一緒じゃないの? 」 なんとなく車の中で、誤魔化されたようになっていた事を聞いてみた。愁は「へっ……? 」と間の抜けた声を漏らしたと思うと静かな店内で、この距離だから聴こえるような小声で…… 「言ったでしょ……好き……なんです……」 「なんで好きなのかが、知りたいの……なんか気になっちゃって……ダメ? 」 “なんで、こんなに気になるんだろ……? なんか……河邊君の反応が、いつもと違って気になったのかな……でも、悩んでる河邊君も……可愛っ♡ ” 頬杖をついて眺めていた。声が聴きづらいので距離も近づいて、葵の質問にうつ向く愁に合わせ、首が斜めになって下から覗き込むようになっている。 「ごめんね、悩ませちゃって……また今度で いいよ……」 「ぃえ……その、正直に言うと……特別な…… 初恋の味……と、言うか……ッ」 ズギュ━━ンッ………!! 思わず、両手で胸元を抑えた……それほどには胸が痛い。本当に、身体のど真ん中を弾丸に撃ち抜かれたような衝撃に、思考は追い付かずクラクラと目眩する。 “だっ……誰が作ったのッ!? 幼馴染の女の子!? 卒業した高校の同級生の女の子!? 下級生の女の子!!? まっ……まさか、女教師の毒牙にッ!!?? サンドイッチくらいで河邊君の心を掴むなんてっ…… ” 平常心は完全に消し飛んだ。心がざわつき変な姿勢で聴いたせいで、目眩と同時に頬杖が崩れ、椅子からも崩れ落ちた…… 「いッ……!!? 」 瞬間、愁は「危ないッ……」と発する自身の声よりも速く、身を乗り出し前のめりに倒れそうな葵の身体をしっかりと受け止める。 「大丈夫ですか? だめですよ……気をつけないと、ケガしちゃう……」 「ご……ごめッ…………ぁ……」 まるで、大切な宝物を扱うように優しく両肩を支えられる。真正面から至近距離で互いを見詰めあい映画や、或いはドラマであるなら これからキスシーンでも始まりそうな雰囲気だ。 「はぁ……ありがと……あの、もぅ……大丈夫だから……」 “全然、大丈夫じゃなぃ……好きな人……居るんだ……元々……期待もしてないけど、知っちゃうと……やっぱり、悲しいょ……” 「でも……身体、震えてます……怖かったでしょ……? よければ、少し支えてますよ……」 「ぅ……うん……ぁ……あのさ……」 愁の優しさに、蕩けそうな身体を支えてもらう……ほんの少し、勇気を出せば唇を合わせられる距離で、もう一つ聞いてみる。 「初恋の人って……今も、好きなの……? 」 聞くと葵の身体を支えてくれている愁の手がビクッと震え、視線を逸らされた……答えは、 聞かなくても葵には分かった。 「は……はぃ……初めて出会った日から……今もずっとっ……だけど、ふふっ……きっと片想いです……」 “はぅ……羨ましい……河邊君に……好きって思われる人……でも……なんか……” 言い終えた愁の瞳は熱っぽく、じっと見詰められ続けていると…… “僕に言われてるみたいで……ドキドキしちゃうなぁ……こんな感じで、いつか初恋の人に告白……するのかな……” その熱は伝染して、手持ち無沙汰な両手は無意識に愁を求め脇腹に触れる。葵は、瞳を閉じ…… ボーンッ……ボーンッ……ボーンッ…… 同時に壁に掛けられた振り子時計が八時を伝える音が客室に響き渡る。その音に驚き、閉じかけた瞳を開くと、愁は先程までと変わらず微笑んでいる。 「時間ですね……もう、大丈夫ですか……? 」 「ぅ……うん、ぁりがと……」 「食器、片付けたら下に行ってきますので……」 それを聞いて肩から手が離れていく。ずっと離さず、このまま抱きしめていて欲しいと叫びたい……そんな気持ちをグッとこらえ、いつもの笑みを顔に貼りつけた葵は…… 「うん……ぁ……片付けは、僕がしておくから……暑くなったら、ちゃんと中に戻って来て……」 「ありがとうございます……では。」 愁は立ち上がり会釈をすると、扉の方へと歩く。その足取りは、いつもより速いが今の葵に気付く余裕はなかった。 カランッ……カランッ…… ドアベルが鳴り、愁が外に出ていった後も葵は扉の方を見詰め…… “なに考えてるんだ僕はっ……河邊君の優しさにつけ込んで……あのまま、キ……キスまでしちゃいそうだったッ……そんなのダメだ…… 河邊君が可哀想だ……こんな……男で、傷物の僕なんかがっ……” 自分にキツく言い聞かせ、愁の熱がまだ残っている肩に触れる。 “河邊君の初恋……叶うと……いいね……” 愁の初恋の人……それが自分であるとは夢にも思わない葵。重い腰を上げ、食べ終えた食器を重ねると、しおしおと項垂れながら厨房へと入っていく。

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