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第十九話 ほどほどに愛しなさい。 長続きする恋はそういう恋だよ。
二十二時を過ぎていた。夜の暗幕が駅前にも落ちていて、帰宅する会社員も殆んどおらず、飲み屋も少なく人通りも少なくなった
黒鉄駅。ドッドッドッ……とマフラー音を鳴らしながら葵の赤いシルビアはいつもの場所に停車している。
「ついちゃったね……」
「はい……」
愁の用意してくれたアップルパイは絶品だった、葵自身も驚くほどに身体は空腹だったのだろう一ホールをほぼ一人で、ぺろりと食べきった後、
「ご、ごめんね……まさか、ここまで遅くなるなんて……」
「いえ、いっぱいお話出来ましたし……俺こそ……スマホ、マナーモードにしてなくて……すいません……」
「あぅっ!? あと、アップルパイ……最高だったょ……ほとんど僕が食べちゃってごめん……」
「それは……あっ、パイの味は涼風さんの唇で十分伝わりましたから……ッ!? 」
「はぅッ……」
「なに言ってるんでしょ……俺……ちょっとおかしいですね……ぁはは……」
珈琲店 日向の客室で、今まで互いにひた隠しにしていた恋慕の気持ちが爆ぜた。葵が
口付ければ愁もお返しに口付けする、甘々な口付けの応酬はアップルパイにも負けないくらいには甘く、
“ぁ……あれは、気持ちかったけどっ……
唇の味まで言われると……照れちゃうょ……
それに……河邊くんだって……”
何度も、何度も、唇を重ねるうちに、
愁は眼を細め心をとろりとさせるような
視線を向けてきて、また優しくふんわりと抱きしめてくれて……
“あんなの卑怯だ……誰だってもっとキスしたくなるし……”
口付けの寸前には、ふわっと微笑んでくれたりもした……
“お腹のおくが……熱くなっちゃったじゃないか……バカ……”
そんな甘い逢瀬は、愁の弟からの凄まじい
回数の着信がなければ、終わっていなかっただろう……証拠に未だに熱をもち続ける葵は、その熱が冷めないよう、シルビアが停まってからもずっと愁の手を握ったままなのだから……
「あれは……君だって……僕にたくさんしたじゃないか……」
「だって……キスしたかったんです……少しも離れたくなかったですし、今だって……」
「ふぇ……ぁ……河邊く……」
薄暗い車内、二人っきりの密室でトキンとして繋いだ手に少しだけ力が入り、愁の指にもほんの少しだけ力が入り、それが合図のように……
トゥールッテルトゥトゥトゥ……トゥールテルトゥトゥトゥ……トゥートゥートゥータタタトゥートゥートゥー……
愁のスマホはまるでシュー……コー……と呼吸して黒い鎧を纏い、赤く発光するエネルギー剣を持って今にも攻めて来そうな感じの音を鳴らし着信を知らせている。
「ッ……!? 」
「ひッ!? 」
二人とも凍ったように身体が固まり、動けなかった。さきも二人の逢瀬を終わらせた曲……
“くッ……またぁッ! 大好きだった僕の
スター〇ォーズ……しばらく見れなくなりそうだっ……”
「ぁ……いいょ、出てあげなきゃ……」
「すいません……少し……」
申し訳なさそうに言って愁は着信に出て、
スマホを抱くようにして、ひっそりと話をする。
「うん……うん……ごめん……じゃあね……
うん……」
どうやら相手はまた愁の弟からのようで少々怒っているようだった。通話が終わり、
スマホをしまった愁はやれやれ、というふうに力なく笑った。
「ぁはは……また怒られちゃいました……
これ以上待たせると、大変そうですから……」
「お兄ちゃんが心配なんだょ……良い弟君じゃない……僕が言うのもなんだけど、早く帰ってあげなきゃ……」
「はい……」
「また、あしたね……」
言いながらに、しゅん……と顔が勝手にうつ向いてしまう、明日の朝にはまたここで会えると心で分かっていても寂しいものは寂しい、
“河邊くんは、寂しくないの……かな……
やっぱり僕だけ……? ”
「はい、では……お疲れ様でした、また
明日……」
ガチャ……
いつものお別れの挨拶、助手席のドアが開く音、愁が助手席から降りてしまうと車体の左側が軽くなって、重心が傾くようないつもの一番寂しくなる時の感覚……
「涼風さん……」
それが無く、耳元の近くでそっと聞こえた
極めて優しく柔らかな声、その声の近さに
違和感を覚え、
「ふぇ……河邊く……んッ……」
ふと顔を上げたところへ、ごくあっさりと
不意打ちの口付け。唇が離れるまでのほんの一瞬、別れを惜しんで少しでも一緒にいたいという気持ちが流れ込んでくるような……
「は……ぁ……もぉ……驚くじゃないか……」
ソファの上で何回も交わしたどれとも違う、
「すいません……明日もまた会えるのに……
いつも、思ってはいたんですけど……今日は、特に寂し……ッ……な、なんでもないですッ……では、また明日……」
そんな口付けを落とした愁は唇を離すと、
照れて伏し目がちに、呟きかけた言葉を流してしまう……
「ぁ……」
なにか、愁の素がちらりと見えた気がした……
“僕だけじゃない……河邊くんだって、おんなじなんだ……”
過去を吐露し、大泣きしても愁は優しく受け入れ、抱きしめてくれた。止まらない涙を、横に寄り添い拭ってくれた。
“寂しいんだ……よく考えれば、お店でだって緊張してただろうし、あんな話聞かされて怖くもなったはずなのに……そんなとこ見せもしないで……”
笑顔を崩さず普段通りにやさしく、歳下の彼は、立派に恋人をやり遂げてくれている。
“いつも……河邊くんは、一生懸命……今だって恋人らしく頼りになってくれてる……最後は、ちょっと……可愛いかったけど……”
「フフッ……♪ 」
そう感じると寂しさなどという些末なものはどこかへ消え、彼に対する色々な好意の感情が胸の中で湧き上がり……今度こそ助手席から降りようとする寂しげな彼の首元に両腕を回し、
「ン……ッ」
運転席から腰を浮かせ唇を重ねる、それは
湧き上がった感情とは真逆の驚くほど軽い口付けで、
「お返し……僕だって寂しいけど……河邊くんと、明日からもずーっと一緒って思ったら
平気だょ……♪ 」
頑張りすぎてブレーカーが落ちそうな愁から腕を解き、子供をなだめるような優しい笑顔 とともに浮かした腰をゆると運転席に戻した。
「一緒……っ……そ、そうですね……」
ぎこちなく頷いた愁は肩から力を抜くように、はぁ……と短く息を吐き、
「一緒……ずっと……」
葵の言葉を何度か反復するたび、さみしそうな表情は崩れ、ふわっと柔らかくなって、
「ずっと一緒……ぁはっ……♪ 涼風さんに、
そう言ってもらえると嬉しいです……」
深い紅玉色の瞳を細め、ふんわりと唇を緩めた、とろけそうなほど甘い、いつもの笑顔になって……
「う……ん……じゃあ、おつかれさま……
だね……気をつけて帰るんだょ……」
「涼風さんもお気をつけて……では、
おやすみなさい。」
いつものように別れの挨拶を交わし、車から降りた愁。閉められたドアの前に立ち、屈んで窓越しに手を上げているので……
“可愛いとか思ったけど……別れ際にあんな……
笑顔だけでッ……”
いつものように窓越しに微笑み、軽く手を
ひらひらと振って、いつもより強めにアクセルペダルを踏み込む。
ドッドッド……ブォォォッ! プシュ……ブォォォォォォッ!!
“こんなにドキドキさせて……僕をどうする気なんだぁ……はぅぅッ!? 今日は眠れる気がしなぃ……幸せすぎて死んじゃいそうだッ……”
サイドミラーに映る小さな愁の姿を、ちらと確認しただけで頬が熱くなり、
ブォオォォッ……! ! プシュ…… ブオオオッ!
真紅のシルビアは、そんな葵の気持ちを表現するかの如く軽く鮮やかにギュンギュンと交差点を駆け抜け、帰路を道交法の範囲内で
加速し疾走する。
降るような夏の星空を見上げながら夜道を歩いている。この時間帯の住宅街は車通りも少なく安心で、眼から幸せの涙がこぼれ落ちてしまいそうな時には最適のルートだ。
「はぁ……」
“あんな素敵な人が、俺の恋人になってくれたなんて……夢みたい……けど……あれで良かったのかな……? ”
ゆっくりとした足取りで歩きながら、葵との
色々なシーンが脳内で鮮やかに再生され、
“涼風さんの恋人だもの……いつも読んでる小説とか、映画の主人公みたいにしてあげたくて……真似てみたけど……”
ポッ……と顔が熱くなり通行人も誰も居ない
道の端なのに、手をキュッと握り口元を隠してしまう。それは特に恥ずかしいと思った時にする愁の昔からの癖だ。
“恥ずかしかった……お店でだって、笑って
誤魔化せたとは思うけど……一度厨房に行って冷静になれなきゃ、ドキドキで膝から崩れそうだった……”
考えていると何となしに足取りが速くなっていたようで、
“その後も、あんないっぱいキスしちゃって……いや……あれはされたのか……? とっても気持ちくて……凛の着信が無かったら……
もっとしてたかも……”
夜空を見上げていた視界の中に、自分の家の屋根が見え始めた。
“さっきも子供っぽかったかな……涼風さんと離れたくなくて、寂しくて……つい本音が出てしまった……もっと大人にならないと……”
門扉をガチャリと開けたあたりで、家の二階からタン、タン、タン……と階段を軽快に駆け降りてくる音がして、
“凛かな……あっ、凛にもたくさん心配かけちゃったから……さっきもだいぶ……”
玄関の前に着いた途端、バンッと勢いよく開いた扉から思った通り凛が出てきて、
「はぁ……もおッ! 心配したよ兄さんっ!
何処で何してたのっ!? 」
「ぁはは……ただいま、凛。 ちゃんと連絡したじゃない、遅くなるって……さっきも電話でお話……」
「むーっ! 僕がするまでなんもなかったじゃないかッ!! 兄さんに何かあったんじゃないかってッ……」
兄を案じ過ぎるあまり、普段の落ち付きを失ってしまったようで、イライラしているのか気持ちが大きな声となって出ている。
「心配かけてごめんね、父さんと母さんには伝えてくれた? 」
「それは、もちろん伝えたよ……全然心配してなかったけど……でもッ、僕はっ……」
涙ぐみそうになり唇を噛みしめる凛、悪いとは思いつつ、そこまで心配してくれる弟に兄としては嬉しくなり、
「ふふっ……♪ 心配ありがと……でも、一応
お兄ちゃんなんだから、ちょっとくらい信用してよ……ね? 」
手を櫛のようにして柔らかい毛の中に入れ、わしわしと撫でると、
「ぁ……ぅ、兄さ……ん……ァ……」
泣きそうだった瞳を気持ちよさそうに細め、もう限界と言わんばかりにいきなり胸にすがりついてきて、
「んッ……し、心配したんだから……
ちょっとは……反省してよ……バカ……ぁ……」
「ごめん……今度からはちゃんと遅くなる前に連絡するから、ご近所さんに迷惑かけちゃうかもしれないし、中に入ろ……ねっ? 」
「ん……入る……けど、僕を部屋まで抱っこして連れてってよ、待ち疲れたんだし……これは罰なんだからっ! 」
話ながら愁の胸に置いていた両手を首元に回している凛は拒否されるとは思っていないようで、
「はいはい……♪ 」
もちろん、そんな可愛い弟に言われれば兄として愁に拒む事など出来る訳もなく、嬉しさに揺れて反射的に微笑みを浮かべ、
「もー、返事は一回だよ! 」
「ふふっ……♪ はい、承知しました。 」
「よろしいっ♪ じゃあよろしくね兄さん……
出来るだけゆっくり、やさしくだよ? 」
要望に応えヒョイ……と凛の膝裏をすくい上げると、お姫様抱っこのような形になり両手が塞がってしまう。
「ドア開けてくれる? 」
「うんっ……♪ 」
お願いをすると凛は腕を伸ばし玄関扉を開け二人は家の中へ、
「ただいま。」
「おかえりなさい兄さん。えへへッ……なんだか新婚さんみたいっ♪ 」
「クスッ……♪ そうだね……」
片方の靴を脱ぎ、脱いだ足でもう片方の靴を脱ぎ器用に靴を揃えつつ、耳を澄ませても廊下奥のリビングからは音がない。
「あれ、二人は? 」
「んー、多分いま寝室だよ、今日は新作映画の配信日だから二人で鑑賞会してるんじゃない? もぉ、親なんだからもっと兄さんの
心配したらいいのに……」
「夫婦仲がいいのは良いんじゃない、それに俺にはこんなに心配してくれるカワイイ弟がいるから、十分だよ♪ 」
二階への階段をトン、トン、トンと登りながら、言われ、抱えられた凛は腕の中で子猫のように悶えている。
「そんなの……当たり前でしょ……大切な兄さんだもん……」
「ふふっ♪ ありがと、とっ……」
そんな凛を微笑ましく感じ、気づけば凛の
部屋の前、
「また、ドア開けてくれる? 」
「ぅ、うん……そういえば、兄さん……あの
……」
凛はまたも腕を伸ばし自室の扉を開けながら、いつになく緊張していて、唇は震え両脚に力が入っている。
「ん、なに? 」
「ぁ……の、告白……まだ……僕、聞いてないんだけど……今朝の言ってたやつ……」
「あっ……」
“そっか……それで……”
ポスッ……とマシュマロのようにふかふかで、一人で寝るには大き過ぎるベッドに寝かせると、凛はコロりとこちらを向く。
「今なら、二人っきりだし……静かだし……
今なら……」
「うん。」
助言し、後押ししてくれた弟、きっとその
結果を知りたいのだろうと愁は思い、
“そうだよね……色々あったけど……ほとんど凛が教えてくれたこと……凛がいなきゃ……”
子供を寝かしつけるように、若しくは兄として弟を愛でるように、髪を優しく数回撫で……
「ぁ……あ、兄さん……とうとう……僕の……」
「うん、凛のおかげで……とうとう俺にも
素敵な恋人が出来ましたっ♪ 」
「うんっ♪ これから僕らは兄弟を超え………ん………………? 」
恩人のような凛に告げた。凛はそれを聞いて全く動かない、強いて言うなら理解が追いつかない……嬉々としている愁とは正反対に、
無表情のまま蝋石のように固まっている。
「ありがとうっ! 兄ちゃん照れてしまって……他にも色々あって、凛のアドバイス通りにはいかなかったけど……でも、本当に……」
「ん? ん……? ん……? 」
“凛……驚いてる……そうだよね、本当は全部
話したいけど、もっとゆっくりした時に話そう……”
そう思い、表情と一緒に固まっている凛の
身体にふわっと布団を掛けてあげ、
「ごめんね、兄ちゃんもシャワー浴びて寝るからさ、今度時間がある時にゆっくり話すよ。」
「ん……うん……」
「本当、兄ちゃん凛みたいな弟がいてくれて嬉しいよ……」
「うん……ん……? 」
布団から顔だけを出し首を傾げてみせる凛は、なにか腑に落ちないというような感じでジーッと見詰めてくる。
「電気は点けとく? 」
「うん……」
「そう、じゃあ……おやすみ♪ 」
「おやすみ……」
その姿をずっと見ていたいが、電気は点けたまま部屋を後にした。明日を考えると、自分の胸のドキドキが自ら聞けるほどに喜んでいて、
“早く会いたいな……涼風さんの笑った顔が
もう恋しい……”
自然と口元をほころばせながら、タッ、タッ、タッ……とリズミカルに階段を降りていった。
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